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老眼。  作者: 鳥田 エリ
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【前編】

年寄りには、年寄りの世界があります。


 歳をとると老眼という眼の老化現象のように、遠くの他人はよく見えるが、近くの身内の気配りや心づかいには気づきにくくなるものである。


 茂じぃは今年85歳になる後期高齢者の老人で、老人なので類にもれず老眼である。

 子供の頃から勉強などせずに、田畑で遊びまわっていたので目は良かった。それが災いして40代後半からますます遠くはよく見えるようになったが、眼鏡がないと近くの文字はぼやけて見えていない。

 それが40年近く、毎年毎年、着々と進行しているのだから老眼の中の老眼である。かなりの重症であろう。


 茂じぃは茂夫という。茂夫がじじいになったから、茂じぃと家の者は呼ぶようになった。

「いってきます。おとうさん」

 そう礼儀正しく頭を下げて、パリッとした背広に黒縁のメガネをかけて、早朝に家を出て行くのは、茂じぃの自慢の息子………ではない。

 斜め向かいのお宅の、市役所の納税課に勤める息子と同い年ぐらいのご近所さんである。

 今朝は、新聞を取りに出て門の前で鉢ち合わせした。

“おとうさん”は、近所の年長者に対する共通の親族呼称だろう。

 対して、茂じぃの息子の弘一は、髪は茶色でボサボサで、似合うと勘違いしているのか不精な顎ひげまで剃らずに生やしている。

 五十前に堅実なサラリーマン勤めを勝手に辞めて、あぃてぇ関係のべんちゃー起業を悪友と設立したとかで、年柄年中、派手な絵柄のシャツと破けたジーパンで出社している。

 ああ、丹精込めて育てた我が長男がこの有様とは、長生きしたのに世も末じゃ。のう、天国の婆さんよ。なんと嘆かわしいことか。

 折り目正しい立派なスーツメガネのお隣さんの、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわ。


 茂じぃが、ご飯と味噌汁の質素な朝食を、たくあんをバリバリかじって終えると、


    パン パン パン


 と、澄み切った青空に心地よいリズムが響く。

 斜め向かいのご近所の奥さんが、布団を干して叩く音である。

 スーツメガネの奥さんは、茂じぃが常日頃から“主婦の鏡”だと思っている“専業主婦”である。

 じょせいのしゃかいしんしゅつだとかで、外に働きに出るなんてバカげたことはせずに、しっかり亭主の留守中に家を守る。なんと立派な妻であり母であることか。

 対して、ウチの嫁の順子は、布団を干すどころか、まだ布団の中で寝ていやがる。

 なんでも今朝は夜勤明けだとか。

 普段でも帰りが遅いからと夕食はほとんど店や物を買って帰ってくるだけじゃし、看護婦でちょっとべんちゃー企業の息子より年収が高いからといって、それは家を守る主婦としてどーなんじゃ。のう、順子さんよ。


 それに、茂じぃには、どうしてもできないことがあった。

 孫たちの名前を正確に読み書きすることである。

 高校3年の受験生の兄は、玲音れおんといい、中学2年の妹は陽葵ひまりという。

 男児の名前は《夫》か《男》女児なら《子》か、ちょっと洒落てて《美》でしめるのが、茂じぃの時代の一般的な名付け方である。

 常用漢字をふつうにしか読めない茂じぃは、どうしても“玲音“のことを、

「れお……いや、おれ。俺とはちょっと変じゃのう。ここは、れぃー、れぃ。ちょっと、こっちに来てくれんかの」

と、勝手に別の名前をつけていた。

 もちろん“陽葵”も読めないし、記憶力が衰退しているので、ちゃんと覚えることもできない。

「ひまー、ひまー。暇なんとかじゃったかな。そうじゃ、思い出した!ひまわりじゃ」

 聞こえてはいるのだろうが、妹に“ひまわり”と呼んでも返事も返ってこない。

 仕方ないので、茂じぃは孫たちのことを“お兄ちゃん” “お姉ちゃん”という、無難な親族呼称で呼ぶことにしている。

 まったく、自分の子も含め最近の親どもは理解できん。子供が一生背負っていく、親の願いをこめて付けるべき名前をきらきらねーむとか、わけのわからん当て字で汚しよって。

 まことにけしからん。まったく世も末じゃ。


 それにしても、斜め向かいのご近所さんの一人息子……今度、有名私立中学をお受験させるんだとかゆうとったあの子は、わりとまともな名前じゃったのう。

 たしか、覚えちょるよ。

一輝かずき』君じゃ。

 “一”という字は昔から跡取りの長男に付けるべき漢数字じゃし、“輝”は、光り輝くの“輝”じゃ。光り輝く長男の一、それならまだ分かる。それは、ありじゃ。きっと名前のように立派な日本男児の跡取りに育つんじゃろう。


 しかし、それに比べて自分の家族だけがどいつもコイツも、こんな理解不能なろくでもないヤツらばかりとは。

 まったく、まったく八十五年生きてきたなかでも想定外の不幸じゃ。情けなくて、情けなくて、いっそ死んでしまいたい。先に逝った婆さんに早く迎えに来てもらいたいと仏壇に手を合わせて祈るだけの毎日じゃ。


 さて、年寄りのお供とお守りをするのは、なんといってもテレビである。

 この日も、茂じぃは午後からくちゃくちゃ甘納豆を噛み砕きながら、つけっぱなしのテレビが映すワイドショーを眺めていた。

 その時、ふいに画面の中がざわざわと騒がしくなり、赤い大きな6文字が目に飛び込んできた。


  『 緊 急 事 態 宣 言 ! 』


 茂じぃは真っ先に、大きな地震が津波が起こったのだと思った。

 長い人生経験のなかで、緊急事態とは、伊勢湾台風か阪神・淡路大震災。

 いや、幼い頃に母に連れられて防空壕に逃げ込んだ空襲警報か?


 おや、待てよ。

 “新型コロナウィルス”

 なんじゃ、疫病か?年寄りはかかったら重篤化とか、えっ、死亡!コロリと死ぬのか、コロリ…コロナ?

 コレラじゃろうか、なんだか知らんがヤバそうなヤツがやって来よったわ。


 コロリと死んじまったら年金の振り込み日に、好物のあんドーナツを買い占めてたらふく食う楽しみもなくなるのう……。

 自治会館の使い放題のカラオケで、敬老会仲間のトシやカズと、のど自慢もできんわい。

 マイクを取り合う相手が一人減って、あいつらの二人舞台じゃ。

 それはいかん、わしが許さん。わしにも歌わせろ!

 早く婆さんに迎えに来てくれとは祈ったものの、あれはやっぱり取り消しじゃ!

 本心は、まだ死にとうないわい。


 よし!ここはナントカ知事がテレビでゆうとるように、三つの密を避けて、マスクして家で大人しくしていよう!

 85歳の茂夫は、これから、すてぃ・ほーむするんじゃ。



〜〜 高齢者の皆さん、緊急性のないいつものお薬をもらうだけの通院や、必要性の薄いおやつの買いだめは極力控えて、手洗いうがいマスクをして、大人しくお家にいましょう 〜〜


                    【つづく】



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