2.
「これから君がここにいられるよう、きちんと手続きをしないとね」
一旦荷物を置いて階下の喫茶店で遅い昼食を摂りながら、兄貴は俺に告げる。その言葉通り、次の日から書類と手続き三昧の日々が始まった。転入と転出届の提出、住民票の移動、健康保険への加入と保険証の発行など、各役所に何度も足を運び、携帯電話や日用品など生活基盤を整えるためのあらゆる物資を準備しなければならなかった。
人一人が根を下ろして暮らし始めるというのは、なんと大変なことだろう。何もかもが初めてで、きっと自分一人だったら早々に諦めていたに違いない。
しかし兄貴が今行っている事務作業の意味を一つずつ丁寧に解説してくれたおかげで、今書いているこの書類がどう自分に影響を与えるのか、将来どんな風に返ってくるのかを知ることができた。その日暮らしが精一杯で、未来に思いを馳せる余裕など欠片もなかった今までとは大違いだ。
役所に行き手続きを一つ終えるごとに、自分の足元が踏み固められ道ができる気がする。それがどこまで続くのか、考えるだけで胸が高鳴った。
その道を固める槌の一つとして、兄貴が提案したのがアルバイトだった。
「下の喫茶店で、ですか」
俺は夕食の片づけが終わった座卓に座り、正面で家の相鍵をいじる兄貴をまじまじと見つめた。提案した張本人は自分の鍵についているものと色違いのネズミ型のキーホルダーを付け、俺に差し出すと「お揃い」と笑う。
「うん。これまで手伝っていた娘さんが最近なかなかお店に出られなくなったから、人を探しているんだって。体も本調子じゃないから無理はさせないし、何なら最初は週一でもいいから、って」
「それは構わないですけど、でも俺でいいんですか? 愛想もないし、まともに生きてきたこともないし、兄貴と違って何にもできないのに……」
数日過ごしてわかったが、兄貴はいわゆる「よくできた人」だ。誰に対しても優しく、知識は豊富で、家事も完璧にこなす。特に料理はお店で出てくるものと比べても遜色がないほど美味しい。打って変わって自分は不器用で、人見知りで、何にも知らないし何にもできない。今日だってアナログ時計が読めずに読み方を教えてもらい、包丁で指を切りかけた。
「大丈夫大丈夫、ユウのこと話したら『誰でもいいし、できないならできるようになるまで育てるだけだ』って胸を叩いていたし。それにまかないだって出してくれるって。あそこのオムライス、美味しかったでしょ?」
兄貴は冗談めかして口角を上げたが、すぐに表情を引き締めた。
「不安だとは思うけど、これも社会勉強だと思って欲しい。欲しい物を得るための正しい方法を、これから君は学んでいくべきなんだ。今までみたいに人から奪ったもので生きていく方法は、もう許されないから」
兄貴の言葉が心に刺さる。確かに俺のこれまでの生き方は、世間に胸を張れるようなものではない。それを全て承知しているからこそ、敢えてはっきりその過去を否定するのだろう。このままでは駄目だと。
そのことは俺も、痛いほどわかっている。
「これも、大人になるための第一歩だよ。確か、次の夏で十六歳になるって言っていたよね。同年代の子はそろそろ将来のことも考え出す頃だし、その例に漏れない方がいい」
「……はい」
急に重みを増した未来に、自分の背中が小さくなるのがわかる。暗くなった空気を察したのか、大人しく寝そべっていたクロが膝に鼻先を押し付けてきた。
すると兄貴も、腕を伸ばして俺の頭をくしゃっと撫でる。顔を上げると、さっきまでが嘘のように柔らかい顔をしていた。
「なんて、ちょっときつく言ったけど、要は何事も経験って話。働くことはそりゃ大変だけど、やりがいもあるし頑張った分だけお金ももらえるっていうのはいいものだよ。それに貰ったバイト代は全額自由に使っていいから。好きに使えるお金があった方が、後々のためにもいいでしょ?」
「えっ、でもこんなにお世話になっているのに、一円も渡さないのも……」
「いらないよー。今後のためにお金を作っておくほうが、今は大事」
有無を言わさぬ口調に負け、「わかりました」と首を振った。
