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黒猫

作者: 藤城一

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最近、よく黒猫を見るようになった。

私は朝早く、日もまだ水平線から完全に抜け出ていない頃に玄関を出る。扉を開けると、マンション五階からの美しい町並みを一望できるのだが、私はこの景色を見るたびに、胸の奥でどこか徒労感を浴びているような心持ちになるのだった。

すぐ近くのバス停でも、この時間帯だと三十分以上間隔があるので、毎朝決めた時間通りに動いていた。寸でも狂うと、バスに乗り遅れてしまう。

もっとも、一度もないことだったけれど。

黒猫を見るようになったのは、あの日、前日に飲んだ酒が効いていたのか、寝起きが遅かったことが原因だった。焦って用意したけれど、目の前でバスは無情にも、ブロロンと快活にエンジンを働かせて走り去っていってしまった。ため息混じりに時刻表を見、次のバスは三十三分後と、さらに深くため息を吐き出してベンチに腰かけ、ぼんやりとまわりを見わたしていた。朝の町は人気がなく、車は数えるに及ばないほどしか通っていない。別段早朝に出勤する特別な理由なんてなかった。強いて言えば、あまり人と接触するのが好きじゃないからなんだろう。

しばらくベンチにもたれていると、がらんとした目の前の道路を黒猫が、私の方へ向かって歩いていた。黒い毛は、老いた証拠とでもいわんばかり汚れていて、とぼとぼと力なく歩いていた。私の目の前を過ぎていき、背中の公園に姿を消してしまった。それからバスが来るまでに、女性がひとり、ベンチに腰掛けることになった。


それからというもの、体内時計が狂ったのか、よく遅刻するようになった。人が多いこと以外にはこれといった問題もないので、私は一つ時間を遅くした。

私がバス停のベンチに座るその度、黒猫は、毎日、定刻に道路を通っていた。

幾度か観察しているうちに、黒猫がどんな生活をおくっているのか、しんしんと興味が湧いた。おおよそ、毎日の移動は同じことを繰り返していることを表しているに違いない。あの家で朝食、この家の屋根で昼寝、そこの家で夕食、あの家の縁の下で就寝、のように、生活の一環として、毎朝通っているのだろう。なんだか私のようだな、と猫を見て笑ってしまっていた。あの猫は、老いてすら平々凡々な生活を営むほかになかったのだろう。私もそうかもしれない。独り身で、遠くに離れている両親とはここ数年連絡をとっていない。毎朝あの玄関から見える変わらない景色から始め、仕事をし、飲み会や合コンの誘いをことわって帰宅する。買っておいたコンビニの弁当を開け、深夜の番組を見て一日を終える。それの繰り返し。ただひたすらにループする。

黒猫は私に目も向けず今日も道路を渡っていく。


部長に呼び出されたときはまた何か雑用でも持ってきたのか、と思ってしまった。部長は何かと人に仕事を押し付ける人で、常に人の出世道にはばかってきた。その部長が苦虫を噛み潰した顔で、私に昇格の辞令を突き出した。嘲るように微笑んで、私は背を向けた。

ちょうどその頃らに黒猫を見なくなった。いつからかは明確に覚えていない。ただ、辞令を受け取ってからだったと思う。同僚に比べて早くの出世だったものだから、浮かれていたのだろう。他のものが、自分以外のものが見えていなかった。

自分以外に、他のものを見る必要はあるのだろうか。私はずっと疑問に思っていた。小学校か中学校か、いつのころか道徳を教えられた。人を思いやれ、他人を尊重しろ、老人に敬意をはらえ。それは素晴らしく完璧な人間だろう。

しかし、それはある視点を持つことが前提にならなくてはいけない。その人が道徳、啓蒙に満ち溢れていると判断するのは、やはり誰かしらの人間であって、客観という主観に基づくものにしか過ぎない。仰々しく例えるなら、完璧な人間というのは、その主観になる人の都合のいいロボットと言えるだろう。

