三猿
当然だが、一行もテンペラの里が彼女達五人を暖かく迎えるとは思っていない。
しかし一つのけじめをつける必要はあるし、少なくとも通すべき筋はある。
故郷を文字通り棄てることよりは、一度顔を見せて拒絶される方がまだマシだろう。
最悪でも、もうこの里に戻るつもりはありませんし、ご迷惑をおかけすることもありません、という必要はある。
もちろん、ラン以外の四人を受け入れてくれるなら、それはそれでありがたいことではあったのだが。
「それにしても、アルカナ王国にこんな秘境があったなんてね」
ハピネは山道を汗だくになりながら登っていた。
一応獣道のようなものはあるのだが、ほとんど道として機能していない。
「っていうか、多分テンペラの里がアルカナ王国に属していないのは、この道の不便さね……こんなところに人が住んでても、税金を取り立てられないわよ!」
興奮気味で文句を言うハピネ。実際、そうした面もあるとは思われる。
この国が興る前から存在していたとしても、力があるのはアルカナ王国だ。であれば、そのまま併合されるのが当たり前である。
しかし、テンペラの里までの道のりは未整備であることを差し引いても過酷だった。
はっきり言って、傾斜がきつすぎる。里への道はもはや登山と言っていいだろう。
「すみません、私が途中で歩けなくなって……」
「いいって、気にしなくても」
ランの安全装置であるツガーは、既に山の途中で歩けなくなっていた。そのため祭我が背負って運送中である。
元々この世界に来て身体能力が高くなっていた上に、神降ろしを使っている祭我は軽い彼女ぐらいなら楽々と背負えていた。
それを、ハピネは恨みがましく見ている。
「もうすぐ着くから辛抱しろ。そろそろ平らな道に入るはずだ」
現地の人間だった五人の足取りは軽いものだった。
もちろん、心象としては重いものがあったのだが、その一方で前に進まねばならないとも思っていた。
ランにしてみれば自制をするように言っていた老体の方々に事実だったと詫びねばならないし、他の四人にしてもランについていくことで未熟な自分を棚上げにして、故郷を軽く扱っていたことを謝らねばならなかった。
「ほら、もうここからは楽な道だぞ」
切り立った山道を登り切ると、そこは多くの『拳法』の血を残す秘境、テンペラの里が見えていた。
大きな山脈の内側に、点々と田畑や木製の家屋が見えている。ある意味、普通のド田舎だった。
ここに沢山の希少魔法の血統があるとは、中々信じられないところである。
「ここには十の拳法の家がある。一応寄り合いとして集まるところもあるから、そこに行くか?」
この里を出たのはつい先日で、正直もう拝むことはないと思っていた。
しかし、戻ってみると心中複雑なものである。五人は、さてどうした者かと思っていた。
「いやいや、そうされても困るのう」
里山を見下ろす位置に来たばかりの一行の前に、待ち構えていたらしい老人が顔を見せていた。
五人にしてみれば知っている顔であり、待ち構えていたという点でバトラブ一行も想像がつく相手だった。
「私は星血を宿す亀甲拳を伝える者でな……既に私の事も知っているであろうし、まずは我が家に来てほしい。何があったのかは知らんが、ランも落ち着いたようであるが……それでも里の者は皆怯えているのでな」
少なくとも、一行が此処へ訪れることは察していたらしい。こちらがその誘導に逆らう気がないと察しているのか、背を向けて案内をはじめていた。
まあ、石を投げられることを想定していた身としては、或いは温厚な対応で助かったと思うべきだろう。
別に争いに来たわけでも国家に参加しろと要求しに来たわけでもない。里の中でも地位が高いであろう御仁と話ができるのであれば、それは文句など出るわけもない。
一行はそれに黙々と従っていた。
当然と言えば当然だが、テンペラの里の道も決して舗装されているとは言えなかった。その一方で、流石に先ほどまでの道に比べれば圧倒的に楽であり、田畑の間にある道をゆったりと歩いていくだけだった。
家らしい家をほとんど見かけることも、或いは里の人間を見ることもなく、本当に誰と出会うこともなく大きな平屋にたどり着いていた。
「薬湯ぐらいしかないが、まずは一息ついてください」
寺と道場を足したような、広い一室のある家だった。これがいわゆる『本家』であり、集会場であることは明白で、しかし誰もいないことがとても不気味に思える。
