飾り窓の女
風も吹くなり
雲も光るなり
生きてゐる幸福は
波間の?のごとく
漂渺とたゞよひ
生きてゐる幸福は
あなたも知ってゐる
私もよく知ってゐる
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり
―――――――――「放浪記」林芙美子
オランダは世界で初めて、売春を合法とした国だという。
アムステルダムなどには「レッドライト・ディストリクト」と呼ばれる場所がある。そこでは運河を挟んだ通りに沢山の建物が立ち並び、それぞれの建物のショー・ウインドーのような窓=「飾り窓」の向こうに女達が立つ。貧乏くさいブラックライトやピンクの灯りに彩られた狭いスペースで、女達はポージングする。男が女達の品定めをして、部屋の入口で交渉が成立すると中に入り、カーテンが閉められて、事が始まる。
男が女を買う。そんな場所だ。
ぼくは一度だけ、女性を買った事がある。
買ったという表現が当てはまるのかは疑問なのだけれど、彼女とぼくの間には幾ばくかの金銭の授受が発生したのは確かだった。
それは三年ほど前の秋の初めの事だった。
つき合っていた女の子と別れたのと同時ぐらいに仕事が急激に立て込んで、それで気分が紛れたのまでは良かったのだけれど、ほぼ毎日、終電で帰るような生活を強いられた。
いい加減くたくたになっていたある日、最寄駅までの終電まで逃してしまい、ぼくは終点の新宿駅で放り出された。
たまたま金曜日だった。このまま朝までどこかで飲むか、それともネットカフェででも時間を潰すか。どのみち、独りの週末を過ごすだけなのだった。
ぼくは本来向かうべき方向とは逆の、新宿三丁目方面へとふらふらと歩き始めた。
真夜中になろうというのにまだ通りは人が大勢おり、あちこちで嬌声が聞こえ賑やかだった。世間の夜はまだ始まったばかりだとでも言わんばかりだった。週末ならこんなもんかと思いながら、もう随分、外で夜明かしなどしていないなと考えていた。
伊勢丹の前辺りまで来ると幾分人の数も減った。この老舗高級デパートは、移り変わりの早いこの新宿で、今では貴重な古風な外観を保っていて、その昔ながらの額縁のような飾りを四辺に施したショー・ウインドーは、そこだけ現代から切り離された空間のようにも思えた。もっとも、中に飾られているのは最新のブランド・ファッションのコンセプト展示や高価そうな宝飾品なのだけれど。
そのショー・ウインドーからの照明を浴びながら、一人の女性がゆっくりと歩いて来た。
建物を支えるがっしりとした支柱の陰に消えたかと思えばまた現れ、すっとまたショー・ウインドーに近づき、時折歩を止めてウインドーの中の高級な品々を見ては、また少し戻り、歩く。そんな動作の繰り返しだった。
一人でダンスを踊っているようにも見えた。
女性はショートカットで、夜目にもよく見える高そうなピアスをしていた。胸元が少し開いた綺麗な色のワンピースを着て、走ったらすぐに転びそうなハイヒールを履いている。
とても素敵なひとだった。
こんな時間に独り歩きなんてあぶないですよ。なんだか惨めな気分になったぼくは、目を合わせないように視線を泳がせながら、口の中でぶつくさと言った。
そばに近づいてくるにつれ、彼女の唇が動いているのが分かった。ぼそぼそと何かを呟いているのだった。
すれ違いざまに、その内容が聞こえた。
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり
女性はそう繰り返し呟いていた。
ショー・ウインドーとビルの壁にその細い指を這わせながら、ヒールの音をかつ、かつ、と響かせ、女性は行き過ぎようとしていた。
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
どうにも気になって、ぼくは立ち止まり、振り返った。
と、彼女もぼくの方を向いていた。そして悠然と近づいてきた。
目を合わせようとしなかったでしょう。
彼女は探るような目でぼくを見た。首を少し傾げると、すっとした首の線が美しかった。
おかしな人だと思った?