それなら、他人など自分の生活に無意味な存在だ。社会を形成してくれているただの助手でしかない。踏み台になるくらいでちょうどいいのだ。

黒猫は、踏み台になったのだろう。

踏まれて踏まれて、時間だけが経過し、身体は老いて行く。精悍さの欠片もない。

そして力尽きた。地面に伏せた。動くことはない。そうだろう。

バスが来るまでに、ひっそりと心で哀悼した。


仕事で別段困ることはなかった。ただ淡々とこなしていけば、上からお褒めの言葉が降ってきた。傘を差しても、足だけは濡れるような、そんな感じだった。

同僚からは段々と避けられていった。こちらも別段変わらない。避けていたのが避けられる側に転身しただけのことだ。

部長は廊下なんかで私の顔を見る度、何か付け狙うスパイのように眇めた汚れた目を向け、すぐにそらした。私は気にも留めずにいた。

嬉々とした心持ちも、いつぞやに消えてしまい、また繰り返すだけのループになっていた。

もとの早い時間に戻し、バス停のベンチに座るそんなとき、黒猫を思い出している。


いつもは乗り過ごすことなんてないのだけど、最近買った本を読んでいるうちに、ひとつ先へ行ってしまった。七時を過ぎたほどというのにあたりはすでに暗く、閑静にたたずんでいた。私の住むマンションまでは、バスの通った道をたどって戻ればすぐ着けるので、仕方なく歩くことにした。

こちら側、というよりも、この地域のこと自体よく知らない身で、まわりが新鮮に思えていた。夜の町がこんな空気を孕んでいることに、久しく気付いて、なんだか少し軽い心持ちになった。

民家の前を過ぎようとしたとき、老婦人の声が、おおよそ呼び名から推測するに、猫の名前を叫んでいた。のどかだなあ、と頭に思った刹那、私の目の前を何かが素早く通り過ぎて、その老婦人の家に、生垣の穴から入っていった。それから老婦人の歓喜の声が聞こえた。ああ今のは猫だったんだなあ、と、興味本位にちらと覗いて驚いた。

縁側に座る老婦人の傍には、あの薄汚れた黒猫がいたのだった。

間違いなかった。全身黒ずくめで、貧相な空気を持ち合わせている、あの通りを渡る黒猫だった。

顔にさらにしわをつくるように笑顔の老婦人は、その汚い背の毛を撫でていた。もうどこ行っていたの、心配したわよ、ずっとうちにいてくれるんでしょう。

黒猫に話し掛けている内容から、どうやらこのうちで飼われているようだった。

死んだわけではなかった。そういうことになるらしい。猫は生きている。なぜか、頭の中が混乱していた。

気がつくと、老婦人が私を訝しげに見つめていた。

慌てて目をそらし、小走りで道に戻った。


家についても頭の中で、様々な思考がぐるぐると渦になっていた。でも、渦の中心にはただぽかりと穴が開いてあるだけなのだ。全てがその中に吸い込まれてしまう。

老婦人と猫の光景が、フラッシュバックのように頭で明滅する。

どうしたんだろう。黒猫は私と同じように、永遠のループを漂泊するだけの生き物なんじゃないのか。断ち切られることがあっても、粘っこく、また再生してしまう。変わることなく、特別な感情さえ稀にしか抱けない環から、抜け出したのか。

黒猫は、老婦人に撫でられ、気持ち良さそうにしていた。老婦人は笑っていた。

幾度も起こるフラッシュバックが、私を照らしていた。

私は間違っていた。黒猫は踏み台なんかじゃなかった。踏む側でもなかった。本当の意味の自由をもって、生きていたのだ。それは多分、私が一番、今欲しているものなのだろう。

着替えないまま、私はそのもどかしい頭を冷やそうと、コップ一杯の冷水を一気に飲み干した。喉が一瞬凍るようにして、身体の火照りが冷めていった。

大分落ち着いた心持ちで、テレビの電源を入れると、動物の番組がやってた。犬が女優と一緒にじゃれている映像だった。

もしかしたら、私は猫が好きなだけなのかもしれないな。

そう思い始めると、なんだか本当にそんな気がしてきた。

そうだ、次は動物の飼育が可能な物件を当るとしよう。

私は次の昇格をはかって、白い猫を飼っている自分を思い浮かべながら、独り笑っていた。


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