つまり、予知した結果誰もがこの場の十人に会いたくないと思ったのだろう。
当然ではあるが、警戒されているというか、嫌われたものである。
とはいえ、それも当然であろうと全員は黙々と……腰を下ろして休憩していた。
「ツガー、ハピネ。とりあえず足を軽く治すよ」
「ありがとうございます」
「うう……滅茶苦茶疲れた」
慣れない山道を歩き切った面々は疲れ果てていた。
というか、足が腫れていた。それはもう真っ赤である。
もしかしたらマメがつぶれているのかもしれない。
少々無茶させたことを申し訳なく思いつつ、祭我は拙いながらも法術で彼女達二人の足を治していた。
「情けない……とは言うまい、根性がある二人だ」
ハピネはこの里に来る必要は一切なかった。
しかし、祭我がどこかへ行って何かを知るのであれば、それは自分も見て知らねばならない。それが彼女の決断だった。
それは正しい事であると、スナエも彼女の行動を認めている。
「それにしても、本当に予知能力を使いこなす拳法家がいるのだな……何故いる……」
スナエはやや呆れていた。
爆毒拳や四器拳は自分の神降ろし同様に、素手でなければならない流派だった。その血を守る家が、拳法家になるのは当たり前だ。
しかし、予知能力者が拳法で戦うというのは意味が解らなかった。
「たわいもない理由だ……開祖曰く、ケンカになったときにどう動いても殴られると分かったときとんでもなく情けなくて、予知を組み込んだ体術を作ろうとしたそうだ」
湯呑に薬湯を入れて持ってきた当主が、自嘲気にそんなことを言う。
それは祭我も憶えがあることだった。
予知して相手の動きに先取りの対応をするとしても、熟達者ならあっさりと『先読みした行動』に対して対応してくる。
おそらく、最初に山水と戦った時は、どう予知しても絶対に勝てないという結論に落ち着いていただろう。
その開祖が、努力によって『勝とう』と思ったことは、決して他人事には思えなかった。
「聞いている通り、我が流派は予知を拳法として組み込んでいる。だからこそこうして君達の来訪も理解し、迎えている」
何とも奇妙な話ではあるが、円滑ではあった。
双方が予知というものを知っているからこそ、余計な質問が生じずに会話が成立していた。
とはいえ、少なくともバトラブ一行は、目の前の老人から超越者然とした雰囲気を感じ取ることができなかった。
山水やスイボクを知る面々には、未来を知ることができる彼がただの疲れた老人にしか見えない。
いいや、事実としてそうなのだろうと察してしまう。
「実際、我が流派はそこまで弱くない。不意を討たれることがないし、格下から逆転の一撃をもらうということもない。しかし、結局絶対に勝てない相手に対しては……あらゆる手を模索しても勝てないということを、予め知るというだけの事だ」
その辺りは、予知ができる祭我と予知しかできない老人の差であろう。
祭我は多くの手段を持つからこそ打てる手が多いのだが、彼らにそんな『可能性』は一切ないのだ。
それを思うと、祭我は恥ずかしい気分にさえなってしまう。
目の前の彼は、きっとずっと昔から『努力』しているにも関わらず、自分やランには手も足も出ない未来を知ることしかできないのだ。
「……では、少し聞きたいことがあるのだが、いいだろうか」
「はい、かまいません」
何を聞いてくるのか、祭我にはわからない。
もしかしたらスイボク関連に話が及ぶかもしれないし、そもそもこの里を訪れた理由を聞くのかもしれない。
あるいは、自分があらゆる魔法を使えることにも話が及ぶかもしれない。
だとしても、祭我は話を待っていた。
「もう結構」
そして、肩透かしを食らった。
エッケザックスを含めて誰もが何を聞くのかと身構えていたのに、結局何も聞かれなかった。
態々聞くと前置きしたにもかかわらずである。
「なるほど、そちらの事情は分かりました……とりあえず、そちらの四人に関しては当家でお預かりしましょう。稽古も付けさせていただきます」
いきなり話が飛んでいた。
本当に、聞くべきことは全て聞いたかのように、するすると話が進んでいく。
「加えて、サイガ殿。貴方が拳法を習いたい、特に亀甲拳を学びたいというのなら……そちらの四人の家が伝える拳法も併せて五つ、秘伝書をお譲りしましょう。他の家のものまではお譲りできませんがね」
