それは短剣じゃないです包丁です
キッチンに戻った樹里は、冷凍庫からラップにくるまれたご飯を二つ取り出すと電子レンジに入れ、温めボタンを押した。
ブーンという鈍い音をBGMにフライパンを見れば、慌てて火を消した甲斐もあって卵は半熟一歩手前というところだった。
コンロのつまみを回し、少ししてフツフツという音がBGMに加わったのを聞きながら、いつもは一つしか用意しないどんぶり鉢を二つ、棚から取り出した。
両手にある重さが樹里の心を擽り、自然と彼女に笑みが浮かんだ。
どんぶり鉢を置くと、タイミングをはかったように電子レンジのピーッと電子音が響いた。その瞬間、樹里は物凄い力に引っ張られ、視界が傾いた。目を瞑る暇もなく彼女の身体は逞しい身体に包み込まれる。鼻はぶつからなかった。
元凶を見上げれば、彼はただ一点を睨み付けていた。
ゲームのスチルにありそうなワンシーンを今まさに体験している。女性を守るように抱き寄せ、鋭い視線で刃を向けるその姿は正しく騎士だ。
しかしここは城ではなく草野家のキッチン。響いたのは警告音ではなく温め終了音。何より敵対するは電子レンジ。ときめけという方が無理な話だ。
こういう姿をマヌケだと思う日が来るとは……。
未知のものに警戒心を向けるその姿は騎士などではなく……正しく野良猫だ。
樹里が大柄な野良猫の肩をパシッと叩くと、猫だましを食らったような表現を向けられた。
とりあえず……その手に握っている包丁を置いてくださいませんかね。なんとなく怖いから。
そんな思いでゆるゆると首を左右に振れば、樹里を抱いていた腕が緩んだ。その隙を逃さずするりと脱け出した樹里は、彼の視線を犇々と感じながらも流れるような動きでレンジから熱々のご飯を取り出し、それからどんぶり鉢に盛り付けていった。即席だが味噌汁も用意した。
四人掛けのダイニングテーブルに向かい合って食べた親子丼の味は、いつもと同じ味付けのはずなのによく分からなかった。
樹里に倣いアランが「いただきます」と手を合わせて言うと、両者黙々と食事を進めた。木製の箸と陶器が触れる音、金属スプーンと陶器が触れる音、そんな空間を埋めるように時計が時間を刻む音を響かせていた。
結局、「ごちそうさまでした」と手を合わせるまで会話はなかった。食器を運ぼうと席を立った樹里の後ろを、アランは雛鳥よろしく付いてきた。そんな彼の手から食器を受け取った樹里が何も言わずに空いた手に音声翻訳機をのせると、彼は心得たというように一つ頷き、リビングにある三人掛けのソファーへ移動していった。
シンクに両手をついて小さく息を吐いた樹里がレバーを上げれば、忽ち蛇口から水が流れ落ちていき、周りの音を遮断した。
後片付けを済ませた樹里がソファー見たのは、音声翻訳機に話し掛けているアランだった――ラテン語ではなく日本語で。
自動翻訳は装備されていなかった彼だが、頭脳はお約束通りチートだったようだ。翻訳機から流れる日本語を繰り返しながら、尋常じゃない早さで日本語を習得していた。
それを見た樹里は漸く、自身を苛んだ違和感に思い至った。
機械の日本語は丁寧で、だからこそそれは彼のイメージに齟齬をきたしていた。
お手本のような日本語は彼が使うには丁寧過ぎた。特に一人称が。
近衛騎士だから一人称が「私」でもおかしくないはずなのだが、樹里の中では彼の一人称は「俺」と決まっていた。「俺」以外のイメージがないのだ。どうして「俺」に拘るのか樹里にも分からなかったが、どうしても「俺」じゃないと気持ち悪かった。
あとで絶対「俺」にさせると心に決めた樹里は、ふと見た時計の表示に「あっ!」と声をあげ立ち上がった。
ロードショーの時間!
樹里は先々週からずっと、この金曜日を待っていた。引きこもりの高校生が可愛い幽霊に振り回されながら外に出ていくアニメ映画で、その当時樹里は映画館で観ては泣いて観ては泣いてを繰り返していた。それはもう大好きな作品なのだ。
アランを押し退けるように慌てて隣に座った樹里は、触れ合う太ももに身体を硬直させたアランなど一ミリも気にせず、ローテーブルに置いていたリモコンでテレビをつけた。
画面が動いて音声が流れたその瞬間、隣の彼がソファーから腰を浮かした。その手には何故か――キッチンの引き出しに入っている筈の果物ナイフが握られている。
いつの間に……。
樹里は躊躇うことなく野良猫の頭に手刀を落とした。