「じゃあ、俺、貯金します。いつか何かの形で、兄貴に恩返しするために。これも俺の自由な使い方でしょ?」
兄貴は少し面食らったような顔をしたが、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも、本当にその気持ちだけで十分だからね」
* *
バイト初日の朝、俺と兄貴は連れだって家を出た。兄貴は挨拶がてら店まで送ったらそのまま仕事に行くためスーツ姿、俺は動きやすいシャツとチノパンだ。兄貴はパソコン関係の仕事をしているらしく、休みの頻度はまちまちなのだという。今までは俺の面倒を見るために長期で休みをとっていたが、そろそろ出勤しないといけないのだと言っていた。重ね重ね申し訳ない。
階段を下りていると、一階から五十代くらいの太ったおじさんが上がってきた。兄貴が挨拶をすると、おじさんは肉を揺らして愛想よく笑う。
「この間は子供会のイベントを手伝ってくれて助かったよ。今度は地区の行事もあるから、そっちもまた頼むな」
「いえいえ。少しでもお役に立てたのなら」
そんなやりとりをしてすれ違う。そして階段を降り切ると、右手に折れて「準備中」の札がかかっている木製のドアの前で立ち止まった。
「この間接客してくれたのって、奥さんだっけ、マスターだっけ」
「……あんまり覚えていないけど、女の人だったと思います」
確か、笑いジワが寄ったおばさんだった。
「じゃあ奥さんかな。まぁでも、皆気がいい人達だから大丈夫だよ」
そう言うと、躊躇なくドアノブを押した。
クリーム色の壁に囲まれた店内には、カウンターとテーブル席で三十人は入るだろうか。人影は無く、仕切り代わりの観葉植物と窓からの太陽光で室内は落ち着きのある明るさに満ちている。
「おはようございます、マスター」
兄貴が店の奥に声をかける。兄貴の話しぶりから穏やかそうな年配の男性が出てくるのかと思ったが、暖簾をくぐって出てきたのは筋骨隆々の中年男性だった。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「……その子が、例の子か」
鋭い目つきでジロリと睨まれ、俺はとっさに兄貴の後ろに隠れた。爽やかな朝の喫茶店より、肉屋で包丁を握っていたほうがよっぽど似合いそうだ。
膝ががくがく震える。なのに兄貴は容赦なく俺の背中を押して自己紹介を促すから、俺は腹をくくって一歩前へ出た。
「み、深山、ユウです。これからお世話になります」
「……もっと声出せ。でないと聞こえんぞ」
地を這うような低い声で注意される。胃がきゅっと縮む思いだったが、突然店長の頭が後ろからスパンとはたかれたので、零れそうになっていた涙が引っ込んでしまった。
「あんたが怖いからよ。こんな小さい子にすごむんじゃないの」
「……すごんじゃいねぇ、地だ」
「だからこそよ。それで何人泣かせてきたの、かわいそうに」
出てきたのは、前回もいた朗らかなおばさんと二十歳くらいのショートボブのお姉さんだ。店長は頭をさすりながらおばさんに言い返すが、一蹴されて押し黙る。代わりにお姉さんが俺に向かって手を合わせた。
「ごめんねー、うちのお父さん無愛想で。中身は顔ほど怖くはないから、安心してね」
「あっ、いえ、お世話になります」
何と返したら失礼に当たらないかがわからず、取り急ぎ頭を下げる。その様子を見て、兄貴は安心したように微笑んだ。
「じゃあ、いってきます。鍵は持たせてあるので、時間になったら適当に上がらせてください」
「はーい、いってらっしゃい。お仕事頑張ってくださいね」
ヒラヒラと手を振るお姉さんに、兄貴も片手を上げて答える。そして俺の背中を軽く叩いて喫茶店から出ていった。
カウベルがカランと乾いた音を立てる。その音に気を取られてぼんやりしていたら、背後からおばさんに名前を呼ばれた。振り向くと、黒いエプロンが差し出される。
「今日からよろしく。腕を痛めているって話だけど、レジ打ちと簡単な掃除くらいならできるかしら?」
「あ、はい」
「それなら良かった。細かい事は美月に色々教わってね。今日は大学も休みだから」
おばさんがお姉さんを指差すと、美月と呼ばれた彼女は快活に笑った。