話の主導権を握っている、というわけではない。優位に立とうともしていない。疲れた老人は、話を早く終わらせようと必死なようだった。
「ご安心ください、他の家も了承済みですから」
つまり、この老人が何をしたのか、それは明らかだった。
祭我に質問をすると言って、様々な質問を自分がする際の受け答えをすべて予知して、こちらの望みを聞き切っていたのだ。
「……これが、時力の家系、占術の専門家の力」
「そうたいしたものでもありません。別に相手の心を読めるわけでもないし、相手の嘘を見破れねば何の意味もない。それに、余り気分が良いものでもないでしょう」
『自分がこれを聞けば』『相手はこう答える』
『自分があれを聞けば』『相手はああ答える』
それをあらかじめ知るというだけで、この世の真実を解き明かせるわけでもない、と老人は語る。
実際、祭我が何にも答えるつもりがないなら、それこそ何もわからなかっただろう。
「はっきり言って、身内にこんなことをしたら奇異な目で見られて、二回目以降は何も答えてくれなくなりますよ」
旅先で未来を予知する老人に出会った、というのならこの対応も納得ではある。
しかし、自分の家の近所にこんなことを言ってくる爺さんが住んでいたら、さぞ嫌われていることだろう。
「まあ、話術だと思って聞き流してください……未来を知るぐらいで、自分にとって都合のいい結果を得られるものではない」
ラン達テンペラの里の出身者も、まさか亀甲拳がこういう強さを持つとは思っていなかった。
凄く地味で、余り強くない拳法。その程度の認識だったが、それは一面だけを切り取ったものでしかなかった。
「我らは開祖の事や先祖の血を継いでいるとしても、その思想に縛られる必要はない。それに準じて命を落とせば、なんにもならない」
「二千年前生き残ったようにか?」
「その通りです」
エッケザックスの問いに、疲れた老人はしおれるままに答えていた。
「二千年前のテンペラの里は、周辺の戦争に参加しては戦果を挙げておりました。それこそ、テンペラの兵を雇えば勝利は決まっていると噂されていたとか。私も過去を読み取り、確認しました。当時の里は、それはもう繁栄していましたよ」
昔の栄華を語る老人は、それを素晴らしいものだとは思っていないようだった。
むしろ、昔の繁栄が間違っているもので、今の在り方こそが正しいと信じているようだった。
「ですが、だからこそ貴方達を引き寄せてしまった。本当にこの世界で最強であろう、エッケザックスとその所有者、スイボクを」
当時のスイボクは、武者修行の旅の最中だった。
良く言えば精力的な時期であり、悪く言えば名のある者を斬っていた時期だった。
エッケザックスと関係が良好だった彼が、この里に踏み込んできたのも当然だったのだろう。
「この世に我らへ及ぶものなし。そう公言してはばからなかった当時の里は、彼と戦い、その実力者のすべてを討ち果たされ、憤慨し総力戦を挑んだ……我らが先祖を除いては」
それは、一種の断絶と言ってよかった。
エッケザックスが驚いていたように、当時の実力者は全員スイボクと戦い返り討ちにあったのだ。この場合、返り討ちにあったという表現が適切とは言えないが、とにかく九つの家は壊滅状態になったのだった。
「我が先祖は、すべてを予知していた。彼に挑めば全員死ぬと、その上彼らをどう諫めても止まらないと。だからこそ……我らは逃げて隠れた。家に引きこもったのです」
当時のスイボクも、大量虐殺を好んでいたというわけではなかった。
向かってくるならば容赦はないが、戦いを挑まないならばその限りではなかった。
スイボクという嵐が過ぎ去った後、星血を宿した亀甲拳は里の復興に勤めたのである。
「当然、各家の秘伝など知らないし、知っても意味はなかった。口伝が潰え、技の多くは断絶しました。それを復興させたのは、我らが過去を見る力を持っていたからこそ。戦闘に参加しなかった赤子たちを何とか育て、失われた技を復活させていきました」
少なくとも二千年前、すべての家に指導をしたのが亀甲拳の者たちだったのだろう。
だからこそ、今でも各家の秘伝書などというものが残っている、存在しているのだろう。
「二千年前の話など、今更蒸し返すつもりはありません。しかし……先祖は学んだのです。我らがランで学んだように、どれほど最強を語っても、どうしようもない化け物には勝ち目がないのだと」
