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1.

 色んな物を、捨て続けてきた人生だった。

 最初は親。ろくに世話を焼かれず居場所も無い家に嫌気がさし、反発して飛び出したのは確か中学の頃。次は寝床を貸してくれたが反りがあわなくなった友人、やたら束縛の強かった自称恋人。最後には俺をかわいがり暗がりでも生きる術を教えてくれたセンパイすら、金を奪って捨てていった。

 その報いを、俺は今受けている。

「いってぇ……」

 金を取り戻しに来たセンパイ達から腹いせに殴られ、蹴られた全身のあらゆる箇所が悲鳴をあげている。服がめくれてあらわになった地肌には、路地裏の薄闇でもはっきりわかるほど青黒く腫れあがった痣がいくつもできていた。

 逃げ切れるだろうと高をくくっていたが、それはひどく甘い見込みだった。奪われた側の執念は恐ろしく、彼らはどうやってか俺を見つけ、今度は逆に俺の全財産を奪っていったのだ。命を取られなかったのが不思議なくらいだ。

 しかし全てを失ったとなっては、いっそ死んでしまった方がよかったかもしれないとさえ感じられる。どうせ俺なんか、生きている意味も価値もない人間なのだから。

 壁に寄りかかるのも辛くなり、きしむ体を地面に投げ出した。春の初めの夕方は空気がまだ冷たく、ビル風が俺の側を駆け抜けて容赦なく体温を奪っていく。埃と排気ガスが喉を刺し、むせると内臓が口から飛び出そうだ。

 もう、だめだな。

 首をもたげると、細く切り取られた外界は温かな橙色に満ちていた。手が届きそうで届かない、美しい光。自分はきっと、二度とあの中へは出ていけない。

 その輝きが、ふいに黒い影で遮られた。それはだんだん大きくなり、俺にかぶさるようにして光をかき消す。

 眉をひそめたそのとき、あの太陽光を固めたような声が頭上から降ってきた。

「君、大丈夫?」

 目の前に、スーツのズボン裾が地面に膝をついている。仕事帰りのサラリーマンだろうか。使い込まれた革靴が持ち主の丁寧さを表しているようだ。

 ほっとけ、と言おうとした。どうせ生きていても仕方ないのだ、このまま世界を終わらせてくれと。けれど声は出ず、代わりに小さなうめき声が腹から鳴る。

 あれ、俺、こんなに弱かったっけ。

「あー、そうだよね。大丈夫なわけないよね。ちょっと待ってて」

 声の主はそう言うと、脇に腕を入れて再度壁に寄りかからせた。そして俺の体を背に乗せ、よいしょと立ち上がる。

「このまま病院行こう。君、名前は?」

「……ユ、ウ」

「うん、意識はしっかりしているね。荷物は他にない?」

 小さく首肯すると、「大丈夫だよ」と穏やかに言う。大きくて優しい背中。その温もりが心地よく、身を預けていると次第に世界が暗くなった。


          *    *


 人生の中で不要になったものを捨てることは当たり前だと思っていた。都合が悪いこと、主張を聞いてくれない人。規律も社会的規範も、生きていくのに都合が悪ければ捨てても仕方がない。だってそうしないと生きていけない、他に生きる方法がわからない。自分も最初は捨てられたようなものだから、なおさらだ。

 そう思って、生きてきた。その結果があのざまだ。

 路地裏で仰いだ、センパイの姿が頭から離れない。虫をいたぶるカマキリのような目。そこに今まで捨ててきたあらゆるものが重なり、声を揃えて俺を嗤う。

「全部捨てていったお前だ、もう金も命も捨てたってどうってことないだろう?」

 センパイから最後に吐かれた台詞が聞こえてがばりと目を開ける。しかし視界に飛び込んできたのは薄汚い路地裏の風景ではなく、白い天井と周りを囲むカーテンだった。

 頭を動かすと、ベッドの脇で見知らぬ男が椅子に腰掛け文庫本を読んでいるのが見えた。年は二十代後半くらいか。背が高いため、小さな丸椅子が窮屈そうだ。だがそんなことは気にも留めず、垂れ目を細めて読書に熱中している。

 何がそんなに面白いのだろう。あんまり夢中になっているその姿が物珍しく、ぼんやりと眺めていると、彼はふと顔をあげてこちらを向いた。

「あっ、よかった。起きたね」

 そう言うと本を閉じ、立ち上がってナースコールに手を伸ばす。

「疲れと栄養失調で、丸一日眠っていたんだよ。骨や内臓には特に問題はなさそうだったんだけれど、体が限界だったんだね」

「……あんた、誰?」

 口から出たのは、びっくりするほどのかすれ声だった。それでもきちんと聞き取ってくれたようで、男は穏やかに微笑む。

「僕は桜庭太一。ただの通りすがり。それより他に痛いところはない? 頭とか、体とか」

「……平気」

 やはり酷い声だ。喉の違和感に咳払いを繰り返していると、大きな手が俺の頭を撫でた。

「もうすぐお医者さんが来るから、そうしたら今日は休もう。これからの事は、その後ゆっくり考えればいい」

「……はい」

 その言葉通りすぐにサンダルの音がして、看護師が姿を見せた。男が状況を話し、俺が体の具合を説明すると、医者を呼びに行ったのかまた足早に去っていく。

 自分の体の事で、自分の口で喋っているはずなのに、まるで別の誰かの視点から見ているかのように現実感がない。ただ布団の柔らかさとずっと腕をさすってくれる掌が、俺の体がここにあることを証明してくれている。肌に感じる温もりが、生きていてもいいのだと言ってくれている。

