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風呂場は戦場じゃない






草乃樹里(くさのじゅり)のその日も、いつもと同じだった。


いつもと同じ時間に起き、大学へ行き、スーパーに寄ってから帰宅した。


着なれた服は買った当初より柔らかく彼女の身を包み、電車の中で見たネットニュースはくだらない芸能ゴシップとマンションの防犯についての記事で、大学で友達とそれらのネタを交えて実のない話を繰り広げた。


風呂やトイレのハッチにいつの間にか住み着かれるとか怖すぎ。


それから、いつもと同じようにスーパーで奥様方の山を掻き分けながらタイムセールに身を投じ、一軒家の前に立った頃には身も心もヨレヨレだった。


あれは戦場だ。


帰還兵よろしく夕陽を浴びながら鍵を差し込み回せば、カチャッと軽い音が静かな住宅街の空気を二回震わせた。重い扉の向こう、室内は薄暗い。

脱ぎ捨てた靴は揃えずに、ひたひたとフローリングの床を進む。いつもと同じように誰もいない。

感傷に浸ることなく、開けっ放しのままにしていたリビングダイニングの扉を通る。

ここで漸く「ただいま」と彼女が呟いた。当然返事はない。

廊下と違い夕陽が柔らかく差し込んでいるそこは、暗いながらもどこか暖かさを湛えて静かに彼女を迎えた。


リビングダイニングが出汁の香りに包まれた頃、彼女はTシャツ一枚にエプロンという出で立ちでフライパンの前にいた。鶏肉と玉ねぎがいい感じに煮え、そろそろ溶き卵を流し入れようかという時、まだ洗ってもいない風呂場からドスンッという音が聞こえた。ボウルに箸が軽くぶつかりカシャンッと音を立てた。

頭を過ったのは、不審者の存在だった。今朝目にしたネットニュースの見出しが脳裏によみがえる。


そうなると軽率な行動は取れない。そう頭では分かっている。分かっているのだ。ただ、どうしても、どうしても気になってしまう。怖いもの見たさか。

危険と好奇心をかけた天秤は数秒均衡を保ったように見えたが、樹里はガスコンロのつまみを捻った。カチャンと音がした。好奇心に傾いた天秤の音だったのかもしれない。


プラスチックの屏風開きの扉は開けっ放しだ。念のためにとスマホを片手に電気をつけ、そろそろと覗き込んだ先には――傷だらけの男がいた。

男はまだお湯の張られていない湯船に、鎧を外した騎士のコスプレのような格好で納まっていた。


え、これは想定外。


「あの……」


樹里が小さく呼び掛けるも返事はない。


寝てる?まさか死んでる?110番じゃなくて119番案件?


脳内でプチパニックを起こしながら、樹里は恐る恐る人差し指と中指を男の首に添えた。脈はあった。

樹里は小さく息を吐き、青い服の上から肩を叩きながら呼び掛けたがやはり反応はない。しかし女の力ではこの男を動かせないのだ。せめて風呂場の床にいてくれればと思わずにはいられない。


誰に電話するべきか分からない樹里は、とりあえずスマホを脱衣場に置き、男に振り返った。


乱れた黒髪。健康的な肌。体格も良い。――ただしボロボロ。


青い絹のような服には右の袖がなく、切り込みを入れて破いたように糸が解れている。随分ワイルドだ。

衿の部分には金色のアラベスクが刺繍されているがそれ以外に装飾はない。強いて言うなら全体的に土埃にまみれており、刃物による切り込みと泥という装飾が沢山。随分ワイルドだ。

露になっている右腕には切り傷が幾つもあるがどれも深くはなさそうだ。右肩あたりの青布を捲ればやはりそこには切り傷があり、他より少し深いのか出血した跡があった。随分ワイルドだ。


このワイルドさはさながら帰還兵。赴いた先はスーパーという戦場ではない筈だ。

それにしてもこんなにワイルドな男が何故一人暮らしの女子大生の家の風呂場のにいるんだ。


無意識に樹里の視線は風呂場の天井へ向いた。点検扉は閉まっていた。


せめて庭にいてくれればもうちょっと雰囲気があったのに。少なくとも風呂場よりは。


樹里がうんうん唸っていると、男が微かに呻いた。気づいた樹里がすかさず肩を叩きなが声をかけると、閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がっていき、色素の薄い茶色の瞳が樹里をとらえた。






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