いえ、そんな事、ないです。
ぼくがしどろもどろで答えると彼女は楽しそうにくすくすと笑った。
ヘンだよねぇ。ヘンだもん。
やはりこの人はおかしな人なのだろうか、とぼくは考え始めていた。そこに追い打ちをかけるように、彼女は言った。
あたしを買ってくれない?
は?
紛れもなくぼくはこの時、こう言っていたと思う。普段の人づきあいでは失礼になると思い、あまりこの手の返事はしないのだけれど、それ以外に訊きようが無かった。或いはぼくの疲れた心身が、そんな風に聞き間違えたのではないかという危惧もあった。
彼女は自分を指さして、もう一度言った。
あたし。買ってくれない?
すらりと長くて細い指だな、とぼくは思った。ネイルなどはしていないにも関わらず艶のある、薄い桜貝のような爪だった。
はぁ。ぼくは気圧されるような感じもあって、そう応えた。
そう?じゃあ決まり。にっと女性は笑顔になった。笑うとちょっと幼く、いや実際の年齢など知らないのだけれど、あどけない印象になった。
幾らで?持ってるんでしょうね。
これでは押し売りだ。ぼくは踵を返して逃げようとしたけれど、女性のやけに長い手の方が動きは早く、襟首を掴まれ引き寄せられた。ほんのりと、アルコールの匂いがした。
財布。見せなさい。
どうして見せないといけないんですか。
幾らで買ってくれるのか解らないと困るでしょ、色々。
何が困るというのだろう。
ほら、と促され、ぼくは渋々上着の内ポケットから財布をとり出した。
すぐに例の長い手が財布を掴んでいった。
あら、意外と持ってンじゃない。
使う時間が無いのだ。ここの所食事代ぐらいしか使っていない。休日は大体寝ている。
じゃあとりあえず、三枚。
彼女は財布から万札を三枚抜き取って、ぼくの顔の前でひらひらとやってから、丁寧に畳んでワンピースの胸元にそっと収めた。
とりあえず、という言葉に不安を感じたけれど、いや何よりもこれでは恐喝行為ではないかと抗議をしようとしたところで、行こう、と彼女はぼくの手をとった。
その仕草がまるで先ほどのダンスに誘われたようだったから、ぼくは言葉を呑みこんで彼女の後に続いた。
車道に出て、彼女は車を止めた。ぼくを押し込むように後部座席に乗せ、運転手に行先を告げた。西側にある、高級なホテルだった。
週末の車道は混みあい、滑らかな走行とはならなかった。車窓の向こうの街灯りに照らされた彼女の横顔は凛とした美しさを持っていた。
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり
彼女はまた、小声で呟き始めた。
先ほどまでの明るさはなりを潜め、声をかけ難い様子に見えた。
ねぇ。雲が光るってどういうんだろう?
彼女は前を向いたままぼくに訊いた。
て、天使の梯子ってやつじゃないですか。
ぼくはケーブルテレビの気象専門チャンネルでキャスターが話していた光景を思い出しながら言った。夕暮れ時、もくもくとした雲のすき間から陽光が所々線のような細さで差し込むと、まるで天から地上に梯子が降りてきているように見える。普段はあまり実感できない太陽の光が、そこに確かにあるのだと感じられる、そんな時間のことだ。
彼女はちら、とぼくの方を見て、また前を向いた。天使。小さくそう呟いた。
そんな風に答えてくれたのは君だけだわ。
程なくホテルについた。
彼女は手慣れた様子で独りチェック・インを済ませ、またぼくの手をとった。
行きましょう。
真夜中前の時間のホテルのロビーには人の姿も殆どなく、彼女の顰めた声さえ響いてしまいそうに思えた。
ぼく達は二人、エレベーターに乗った。
ガラス濃しの外の世界は光が敷き詰められた箱のように見え、目を奪われた。
廊下には勿論誰の姿もなく、ふかふかとした絨毯が足音まで包み込んで、雲の上を歩くような心持だった。それはこんな女性と一緒に歩いているからかもしれなかった。
ドアのひとつの前で、彼女は立ち止まってぼくを見た。カードキーが照明を弾いた。
どうする?