 理由はわからないが、涙が落ちそうになった。


          *    *


 その後も追加でいくつか検査を行い、退院の許可が下り病院を出たのは翌日の昼だった。手首の捻挫と何か所か縫った外傷以外は損傷もなく、普通に生活を送って良いという。ただし縫い傷の抜糸と経過観察のためにしばらくは通院すること、どこか痛いところがあればすぐに病院に来ることの二点を退院時に医者から言い含められた。その指示を受けるとき、当人である俺よりもあの男の方がいちいち神妙に頷いていたのがちょっと面白かった。

 結局、彼は面会時間ギリギリまで側にいてくれた。検査のときも一緒にいて、終わった後は自販機で買ってくれた飲み物を飲みながら色んな話をした。生い立ち、好きなもの、今の生活。

「嫌なら話さなくてもいいよ」

 彼は優しい口ぶりでそう言ってくれたが、俺は全部話した。どんなことを言っても受け入れてくれそうな気がしたし、何より俺の中にある全てをぶちまけたかったのかもしれない。今まで、俺の話を正面から聞いてくれる人と出会ったことがなかったから。

「もし行く当てがないのなら、僕の家においで」

 話がひと段落した頃、彼はそう提案してくれた。自分は独り暮らしで、気を使うべき相手もいない、と。

 迷ったけれど、俺は頷いた。全てを捨ててしまった自分には、それしか選べなかったから。

 退院後、俺は男――兄貴とバスに揺られて下町の住宅街の中に立つビルへとやってきた。一階は喫茶店に、二階以降はアパートになっており、兄貴はここの三階に住んでいるのだそうだ。

「昔から家族で住んでいた家だから、物が多くて。あんまり広くなくてごめんね」

 そう言って、兄貴は通路の端に位置する一室の扉を開けた。玄関から伸びる廊下にはトイレと風呂、反対に一つドアがあり、突き当りがリビングだという。知らない家の空気に緊張しつつ、俺は兄貴の後についておっかなびっくり奥へ進んだ。

 前置き通り確かに物の少ない家ではなかったが、整頓されていて家主の性格を如実に表している。そう感心しながらリビングに足を踏み入れた瞬間、黒く大きな物体が俺に飛びかかってきた。

「わっ!」

「あっ、こら!」

 勢いに負けて尻もちをつくと、それは胸までのしかかってきて生暖かい息を俺の顔に吹きかける。動けずその場で固まっていると、俺の顔を舐めてから一声大きく「バウッ」と鳴いた。

「クロ、こら、離れて。離れなさいっ」

 兄貴がそれを引き離してくれて、ようやっと大きく息をつく。改めて視線を向けると、兄貴が両腕で抱えていたのは雌のラブラドールレトリバーだった。しゃがむ俺と同じくらいの座高なので、かなり大きい。

「ごめんね、言い忘れていた。犬、大丈夫? アレルギーとかあったりする?」

「……ない、です。多分。大丈夫です、ちょっとびっくりしただけで」

 俺はその犬ににじり寄り、恐る恐るその頭を撫でる。その様子を、彼女は黒々とした双眸で興味深げに眺めていた。

「動物、わりと好きなんです。一緒に暮らせて嬉しい」

「それならよかった。驚かせて本当にごめんね」

兄貴は犬から離れると、俺の手を引いて立ち上がらせる。そしてリビングを出て、左にある扉を開いた。

「ここ、父親が使っていた部屋なんだ。整理もできなくて色々そのままになっているけど、自由に使って」

 部屋に入ると正面に大きなベッドと窓が一つ、右手に備え付けのクローゼット、左手には大きな本棚が二つ並んでそびえ立っていた。どれも古びているが掃除は行き届き、小汚い感じはない。

 だが本棚だけは色んな本がごちゃ混ぜに並んでいて、間には小物や写真立てが置かれていた。まるで今でも誰かが暮らしている様な生活感に、本当に俺が使っていいのかわからず兄貴を見上げる。

「いいんですか? 親父さんは……」

「父親は去年病気で亡くなったから。母親はもっと昔に亡くなっているし、ここは主のない部屋なんだ。よければ、使ってあげて欲しい」

 何でもないような口ぶりだが、その裏に寂しげな色が滲んでいて二の句が継げなかった。だからこれ以上は遠慮せず、ただ深く頭を垂れる。

「ありがたく、使わせてもらいます」

「どうぞー。昔から捨てるのが苦手なもので、なかなか片づけられないんだよね。邪魔なものがあったら、勝手に整理しちゃっていいから」

 そう言い、兄貴は棚の写真立て達を手に取った。懐かしそうに眺めるそれはこの家の中で撮ったものだろうか、小さな兄貴と両親らしき男女、それに太った三毛猫が写っている。

 俺は幸せそうに目を細めている猫を指差した。

「この子も、拾ってきたんですか? 俺みたいに」

「あはは、そうだね。捨てられているものを見るとつい」

「あの子、えっと、クロも?」

「あれはまた別。隣に住んでいたおじいさんが怪我して入院することになって、退院するまで世話してほしいって泣きつかれたんだ。断りきれなくて」

「……本当に、見捨てられないんだなぁ」

 ため息をつくと、兄貴は「昔からなんだよね」と少し眉尻を下げた。

「でも一度拾ったら、面倒はきちんと見るよ。君も、ね」

 兄貴はそう言って、俺の頭を軽く叩く。その手があまりにも優しかったので、俺は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 こんなにいっぱい拾って抱えて、重くはないの?

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