腹の虫は空気が読めない
それはもう生まれも育ちも日本ですといわんばかりの滑らかさだった。滑らかなのだが……拭いきれない違和感が樹里を苛む。
お腹空きすぎておかしくなったかな、私。
だいぶ薄くなった柔らかな出汁の香りが空腹に突き刺さり、樹里は眉をひそめた。その隣で、アランは剣があったであろう場所を暫く見つめていたが、何かを思い出したように急に顔を上げると、真っ直ぐに樹里を見た。彼の瞳がリビングの光に反射してキラッと光ったような気がした。
腹の虫は鳴いていない……はずだ。
咄嗟に身構えた樹里に、アランは至極真面目な顔で言った。
「……名前を教えてください」
グゥゥゥ。
樹里が答えるより先に、彼女の腹の虫が鳴いた。
「「……」」
二人の視線は暫し音源へ注がれたが、樹里が視線を上げずにスッと立ち上がると、アランの視線もその動きに合わせて上に動いた。ついでに彼の左手は腰の辺りで宙を掴み、ピクッと震えた。
樹里はそんな左腕を掴むと、翻訳機と共にドタドタとアランを風呂場へ引っ張っていった。
シャーっと聞こえてきた水音を合図に、樹里は脱衣所を仕切る蛇腹のカーテンを閉め、小さく息を吐いた。
無機質な音声にシャワーの使い方や道具をもろもろ説明させ、服を脱ごうと動いた彼をそのまま風呂場へ放り込み勢いよく屏風開きの扉を閉めた――空気抵抗のせいで扉は大人しく閉まった――ところで、漸く自分の心音に気付いた。バクバクと響いているのは自分の腹の虫のせいか、それともチラリと見えた彼の割れた腹のせいか。
もう一度小さく息を吐くと、腹の虫がもう一度鳴いた。
フライパンから再び出汁の香りが舞い上がる頃、今度こそ卵を流し入れようとした樹里は、ふいに感じた人の気配にその手を止めた。振り返った先、開いた扉からはアランが入ってくるところだった――バスタオルを腰に巻いた姿で。
溶き卵が勢いよくフライパンへ流れ落ち、ジュワァッと熱が通っていった。
父親のクローゼットを無断で漁るのは少しだけ気が引けた。それでも、背後に立ち視線を注ぐアランの方が気になり、樹里は父親の姿を思い出しながらタンスを漁った。
樹里の父親は背が高い。180センチ以上ある背丈、長い脚に長い腕。しかも顔が小さい。所謂モデル体型。実際モデルのバイトをしてたこともあるとかないとか。去年の夏に海で見た父の水着姿を思い出す。しなやかな筋肉がついた体格はマッチョではないがそれなりにしっかりしており、その身体に衰えは見当たらなかった。余談だが母親の身体も形の良い胸に引き締まったウエストと引き締まった小ぶりなお尻という、ボンッキュッポンなパーフェクトボディだった。羨ましい。
それはいいとして。樹里は遠慮なくビシバシと視線を送ってくるアランをチラリと振り返り、露になっている上半身や四肢を観察する。
肩幅は同じくらいだと思う。視線の高さから身長も同じくらい。ただ、ついてる筋肉の厚みのせいか、それとも姿勢のせいか、彼の方ががっしりしているような印象を受けた。腰に巻かれたバスタオルから判断するに、股下は父と変わらないはずだ。
つらつらと考えながら父親の服を拝借していく。ブランドロゴが入った赤いTシャツ、下は灰色のスウェットパンツ。下着は新しいものがいいだろう。
そこまで考えて、樹里ははたと気が付いた。
中世ヨーロッパってノーパンじゃない?
ワイシャツの裾がパンツの役割を果たしていたとかいないとか。そんな曖昧な知識を耳にしたことがあった。一度気になってしまうと気にせずにはいられない。樹里は未開封のボクサーやトランクスを手にしながら悩んだ。
ボクサーはきっとポジション決めに困る。初めてならなおさら。何より締め付け具合が落ち着かないかもしれない。その点トランクスは腰に巻いたバスタオルと変わらないだろう……私には付いてないから分からないけど。
……もしかして褌の方がいいのかな?あるかな……褌。
絶対ないと思いながら父親のタンスから越中褌を探す。因みにブリーフは色んな意味で絶対に、確実に、ない。樹里はブリーフ否定派だ。
結論として、褌はなかった。知ってた。
そしてあれだけ考えたくせに、樹里が選んだのはボクサーだった――これは完全に彼女の好みだ。ダボダボよりピッタリ派なのだ。
満面の笑みと共に着替え一式を渡されたアランは、なんとも理解し難い複雑な気持ちで、樹里が上機嫌に部屋を出ていくのを眺めていた。