息を呑む音が聞こえたかもしれない。
彼女は極めてスムーズな動作でドアを開け、ぼくを招じ入れた。それで何となく、ぼくは部屋に入ってしまった。背後でドアの閉まるかすかな音がした。
一歩一歩を確かめるような足取りで、彼女は窓のそばまで歩いていき、振り返った。ワンピースの裾が波をうって翻った。
柔らかな照明を受けて、大きな窓に彼女の後ろ姿が半ばシルエットになって映っていた。
短く切りつめた髪の下、陶器の美術品を思わせるような首すじがそこだけ白くガラス越しに浮かび上がっている。
彼女はぼくを見つめた。
ぼくも彼女を見つめた。というか、目を離せないでいた。
震えがくるような薄い笑みを見せたあと、彼女はその場でまた円を描くように窓の方を向き、ほんの少しだけ首を動かして、言った。
おろして。
ワンピースの背のファスナーの事を言っているのだった。
ぼくは何かに手繰られているような感覚を覚えながら、彼女のそばまで近づいた。そうすると、見た目にはひんやりとした印象を受ける彼女の体温が感じられるような、何かしらの熱があった。
多分、手は震えていたと思う。ぼくは最初のホック部分で手こずりながら、ファスナーを下していた。静かな部屋の中で、その音だけがやけに大きかった。
彼女が少し身動ぎすると、ふぁさ、とワンピースが肩から絨毯の上に落ちた。
真っ白な背中に、ワンピースと揃えたような鮮やかな赤いブラジャーの細い紐が通り、そして緩やかな線を描く二つの肩甲骨の間に、天使の羽を模した小さな刺青があった。
天使。ぼくは呟いた。天使の梯子。
彼女はすっと笑ってから、ぼくに背を向けたまま言った。
昔、オランダに留学していたの。美術の勉強がしたくてね。
綺麗だ。
ぼくは彼女の言葉に構わず言った。
視線を落とすとぐっと深く傾斜した細い腰の翳りがあり、そこからまた豊かに盛り上がるお尻の膨らみへと続いている。ぼくはガーターストッキングというものをその時間近で初めて見た。腿からふくらはぎへのか細い線、ハイヒールを履いた足もとまで、全てが彼女を美しく飾っていた。
アムステルダムで知り合った女友達に薦められて、入れてみたの。絵画の中の天使みたいに、なれたらなって。
ぼくはもう彼女の言葉など聴いていられなかった。頭がおかしくなりそうだった。
君、息が熱い。
彼女がそういうのと同時くらいに、ぼくは彼女を抱きすくめていた。見た目よりもずっと脆い何かでできているかのように思えて、思わず少し力を緩めた。暫くそうしていた。心が休まるような気がした。毎日の疲れのなかでひりひりとして、ささくれだっていた気持ちが治まっていく気がした。少し落ち着くと、彼女の身体も熱を持っているのが伝わってきた。
彼女の胸の辺りを抱いているぼくの手に、彼女の手が重なった。少し俯くよう頭を傾げて、彼女は呟いた。
お買い上げ、ありがとう。
そんな事言わないでください。
ぼくは彼女を振り向かせて、唇を合わせた。彼女は逆らわなかった。ぼくの熱と彼女の中の熱が溶け出して、重なりあって、何度も波に浚われ、最後はどこか深いところに堕ちていくような、そんな感覚があった。彼女は素晴らしかった。
気がついた時には夜は明けていて、ぼくだけがベッドに臥せっていた。彼女の姿は見当たらなかった。
ベッドサイドに小さなメモと、万札が三枚枚、揃えて置かれていた。
端正な文字で、綺麗だと言ってくれたその言葉だけ、いただきます、と書かれていた。
追伸として、
ワイシャツは、ちゃんと洗いなさい。
とあった。
