09.
オリック夫人。
近所に住んでいて、役所に勤めている人だ。
役所は国民の戸籍の管理だったり、何か困った時の相談ができたりできる場所で、国民の生活には欠かせない場所だ。
この人には僕ら姉弟もお世話になっている。特に姉さんを自分の娘のように思っているらしい。あと、旦那さんは父とも親交があって、色々と便宜を図ってもらっている。
そんなオリック夫人がニコニコと。何かいいことでもあったのか、すごくいい笑顔で、僕の行く手を塞ぐ。
「オリ」
「ねぇ弟君、いい報せを持ってきてあげたの!」
オリック夫人は、まるで僕と同年代くらいの女の子のようにはしゃいでいる。
「わたし、今までずーっと思っていたのよ。ヴィシテンさんたちが亡くなってから二人であの家に暮らしているでしょ。さすがに子供だけじゃあ何かあったら困ると思ってたのよー。でも暮らしているからとても驚いたわー」
うん。両親の死を告げられた時、色んな人から言われた。
子供だけじゃ困るだろう。うちに来ないかい? 何なら養子縁組もしないか? って。
でも、あの時は姉さんがずっと泣いていて。部屋に引きこもって。この家から出ない。ずっといると叫んで。
僕もどうしていいか分からなくて。でも、父さんと母さんと約束したんだ。僕は男の子だから、姉さんを守ってって。
だから僕は、力が入らない体を無理矢理動かして色んな人に聞いて、僕らが両親の家で暮らしていけるようにお願いして、なんとかしてもらったんだ。
かなり無茶なことだと今なら分かる。それでも姉さんが落ち着いてくれた。この家から離れなくて済むようになったから。
ただ、僕らだけで住むのなら、大丈夫だと証明しなければならなかった。口先だけで、実際には暮らして行けないのなら、それを放置するのは両親に申し訳ないからと言われた。
その日から色んな事を身に付けたんだっけ。
料理に洗濯、掃除の仕方。生活に必要な物がどこの店で売っているのか。どうやって注文するのか。とか。
両親の遺産を僕らが使えるようにしたり、税金のこととか、お金や手続き関係のこととか。正直難しすぎてまだよく理解できていない部分は多いけど。
「それでね、何か手助け出来ないかと思って色々調べたのよー。そうしたらね。あのお家って名義人が弟君になってない?」
あの家の持ち主は父さんだった。でも、死んでしまったら持ち主は生きている家族に引き継がなければならない。
遺産の引き継ぎ。基本的に長男が受け継ぐことになっている。でも、成人していないから、こういう場合は親戚が成人までの後見人になるらしいけれど、両親は共に孤児。仕事についてから家族を探したらしいけれど、見つからなくて諦めたことがあると父の日記で読んだことがある。
そこで、後見人になってくれたのが父さんの友人の、ファティーン伯爵だ。
と言っても、書類上のもので実際は僕に全権を与えてくれている。
伯爵様はお忙しいので、分からないことは手紙を送れば部下の人が教えてくれる。無駄遣いせず、節約をしていく事を教えてくれたのも部下の人だ。
それはともかく。伯爵様が後見人ということで、両親の遺産を狙ってくるような悪人は寄ってこず、僕たちはあの家に住み続けることができている。
「若い頃からの苦労は、将来きっと役に立つ。やれるだけやってみろ」
そう言った伯爵様は、土地も、家も、何もかもを僕の名義に書き換えたんだ。
あ、もちろん、税金は両親の遺産から払っている。伯爵様には一切そういった方面で迷惑をかけたくないから。
「はい。僕の」
「それおかしいと思うのよ!」
……え?
「だってねぇ。ほら、ヴィシテンさん夫婦には子供が一人だけ。あとからもう一人引き取ったじゃない? 弟君でしょ? 引き取られたの。さすがに書類が多過ぎて調べるのが億劫になっちゃったけど、間違ってないでしょ。皆言ってるもの!」
みんな。みんな、かぁ……。
「だからね? 名義人はリリアちゃんに変えた方がいいのよ。だってそうでしょう? 遺産を受け継ぐのは血の繋がった家族のほうがヴィシテンさんたちもきっと喜ぶわ!」
僕は……。
「あなたもそう思うでしょ?」
「……」
声が、出ない。
籠が、持っていられない。
「でも、あなたも色々と大変でしょお? だからね? こういうの持ってきてあげたの!」
ニコニコ。
笑顔が、怖い……。
「ほらこれ、委任状っていうの。これに、弟君の名前を書いてくれる? そうしたらね? 後は全部わたしがやってあげるわ! すごいでしょ!」
なんで、そんな、ことを……。
「やっぱり、リリアちゃんの方がいいのよ! あの子、学園ですごい優秀なんでしょ? 息子から聞いてるわ。王子様とも仲がいいんでしょ? そんなすごい子ならあなたよりしっかり手続きもできると思うのよ」
息子……ノーグさん?
「あなたを馬鹿にしてる訳じゃないのよ? 弟君は弟君で頑張ってるの知ってるわ。でもね、やっぱりわたしはリリアちゃんの方が相応しいと思うし、絶対そうよ!」
ぼ、くは……なんの、ために。
「だからね? これ、書いておいて」
ずり落ちそうな籠に、紙が入れられる。
「…………っ」
「書いたら持ってきてね。そうすればわたしがぜーんぶやっておいてあげるから!」
とても、いい、笑顔で。
「さぁ、帰って御飯作らなきゃ! 余計な手間くっちゃったわー」
よけい?
「じゃあね。早く帰るのよー?」
オリックさんが、帰っていく。
籠が、落ちた。