「君、バイト初めてなんだって? わからないことは何でも聞いてね、美月お姉さんが手取り足取り教えてあげる」
「よ、よろしくお願いします」
俺も慌ててお辞儀をし、慣れない手つきでエプロンの紐を結ぶ。その様子を眺めていたおばさんから飛ぶ「可愛いわねぇ」という野次に、顔が火照ってしょうがなかった。
* *
アルバイトをしてみてわかったのは、働くというのは想像以上に大変だという事だ。カウンター内にはスツールもあったが、常に動き回っているので座る機会もあまりない。また客商売だから、お客さんの求めに即座に応じられるよう気を張り詰め続けなければならなかった。お金を扱う際にはミスが無いよう細心の注意もいる。
肉体的にも精神的にも疲れたが、不思議と昔みたいにここから逃げたいとは思わなかった。お客さんの笑顔を見るのは気持ちがいいし、何よりマスター一家がいい人達だ。おばさんは優しく、美月さんも言う事は言うけれど根が明るい人なので嫌味にならない。印象が最悪だったマスターだって実は、俺の失敗も寛容に流してフォローしてくれるようなとても度量の広い人だった。
人のものをかすめ取って生きてきた毎日よりも断然心地よい。それでお金まで貰えるのだから、願ったり叶ったりだ。あまりに楽しかったので、結局週四で働くことになった。
バイトの日は朝のうちにクロの散歩に行き、九時から五時まで喫茶店で雑務をこなして帰ったら兄貴と夕飯の支度。休みの日は時々病院に行って、拙いながらも掃除や洗濯をしたり暇に飽かせて本を読んだり。兄貴が仕事のときは一人で近所をぶらつくこともあった。
でも、やっぱり兄貴と一緒にいるときが一番楽しい。家事をするにしてもどこかに行くにしても、一人のときより楽しさが倍以上になる気がする。先週少し遠くの森林公園へピクニックに出かけたときは、二人で年甲斐もなくアスレチックではしゃいでしまった。
次の兄貴の休みは明日だ。今度は何をしようか。冷蔵庫の中身を考えるとそろそろ買い出しのタイミングでもあるが、家でゴロゴロするのもいい。夕飯を食べながら話題を振ると、持っていた箸を置いて兄貴は申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめんね、明日は町内会のゴミ拾いの日なんだ。その後会議もあるから、帰るのは夕方になっちゃうと思う」
「ゴミ拾いって、皆でやるんですか?」
「うん。年に何回かあるうちの一回で、町内会の大人と子供会が合同でこの地区の道路を掃除して回るんだ。毎回何となく出ていたから、用事もないのに休むのも何だか悪くて」
「ふーん、そっか……」
それなら、明日は一人か。当てが外れてちょっとがっかりしたが、ふと名案が頭に浮かんだ。
「……そのゴミ拾い、俺も参加してもいいですか?」
俺の言葉を聞いて、兄貴はぽかんと口を開ける。まるでこの間図鑑で見たジンベエザメみたいだ。
「一人で家にいてもつまんないし、それなら兄貴の手伝いをした方が楽しいかなって。ダメ?」
「いや、ダメじゃないし来てくれたらありがたいけど、でも本当にいいの? ただのゴミ拾いだし、やったってお茶くらいしか出ないよ?」
「全然。頑張ります」
おろおろする兄貴を尻目に、俺は力こぶを作って肉じゃがを頬張る。自分で金ダワシでゴシゴシこすって皮を剥いたジャガイモが、口の中でほろりと崩れた。
俺のやる気に答えてくれたのか、翌日は薄く春の雲がかかる気持ちの良い陽気となった。
軍手に日よけの帽子、汚れてもいい服という格好で集合場所の小さな公園に集まると、既に三十人近くが集まっていた。ほとんどが中年から初老のおじさんで、兄貴や俺くらいの年齢の人はいない。
「あんまり若い人はいないんですね」
「町内会が主体だから、どうしても父親世代の人が多くなるんだ。あ、高橋さん、おはようございます」
「おはよう、太一君。いつも手伝ってくれてありがとう」
兄貴はこちらに近寄ってきた五十代ほどの小柄なおじさんに気づくと、軽く会釈した。彼も返事を返してから、俺の姿に気づいて興味深げに目を細める。
