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老眼。  作者: 鳥田 エリ
3/3

【後編】


チュン、チュンと小鳥さえずる4月の朝は快晴じゃ!


 茂じぃは郵便受けの新聞を取りにいくという日課をこなし、リビングのテーブルの上に広げた。

 そういえば、斜めお向かいさん一家も“すてぃほーむ”しているのか、しんと静まり返って最近顔を合わせることもない。

 そして嫁の順子は相も変わらず布団の中でお休みじゃ。


 しかし、このごろどうも茂じぃの老眼はますますひどくなってきたようで、老眼鏡をかけた上に虫眼鏡で拡大しても新聞の細かい文字が読みづらい。

 茂じぃは新聞の見出し以外の活字を読むのをあきらめて、ブチっとリモコンを操作した。テレビという映像と音声の情報に頼ることにしたのだ。



  ババババーン!!



 いきなり静かだったリビングに火曜サスペンスなみに緊迫したBGMが流れる。いつもの朝のワイドショーが映し出すその光景は、まさに“戦場”そのものだった。

 昭和10年10月10日生まれの茂じぃは、まだ幼かったので直接の戦争体験者とはいえない。

 しかし、徴兵された父や母に繰り返し聞かされた“戦争”とは、きっとこういうものだったのではないかと思う。

 それは、新型コロナウィルス患者を受け入れる専門病院の特集で、凄惨な医療現場の実態が報じられていた。


 次々に運び込まれる重症のコロナ患者。満床のベットの間を走り回る看護師たち。

 慢性的に不足するマスクや消毒薬。防護服がないので、カッパやビニール袋をかぶって治療にあたる医師たちがいる。

 秒単位のスケジュールに追われた勤務は12時間をこえ、それでも救急車で運び込まれる患者が途絶えないため、帰るタイミングを見出せない。


 看護師が一人感染して休めば、現場に残された看護師の負担は2倍に増える。

 感染した看護師には、重度の感染者のエリアを担当させ、まだ感染していない看護師には、発症の疑いのある患者や、回復期の患者を受け持たせる。

 そんな指示をだしたとされる病院の院長が、非人道的だとマスコミにたたかれていた。



 『 東 西 市 民 病 院 』



 病院の名前のテロップを見つけて、茂じぃは、あっ!と叫んだ。

 嫁の順子さんの勤めている病院ではないか!?

 マスクと目のプロテクターで顔は分からないが、もしかしたらテレビに映っていたのかもしれない。映っていないのかもしれない。知らんけど。


 しかし、こんなにも過酷な現場で勇ましくコロナと戦って、患者の世話をしてみんなのために頑張って……。

 そういえば、インタビューでウィルスを持ち帰って、家族や身内へ感染させてしまわないか気を使っていると、話していた看護師がいたわな。

 もしかして順子さんが、わしらとあえて顔を合わさなかったのは、家族に感染させないためか!?

 どこかをほっつき歩いて遊び倒しているなんて、早とちりでおっちょこちょいな、わしの全くの誤解じゃったわい!


 茂じぃはそのあと、自分の部屋にこもって大泣きしていた。

 順子さんや。あんたはどこに出しても恥ずかしくない自慢の嫁じゃ。

 好きなだけ寝ていてもええ。掃除や料理は家にいるヤツらに任せろ!

 どうかコロナに感染せぬよう、ゆっくり身体を休めて、この緊急事態にお国のために立派な働きをしておくれ。

 茂じぃは、洗濯物の中にまた紛れ込んでいた順子のEカップのブラジャーを握りしめて、ぐしゅっと涙と鼻をそれで拭った。


 順子がもし見つけたら、不愉快極まりないと怒り出しそうな光景ではあるが……。


 茂じぃはいま、順子のブラジャーと共に自分の幸せを握りしめる。


 だらしない格好をしてしていた長男の弘一も、変な名前だと覚えられなかった孫たちも、みんなそれぞれに、しっかりとようやっとる。

 そして専業主婦ではないが、順子は町内一、いや日本一の嫁っ子じゃ。


 みんなちょっと変わってはおるが、とてもよい家族ではないか。


 すてぃほーむしてみて初めて気付かされた真実。

それは、遠くの他人や表面ばかりがよく見えて、近くの身内の素晴らしさが細かく見えていなかった茂じぃの、心の老眼に度数の合ったメガネを与えてくれた。


 よっし!と、茂じぃは一つの決断をした。


 順子の気配はないので、今夜は夜勤のはずである。

明日の朝、順子さんが帰ってきたら、海苔を巻いたおにぎりと、婆さんが作ってくれた温かい味噌汁をまねて作って出してやろう。


 茂夫85歳も、ただ食うて寝てクソして、テレビにお守りされているだけではいかん。この非常事態にジジィなりにできることを成し遂げねば。


 孫のライオン、いや玲音れおんと共に、料理系男子の星を目指すんじゃ!



※※※



 その頃、斜め向かいのご近所さん宅の雰囲気は殺伐としていた。


 緊急事態宣言が発令されて、スーツメガネの夫が自宅勤務になってからというもの、その性格の几帳面さや神経質さに、専業主婦の妻はイライラを募らせていた。


 市役所勤務の夫は朝の7時半に送り出してから、印で押したように7時半に帰ってくる。

 その間、お昼のママ友とランチ、韓流ドラマ鑑賞、スポーツジム通いと毎日何不自由なく羽を伸ばした生活を送れていたのに。


 夫はお茶一つ自分で煎れない人間だ。お昼に袋ラーメンを出したら料理の手抜きだとか、リビングのソファの後ろに埃が溜まっているだとか、うるさいったらありゃしない。まるで姑か!?


 おまけに、ひとり息子の一輝は、有名私立中学のお受験に向けて塾に通い頑張っていたが、コロナのために塾は閉鎖。入学試験も延期になって今後の見通しも立っていない。


 小さい頃から親のいうことをよく聞く素直で大人しい子だった。そのぶん反発心やそれに伴う自我が育たなかったとも考えられる。

 “お受験”という親の期待を乗せたレールから想定外に外れてしまった今、突発的な出来事に耐えられない彼は、誰とも口をきかなくなり、部屋に引きこもってしまった。


 こんな家にいると煮詰まってしまう。気晴らしに出かけたくても、ランチは自粛、スポーツジムは閉鎖しているので家から逃れることもできない。


 その日も彼女は一輝がこうなってしまったのは、お前のしつけが悪いからだとか何とか、夫と口論になり、夕食の支度の途中で天ぷら油を火にかけっぱなしにしていたことを、すっかり忘れてしまっていた。


 そういえば、ガスコンロとセットになっている火災報知器の点検も、コロナで業者が来ていない。


 メガネスーツの夫が妻の髪を掴み壁に頭を叩きつける。専業主婦の妻も負けじと体勢を立て直し、料理皿を夫に投げつける。



  ガシャーーン!!



 と、瀬戸物が割れて飛び散る大きな音が台所を振動させた。

 一輝はそれでも部屋から出てこない。


 天ぷら油から火が出て、それに誰も気づかぬ間にメラメラと燃え広がってゆくーー








「お、おおー、火じゃ、お向かいさんから火が出とる!

早く誰か、110番!いや119番じゃ!

おーーい!弘一、玲音、いるかー

順子さーん!

バケツに水入れてもってこい、119番に電話するんじゃ!」



おわり


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