10.
気がついたら、家の台所に立っていた。
目の前のテーブルには、籠がある。
オリックさんが入れた、書類も。
「…………っ、う」
駄目。泣いちゃ、駄目だ。約束、したんだ。父さんと、母さんと、しっかり、しなきゃって。
姉さんを、守るんだって。
「あ」
そうだ、姉さんが帰ってくる。
慌てて見回せば、家の中は薄暗くて。
「急がなきゃ……」
姉さんは、毎日陽が暮れる頃、夕飯の前くらいに帰ってくる。
いつも、何をしているのか。聞いても教えてくれないけれど。
でも、ファティーン伯爵家のだったり、紋章はないけど豪華な馬車で帰ってくるから、心配はない。
さすがに、護衛の人もいる馬車を襲うような悪人はいないと思う。王都の治安って、いいし。
火打箱から火種を蝋燭へ。火の灯った蝋燭から家の中のランプへ火を移していく。姉さんなら、魔導術であっという間に火を灯せるけれど、僕には出来ない。
明るくなった家の中は、火が燃えているにも関わらず、冷えている気がする。
腕を擦りながら足を動かす。
行くのはお風呂だ。
小さな家だけど、家には身を清めるためのお風呂がある。母さんがかなり拘ったらしい。父さんが苦笑していた。
でも、父さんが一番その恩恵を受けていた。
仕事から帰って来た父さんは汗と土埃で結構汚れていたから、井戸まで行かなくて済んだし。特に寒い時期はお湯が使えるから重宝していた。
あの頃は、父さんと一緒にお風呂に入ったなぁ。
まず体の汚れを落として。じゃないと湯船に汚れが浮くからって母さんに怒られたっけ。髪の毛を父さんが洗ってくれて。目を閉じていると大きな手で頭を揉まれて。
……いつから、自分で洗えるようになったんだっけ。
「綺麗に、しないと」
湯船を擦って、掃除する。
これをしないとお湯に汚れが浮く。いくら洗っても、汚れは無くならない。最初はムキになっていたけれど、いつの間にか妥協している自分がいた。
掃除が終われば後は水を入れる。裏庭にある井戸から外にあるタンクに入れておいて、弁を開けばパイプから水が出る。
溜まるまでしばらくかかるから、その間に夕飯の準備だ。
「何を作ろうか……」
いくつか献立を考えたけれど、どれにするかは決めてなかった。
「野菜と、お肉を切って、後は母さん秘伝のスープジャムを入れて……。そうだ、腸詰めがあったんだっけ。これと、あとパンを用意して」
忙しい母さんが料理をもっと簡単に出来るようにと作ったのがスープジャム。ドロリとした見た目だけど、これを溶かすと美味しいスープが短時間で出来るようになるのでとても重宝している。
のだけど。
「あれ? ジャムが……ない?」
ジャムは小壺に詰めて保存していたんだけど、その小壺の数が足りない。
十種類の内、三つがなくなっている。
使って、元に戻さなかった? ならすぐ側に置いてあるはずだ。これは台所から持ち出すことはないのだから。
落っことした? 床には壺もジャムも見当たらない。綺麗なままだ。
「う~ん?」
具材を全て入れた鍋を火にかけて、ちょっと悩んだけれどお風呂の様子が気にかかる。
湯船にはちょうどいいくらいに水が溜まっていたから弁を閉めて、急いで裏庭に出る。裏庭には薪を切ったりするスペースや、母さんが作ったボイラーなんていう道具がある。
僕には原理がよく分からない道具だけれど、これのお陰でお湯が作れるんだからとてもありがたい。
母さんは熱いのが好きで、ボイラーを動かすともうその温度になるまで止まらないようになっている。だから湯船に最初溜める水の量は少なくして、後は水で温度を下げる。
僕にとっては熱すぎるから。
姉さんは、熱いのが好きなようだけど。
「……あれ?」
ボイラーを動かして、家の中に戻ろうとしたら馬の嘶きが聞こえてきた。この距離で聞こえてきたのなら、姉さんが帰ってきたんだな。
裏口から台所に入って、そのまま玄関へ。
すると、玄関の扉を開けたまま誰かと喋っている姉さんの後ろ姿が見える。
「姉さん、お帰りなさい」
「……っ」
声をかけると、姉さんは大きく体を震わせた。
そんなに驚くことかな? いつも馬の嘶きが聞こえるから出迎えているのに。
それを忘れるほど、話に夢中だったのかな。
それとも、出迎えてることなんて、そもそも覚えてないのかな。
「…………」
「どうしたの?」
何で、そんな、怖い物を見るように。
僕がいるのは、そんなにおかしなこと?
「……はぁ」
姉さんは僕の姿を上から下まで見て、それから、ため息を吐いた。
それは、安心とかじゃなく、落胆の。
……胸が、苦しい。
「何様のつもりだ、クレッグ・ヴィシテン!」
思わず胸を押さえたら、姉さんを押し退けて入ってきたのは、クラリア・ファティーン伯爵令嬢だった。
「私は爵位を振りかざすことは好かんが、あえて言わせてもらおう。実の姉を怯えさせ、伯爵家の者であり、客でもある私を無視するとは、礼儀もしらんのかお前は! 恥を知れ!」
陽が暮れた街に、とても大きな声が響き渡った。