「おや、その子がこの間言っていた、確かいとこの――」
「はい、これからよろしくお願いします。ユウ、この人は町内会長の高橋さん」
「深山、ユウです。今日はお世話になります」
俺が頭を下げると、高橋さんは頷きながら俺の肩をポンと叩いた。
「若い子が増えてくれると助かるよ。これからもよろしく」
そして時計を見ると、そろそろ時間だと足早に俺たちの元から去っていった。俺はその背中を見送ってから、兄貴の袖を引いて小声で尋ねる。
「今、いとこって」
「ユウのことは、僕の母方のいとこって説明してあるんだ。事情があって一緒に住んでいるって。その方が話が早いでしょ?」
「そりゃ、そうですけど」
それが一番説明しやすいのだろうが、それにしては顔の造作が似て無さすぎやしないだろうか。口ごもる俺に、兄貴は片目を瞑ってみせる。
「だから、今日は敬語はなるべく無しで。ちょっと不自然だからね」
「あ、え、はい……うん」
戸惑いながらも頷くと、兄貴は「その調子」と頭を撫でてくれた。
「この地域は古くから住んでいる人が多いから、新しい人は珍しいんだ。今日はたくさん話しかけられると思うけど、あんまり気にしないでね」
その言葉通り、いざ歩きはじめるとあちこちから声をかけられた。若手の見慣れない顔で、しかもこの界隈では顔が広い兄貴と一緒にいる俺は目立つらしい。特におばさん達からは集団で囲まれてしまった。
「あなた、太一君の親戚なんですって? いくつになるの?」
「も、もうすぐ十六歳です」
「あらー若いわねぇ。いいわぁ」
「そんなに若いのに親元を離れて、偉いわねぇ。寂しくない? 大丈夫?」
「あ、兄貴が優しいので……」
あまり突っ込んだことを聞かれると、誤魔化すのが大変だ。助けを求めて兄貴を目で探したが、兄貴は兄貴で合流した子供会の小学生にまとわりつかれていた。腕を引っ張られ、子供会の方で参加していない事に文句を言われ、拾ったゴミの量や質を自慢されている。やっと解放されたのは、公園に戻って拾ったゴミの分別が終了してからだった。
「兄貴って本当に顔が広いね。兄貴の名前出せば皆わかってくれたし、子どもからも大人気だし」
隅の遊具に腰掛ける兄貴を見つけ、隣に座る。貰ってきたお茶の缶を渡すと、兄貴は早速プルタブを上げ、美味しそうに一口飲んだ。
「小さな頃から住んでいたからね。地区の行事に参加したり、近所のよしみで頼まれるままに色々手伝っていたら、自然と顔なじみが増えていったんだ」
当たり前の、何でもない事のように兄貴は言う。でもそうじゃないことを、俺はこの数週間で学んだ。
「兄貴自身の性格もあると思うよ。優しくて、コミュ力も高いし。……どっちも俺には無いから、羨ましい」
今までの人生できちんと他人と向かい合ってこなかったから、まだ誰かと対話をすることに慣れない。こんな状態で、本当に周囲に受け入れてもらえるのだろうか。
手の中で居心地悪そうに納まっている缶が、俺の体温を吸い取っていく。今日のしどろもどろの会話を思い返して肩を落としていると、ポンポンと背中が優しく叩かれた。
「大丈夫、そのうち慣れるよ」
「太一くーん、ここ片付けたら夏祭りの実行委員会だから、先に自治会館行っててくれるかい」
「あ、はーい」
ゴミの山を片付けている自治会長から声を掛けられ、兄貴はお茶を一気に飲み干した。 空き缶を貰うと、兄貴は「ありがとう」と微笑む。
「先に帰っていて。夕飯までには戻るから」
「はい。……大変だね」
「うん。でもしょうがないね、付き合いだから」
眉尻を下げて兄貴は言う。そして気合を入れるように勢いよく立ち上がると、片手を上げて公園から出て行った。
独りになった途端、急に周囲のざわめきが押し寄せてきて俺から音を奪った。知らない人の中に取り残されてお尻がむずむずするが、叩かれた背中はぼんやりと温かさが残っている。
「……クロの散歩、行かなきゃ」
お茶を飲み干し、ゴミ袋に缶を二本投げ入れる。袋の底の方に、兄貴と拾った呆れるほどの量のビール缶が透けていた。
