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3.

 ゴミ拾いに参加してから、近所の人と言葉を交わす機会がめっきり増えた。

 道端で会うと、挨拶をして少し世間話をする。喫茶店でバイトをしていると、お客さんが声をかけて労ってくれる。本で得た知識だけでなく、人との交わりの中でも俺の世界は少しずつ広がっていった。

 見ること聞くこと全てが真新しく、戸惑いながらも胸を高鳴らせる日々。目まぐるしくも充実した毎日を送っているうちに、気がつくと初夏の足音がすぐそこまで迫ってきていた。

 バイトが終わって店を出ると、ぬるく湿気をはらんだ風が髪を弄ぶ。俺は懐に入れた封筒が飛ばされないよう、上着の前を閉めなおした。

「初給料、か。へへへ」

 今日の帰り際、マスターが渡してくれたのだ。中には何枚ものお札と小銭が少し。自分の頑張りが目に見える形になったことは想像以上の喜びで、頬の緩みが抑えられない。

 このお金、どうしようか。以前ははした金が手に入るたびに遊びに費やしていたが、今はそんなことに浪費しようと思えない。とはいえ大半は口座に入れるとしても、何も使わないというのはちょっと勿体ない気がする。

 今、欲しいもの。何かあるかと階段の下で少し考え込んだ結果、俺は道路を挟んで斜め向かいのコンビニに入った。

 会計を済ませると、店を飛び出してビルの階段を駆け上がる。前を歩いていた上の階のおばさんに声をかけて追い抜き、その勢いのままドアを開けて家へと飛び込んだ。

「おかえり。今日はちょっと遅かったね」

「うん、お給料もらったんだ。で、これ買ってきた」

 台所に立つ兄貴に、レジ袋を突きだす。中にはちょっと高めのコンビニアイスが二種類。どちらも期間限定のフレーバーだ。

「ありがとう。じゃあ半額出すね。財布を――」

「いらない。どっちも美味しそうだから、半分こしたいんだ。両方食べたいのは俺のわがまま。だから一緒に食べよ」

 兄貴は好きに使っていいと言った。だから、これは俺の好きに使った結果だ。

 有無を言わさない口調に圧されたのか、兄貴はそれ以上何も言わずに笑顔で頷いた。

「わかった。ありがとう。じゃあご飯の後に一緒に食べようか」

「うん。今日はオムレツ?」

「そう。卵で包むの、お願いできる? 薄焼き卵はもう僕より上手だもんね」

「はーい。今準備する」

 足元にまとわりつくクロをいなしつつ上着を脱ぎ、洗面台へと向かう。できることが少しずつ増えていき、頼られるようになっていくのも誇らしい気分だ。今日はいいことがたくさんあったからか、卵もいつもに増して綺麗に焼くことができた。

 クロにもご飯をあげ、二人と一頭で食卓を囲む。そのまま片づけも一緒に済ませると、俺はいそいそと冷凍庫からアイスを取り出した。

「レモンクリームと、桜餅味。どっちがいい?」

「へぇ、面白い味があるんだね。じゃあ桜餅にしようかな」

 スプーンと共にピンクの方のカップを渡す。兄貴が蓋を開けると、中身は小豆ミルクに桜餡がかかり、桜の葉の塩漬けが散らされていた。俺の方はレモンとバニラが渦を巻いている。口に入れると酸味と柑橘の香りが鼻を突きぬけた。

「んー、すっぱい。でも美味しい」

「こっちも美味しいよ。本当に桜餅だ。こんなのよく見つけたね」

「CMでやっていて、気になってたんだ。ちょっとちょうだい」

 カップを交換して一口すくう。食べてみると、確かに桜餅そのものの味がした。爽やかな味の後だから、余計に小豆の甘さが際立ってスプーンが止まらない。

 二人で舌鼓を打っていると、いい物を食べている気配を察知したのか毛づくろいをしていたクロがとことこ近寄って兄貴の膝に頭を乗せた。その頭を撫でながら、ふと兄貴は口を開く。

「そういえば、クロの飼い主さんの退院の日が決まったって」

 最後の一口を運ぶ手が、ぴたりと止まった。

「……いつ?」

「来週。でも生活を整えてから迎えに来たいから、引き取りに来るのは二、三週間後になると思う」

「そっか」

 スプーンを口に咥えたままクロの側ににじり寄る。背中を撫でるとシルクの様な肌触りが心地よい。

「……ちょっと、寂しいな」

「しょうがないよね。そういう約束で預かっていたから」

 はっきり言われると余計に胸が苦しくなって、兄貴の肩に頭を預けた。情けないけれど、情が移ってしまったみたいだ。動物を飼ったのは初めてで、こんなに無償に懐いてくれるとは思いもしなかったから。

