自動翻訳ではないタイプの異世界トリップ
男の瞳はすごく綺麗だった。蜂蜜のような色と透明感。
引き込まれるように見つめていたことに気づいた樹里は、カッと顔に熱が集まったのを感じて慌てて男に声を掛けた。
「あの……」
ただし、続きが出てこない。聞きたいことはいっぱいあるはずなのに、何を聞けば良いのか分からないのだ。男の視線がさらに羞恥を煽る。しかし動かした口は言葉を求めてパクパクと動くだけ。
樹里が視線を泳がせていると、男の手が彼女の手首を掴んだ。
「――……――?」
男の言葉は日本語ではなかった。それでも全く聞いたことない訳ではないような気がした。樹里は首を傾げ、その言語がどこのものか記憶を漁る。
男はそんな樹里をじっと見つめながら矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。
「――。――?――?」
イタリア語?いや、スペイン語かな?
うーん……。聞き覚えはあるんだけどなぁ。
やっぱりイタリア語に近い気がする。
男の声をBGMのように聞き流しながら考えていると、突然知っている単語が耳に引っ掛かった。
「それ!」
「!?」
ずっと黙っていた樹里が唐突に声を上げたので、男の手に力が入った。掴まれている手首が痛い。
「今のもう一回言って!」
「――!」
勢いのある樹里の声に、手首を掴む力が緩んだ。痛みに文句を言ったと思われたようだ。多分謝られた。
「違う。それじゃない。えーっと……Dillo di nuovo……?」
「――」
「通じてない!」
イタリア語は通じなかった。といっても、樹里のイタリア語もなんとなくだから合ってるのかは分からない。それでもイタリア語ではないと樹里の中では決定した。
青い狸に蒟蒻を求めたい。何でもいいけど翻訳してくれ。
そんなことを思っていれば、先日ラジオ通販で衝動買いした翻訳機の存在を思い出した。
そうじゃん!あれ使ってみよ!
樹里は手首を掴む手を外しながら「Un monento」と声をかけると、男を残してリビングへ戻った。多分通じてない。
部屋に広がっていた出汁の香りはまだ消えていなかった。ちらりとフライパンを見れば、微かだがまだ湯気が立っているのが見えた。
お腹空いた。あの人もお腹空いてるかな?
思い出した空腹を恨めしく思いながら、ローテーブルにテレビのリモコンやステレオコンボのリモコンと並んでいる音声翻訳機を引ったくるように取り、風呂場へ戻ろうと振り向いたところで顔が勢い良く何かにぶつかった。
「ぶっ!?」
鼻が。鼻が潰れる。
「――!――……?」
彼は樹里の顔を覗くように少し屈んで、頬を撫でた。
ぶつかった先は風呂場にいた男の胸だった。
ここにいるということは、やっぱ通じなかったか。
必死に何か言い募っている男に少しがっかりしながら、樹里は音声翻訳機の電源を入れた。男はまだ何か言っている。
イタリア語ではないけど聞き覚えがある言語。しかもさっき確実に知ってる単語を聞いた。それらを踏まえて樹里が選んだ言語は――ラテン語。
ってかラテン語が入ってるってすごくない?この翻訳機。
ボタンを押しながら男に機械を向けた樹里の瞳は期待に満ちている。
「――?」
男が言いきったところで樹里はボタンを離した。
『それはなんですか?』
きたー!!
彼が話す言葉はラテン語だった。樹里は再びボタンを押しながら、今度は彼女が機械に話しかけた。
「名前を教えてください」
ボタンを離せば機械からラテン語が流れ、またボタンを押しながら今度は男に向ける。
「――」
『私の名前はアランです』
樹里は名前をゲットした。アランくん。今時な名前だ。
親子丼にありつくのはもう少し後になる予感がした樹里がソファーに腰掛ければ、アランもソファーに腰をおろした。
「何歳ですか?」
『――?』
「――」
『二十歳です』
おっと年上だ。
こんな調子でアランから情報を聞いていく。
好き嫌いはないということ。職業は近衛騎士だということ。王様の息子だから本当は王族だということ。しかし母親は市井の人で、数年前に病で亡くなったということ。ここ最近何者かに命を狙われていたということ。
ちょっとした事から込み入った事情まで顔色一つ変えずに機械相手に語るアランを見ながら、樹里は仮説を立てる。
最初はラテン語を使っているくらいだしタイムスリップしてしまったのではないかと考えた。しかし話を聞いてみればそもそもの世界線が違うような気がしてきた。少なくとも樹里が習ってきた世界史には出てこない国名しかない。
じゃあ……まさかまさかのラノベ展開?異世界トリップもの?
これが樹里の二つ目の仮説だ。
樹里が読んできた異世界トリップといえば日本から中性ヨーロッパのような街並みをした異世界へ飛ばされるものばかりだったが、それなら逆があってもいいだろうという安直な考えからこの仮説を立てた。
樹里から見た異世界から日本へのトリップ。彼からしたら異世界へトリップ。
つらつらと考えていると、アランの左手が時々不自然に腰の辺りをさ迷っているのに気付いた。まるでそこにあるはずの何かを触るような動きに、樹里はこの男に欠けているものが何なのか思い至った。
「剣がないね」
ぽつりと呟いた樹里の声に「そうですね」とアランの返事が返ってきた。
「……え!?」
「私も先程気付きました」
……自動翻訳は装備してませんでしたよね?
アランの言葉は流暢な日本語になっていた。