家に帰ると、既に昼近くになっていた。ジャーの中のご飯と常備してある梅干しでおにぎりを作って腹ごしらえを済ませ、クロの首にリードをつけてもう一度外に出る。ずっと待ちかねていたのか、彼女は艶のある尻尾をぶんぶん振って我が物顔で通りを闊歩した。
散歩コースには、先ほどの集合場所だった公園も含まれている。残って井戸端会議をしていたおばさん達と少し言葉を交わし、集会所の方の様子を窺っていると煙草を吸いに出てきたおじいさんに声をかけられた。さっきよりも滑らかに喋れるようになっていて、胸を撫で下ろしたのはここだけの秘密だ。
一時間ほど歩くと、クロも満足したのかすんなり家の中に入ってくれた。水を換え、ハウスの中に落ち着いたのを確認すれば散歩はおしまい。風呂掃除と洗濯物の取り込みまで済ませれば、あとは自由な時間だ。俺は部屋の本棚から読みかけの歴史の新書を取り出して、ベッドの上に寝転んだ。
読みやすい絵本や児童書は読みきってしまったので、最近は世界の通史を平易に解説したシリーズを片端から読んでいる。本の中には色んな世界が広がっていて、読むたびそれらが俺の中に入っていくような気がしてとても面白い。それだけでなく兄貴も読書好きだから、本を通じて知った世界の話を一緒にするのもわくわくした。
未知の物事を知っていくことがこんなに心躍ることだなんて、ここに来る前は思いもよらなかった。学校の授業は一方通行の知識の詰め込みで退屈だったし、家を飛び出してからはその日を生きることしか頭になかった。退廃的で生きている実感がまるでなかった以前の生活と比べて、読書も家事も料理も全てが勉強になる今の方がよほど刺激に溢れている。
何より、わからないことでも兄貴に聞けば俺が理解するまで根気強く教えてくれた。最近は辞書やインターネットの使い方も覚えたけれど、それでもわからないことは兄貴の口から説明してもらった方が頭に入りやすいのだから不思議だ。
特に今は中国史の箇所を読んでいるので、漢字が難しく調べながら読んでいるせいでなかなか進まない。本当にわからない部分には付箋を貼りながら夢中で読んでいると、玄関の扉が開く音で我に返った。
いつの間にか、窓の外は茜色に染まっている。本を手にしたまま廊下を覗くと、薄暗がりの中に兄貴の影がぼうっと浮かび上がっていた。
「おかえり。早かったね」
「うん、夕飯の準備があるのでーって言って抜けてきちゃった。今頃他の人は宴会かな」
苦笑する兄貴。それを聞いて、俺はこの時間まで料理が手つかずだった事に気づいて青くなった。
「ごめん、夕飯何もやってない」
「いいよ、一緒に作ろう。今手を洗ってくるね」
そう言って、兄貴は洗面所に消える。俺も準備をせねばと、本棚の適当な位置に新書を突っ込む。そのとき、隣にあった古いガイドブックに目が留まった。地域はN県とあるが、どのあたりだったか。
取り出し、何の気なしに開くとページの隙間から何かがペラリと滑り落ちた。拾い上げたそれは古びた写真で、背の高いひまわり畑の前で小さい兄貴と両親が並んで写っている。兄貴は涙目で口をぎゅっとつぐんでおり、その小さな頭に父親が優しく手を置いていた。
体も器も大きくて頼りになる兄貴でも、こんなあどけない表情の頃があったのか。今の兄貴で想像しようとしたが全くできなくて、それがなんだかおかしい。
「ユウ?」
「あっ、ごめんなさい。今行く」
俺は慌ててガイドブックを閉じると、布団の上に放り投げた。N県の位置や、兄貴の泣き顔の理由については、ご飯を食べながら聞いてみるとしよう。目下の最重要課題は夕飯作りだ。
部屋を出ると、エプロン姿の兄貴が包丁を片手に台所に立っていた。
「今日は豚汁と生姜焼き。まずその人参をいちょう切りにしてくれる?」
「いちょう切り、って何だっけ……」
「半分に切ってからまた半分に切って、銀杏の葉っぱみたいに四分の一に切ること。銀杏は見たことある? 学校とか街路樹によくある黄色い葉っぱの木なんだけど」
「あー、あの臭い実ができる木?」
「そうそう。あの形に切ってね」
「が、頑張ります」
包丁の扱いは教えてもらったばかりで、まだ上手に使えない。俺は小さく息を吐くと、兄貴に聞きたい色々なことを頭から締め出して今日一番の神経戦を開始した。