「最初はね、警戒されちゃって全然触らせてくれなかったんだ」

 その言葉に目を見張る。兄貴を見ると「本当だよ」と苦笑いされた。

「ずっとおじいさんと二人暮らしだったのにいきなり引き離されて、知らない場所に連れてこられたから。不安だったんだろうね」

「最初からこんな感じだと思っていた……」

「少しずつ慣らしていったんだ。初めて自分から寄ってきてくれた時は嬉しかったなぁ」

 顎の下を掻いてやると、クロは気持ちよさそうに目を閉じた。それを見て、兄貴の目も細くなる。

「でも、だからこそ、本当の飼い主さんに早く返してあげた方がいいと思うんだ。それが、きっとクロにとって一番幸せなことだから」 

 しょうがない、と兄貴はもう一度呟く。その独り言はまるで、自分にも言い聞かせているようだった。


          *    *


 その後、クロの引き渡しの日は三週間後の土曜になった。この時期は、一日ごとに春から夏へと季節が移り替わる。当日も天気に恵まれて、一緒に返すペット用品を階下に運んでいると汗ばむほどの陽気だった。

 おじいさんは退院後、体調を考慮して郊外に住む息子夫婦と暮らすことになるという。独り暮らしでは犬の世話も大変だし、何かあった時も安心だからだそうだ。引っ越しなどの準備もあり、なかなか迎えに来られなかったらしい。

「電話で話した時は、今すぐ会いたいって感じだったんだけどね。十年近く一緒に住んでいて、こんなに長く離れた事はなかったから寂しかったみたい」

 でもこれでやっと安心できるねと、兄貴はリードの先でおすわりをするクロに言う。彼女も何かを感じているのか、階段下で待っていても地面の匂いを嗅いだりうろうろ歩き回ったり落ち着かない様子だ。

 約束の時間になり、十五分が経過したが迎えはまだ来ない。もしかしてこのまま迎えは来なくて、またうちの子になりはしないだろうか。今まで通り、二人と一匹で穏やかな日々を送ることにならないだろうか。

 しゃがみこんでその背中に話しかけようとしたその瞬間、伏せていたクロが急に頭をもたげた。すくっと立ち上がり、道路の右を見て大きな声で吠え出す。

 すると白いボックスカーが速度を落として近づき、俺たちの目の前で停車した。助手席には白髪の小さなおじいさんが座っている。

 窓が音を立てて開くと、兄貴はおじいさんにゆっくり話しかけた。

「新座さん、お久しぶりです。お加減はいかがですか?」

「うん、なんとかね。クロがお世話になりましたよ」

 おじいさんが手を伸ばすと、クロが一生懸命背伸びをしてその手を舐める。尻尾が千切れんばかりに振られ、嬉しくてしょうがないのが手に取るようにわかった。

「おーおー、クロや。クロや。くすぐったいって、ほら」

「あんま身を乗り出すなよ、危ないんだから」

 そう声をかけながら、運転席から四十代くらいの眼鏡のおじさんが出てきた。兄貴とは初対面なのか、ぺこりと頭を下げる。

「初めまして、新座さんの息子さんですね」

「はい。この度は親父が世話になりました」

「いえ、こちらこそ楽しい日々を過ごさせていただきました。積み込み、お手伝いしますね」

 兄貴はリードを俺に預け、後ろに回って荷物を積み込む。そしてケージの扉を開けたまま「ハウス」と号令をかけると、クロが荷台に飛び乗った。そのまま中に入ったので、扉を閉めてリードを放す。

 隙間から手を入れると、クロは濡れた鼻先を押し付けてきた。耳の後ろを掻いてやると気持ちよさそうに目を細める。

「……じゃあね、クロ」

「ぜひ、遊びに来てください。きっとクロも喜びます」

「……はい」

 兄貴に肩を叩かれて、後ろ髪をひかれながら手を引っ込める。おじさんは荷台を閉めて、運転席へと戻っていった。

 エンジンがかけられ、窓が閉まる。車は一度身震いをして動き出すと、夕日へ向かって去っていく。

 その背中が見えなくなるまで、俺達はずっと道端に立ち尽くしていた。


 クロがいなくなってから、兄貴はぼんやりとしていることが多くなった。元から浮世離れしている節はある人だったが、最近は輪をかけて足が地面についていない。時々どこか遠くを見つめているような目をしていて、声をかけると戻ってくることの繰り返しだ。

 きっと、あんなに可愛がっていたクロがいなくなって寂しいのだろう。ケージが置かれていたスペースはがらんとしていて、隙間風が吹いてもそれを慰めてくれる温もりはもういない。

 でもきっと時が経つにつれ、この空白にも慣れていく。もっと寂しくなったら、一緒に会いに行けばいい。そうして一緒に、元の形に戻っていこう。


 そう、思っていた。

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