ぼくは目が覚めた後も暫く、ベッドから動けずにいた。彼女の名前だけでも訊いておけばよかったという後悔、そもそも感情にかられて彼女と性交してしまった事に対する後悔がぼくを動けなくしていた。
そして恐ろしいほどの喪失感がぼくを捉えて離さなかった。
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり
彼女はなぜあの一節を口ずさんでいたのだろう。何があの夜、彼女にあったのだろう。
彼女という女性は本当に存在したのだろうか。疲れたぼくが見た、幻だったのだろうか。
冬が来ても、ぼくの忙しい毎日は続いた。
ただひとつ変化があったのは、ぼくは金曜の夜、新宿に立ち寄るようになった事だった。ひょっとしたら彼女に逢えるかもしれない。またあの夜のように、あの瞳で、あの細い指で、ぼくを捕えてくれるかもしれない。
けれどそれは無駄な日々だった。彼女に出会うような事は一度も無かった。喧噪と北風があるだけだった。
一年ほど経った頃の事だ。
漸く忙しさの波も越え、ぼくは小さな人事異動があって社の外に出る事が多くなった。
ある午後、客先に用があって、銀座に出た。
駅でいうと銀座一丁目の辺りは、ひとつ通りを入ると町並みもどこかクラシカルで雰囲気がある。画廊が多く、東京でも有数の美術スポットだ。
少し伝えていたよりも早く着いた事もあって、ぼくは角を折れて寄り道してみるつもりだった。
前方を見てぼくは、あっと声をあげそうになった。
洒落た外観の画廊から年嵩の男性と仕立の良さそうなスーツを着たショートカットの女性が連れ添って出てきたところだった。
彼女だった。
二人は車に乗り込むところだった。
ぼくは立ち止まり、彼女を見つめた。
彼女もぼくに気づいた。気づいていた。歩きながら、貌が微かに動いてぼくの方を見続けていた。
ぼくが一歩、踏み出そうとしたのと同時に男性が車に乗り込み、彼女は助手席にするりと乗り込んだ。そう、まるであの日の踊るような身のこなしで。
車は走り去った。イギリス製の高級車だった。ぼくに買えるようなものではなかった。
ぼくはとぼとぼと二人が立ち去った後の画廊の前まで歩いて来た。飾り窓の中に、小さな絵が展示されていた。
何号というのだろう。とても小さな絵だ。写実的なタッチで、短い髪の女性が描かれていた。背面を描いているので、顔は見えない。白に近い肌色で描かれたするりとした肩と肩の間に、そこだけ紫を深く混ぜたような赤で、羽根が描かれていた。
天使の羽根。同じ図案だった。
場違いは承知で、ぼくは画廊のドアを押した。上品な女性が出迎えてくれた。一瞬値踏みをするような目をされた気がしたけれど、構いはしなかった。
ぼくは表に飾られている絵の事を訊いた。
あぁ。画廊の女性はその質問を何度も受けているのか、ほんの少し言葉にうんざりとしたような響きを乗せて、答えた。
あれはお売りできません。
いえ、そういう事ではなくて。
ぼくが食い下がると女性は不思議そうな、憐れむような表情でぼくを見ながら、続けた。
あの絵は当画廊のオーナーが描いたものでして。気に入っておられますし、手放さないと思いますよ。
ぼくは女性に礼を言い、外に出た。
オーナーとはあの男性だろうか。彼は彼女の、あの刺青を知っているというのだろうか。アムステルダムで入れた、あの刺青を。彼女のあの美しい肢体を。
そして彼女もまた。
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり
いつの間にか覚えてしまったこの一節を呟きながら、ぼくは独り、歩いていた。
空を見上げると、そこに天使の梯子がかかっていた。 (終)