それを聞いて、ラン達五人は納得をしていた。
確かに、スイボクの弟子には今でも全く勝てる気がしなかった。
仮に彼へ殺すように命令が下れば、自分達はどう戦ってもなす術がないだろう。
それを、昔の自分たちは負け犬だと罵っていた、軽蔑していたことも、もちろん忘れてはいない。
「この里がそれ以降存続しているのは、結局最強を区切ったからこそ。傭兵として世間に名を売っていれば、今頃他の誰かに滅ぼされていたでしょうな……」
この隠れ里が維持されていたのは、強いからではなく引きこもっていたから。
勝つことよりも生き残ることが大事だと判断したから。
拳法が殺しの手段ではなく形骸化し、武術が文化や競技となって弱体化したとしても、それでも二千年間『平穏』を得ていた。
それはそれで、十分誇るに値することである。
「まあ、それがつまらんと思うのも当然……しかし、それを我らに押し付けないでほしい」
我らの里は凄いのだぞ、我らの拳法は強いのだぞ、我らは千年間不敗なのだ。
そう言って、どこからの誰かが損をしたのだろうか。
この狭い里に引きこもって、ひたすら先祖から引き継いだ武術に邁進して、身内で試合をして盛り上がっていることの何が駄目なのだろうか。
「もうとっくの昔に、この里の者は『世界最強』なんて目指しておらんよ」
はっきり言って、迷惑だった。身内で楽しく遊んでいるのに、本当に世界最強ではないかという化け物が現れてしまった。
こっちは野良仕事の合間に鍛えている程度なのに、もっと全力で殺しに来いと言ってはばかりない。
そんなのには付き合えない、どっかへ行ってほしい。
「ラン……この里にお前の居場所はもうない。お前の事を許すつもりも殺すつもりもない。お前がいたことなんて、皆忘れたがっているのだ」
自分たちは楽しくやっていた、それなりに努力して修行して、自負だってあった。
それを全部、何も努力していない子供に踏みにじられた。もうなかったことにしたくてたまらない。
「……そうか」
短く、少し寂しそうにランは応じていた。実際、そうされても仕方がないことをしていた。それは、ここまで一緒に旅をしていた面々には応えるものがあった。
昔の祭我なら、目の前の老人を張り倒していたかもしれない。
しかし、ランはただ強いというだけでこの里に拒絶されているのではない。この里に多大な迷惑をかけたからこそ、狂戦士として暴れまわったからこそ、迷惑をかけたからこそ、ここまで冷たい扱いをされているのだ。
それこそ山水の言うように、今この場にいる誰かが、取り返しのつかないことになっていたのだから。
「他の四人に関しても、余り長居はしてほしくない。一応指導して基本は教える、未熟なところも指摘する。それが済めば、また出て行ってほしい」
老人自身、言っていることが無茶だと思っているのだろう。冷たい対応だと思っているのだろう。
だが、その原因は確実に五人がしたことなのだ。仮に悪血が原因だとしても、それが解決したとしても、それに付き合うほど彼らは寛大ではない。それは普通の事だった。
「……四人の事は、感謝する。ありがとう、よろしく頼む」
ランは、亀甲拳の老人に頭を下げていた。
自分はすぐにでもこの里から出て行くべきだと、冷えた頭で理解していたのだ。
ここにいても、それこそ誰も得をしないのだと分かっていた。
「……秘伝書はお預かりします、これは……大事に使わせてもらいます」
祭我も立っていた。
少々休憩をしていた面々も、すべてを察してすぐにでも出立する準備をしていた。
ランがこの場にいるわけにはいかないなら、自分もここにいるわけにもいかない。
彼らは、この里の外の事なんて知りたいとも思っていないのだから。
「ああ……すまない」
既に日が昇り切っている。今から里を出るとなると、暗い道を歩くことにもなるだろう。
それでも彼らは、残していく四人を気遣いながらも去ることにしていた。
その彼らを、【世界を守る戦い】に身を投じるであろう彼らを、心底から煩わしいものを見る目で、老人は見送っていた。
「……私達は、どうでもいいのだ。この里の外で本物の最強がどう振る舞っているとしても、関係ないのだ。それは好きにやってくれればいい」
それを見送る老人は、先ほどの『質問の予知』を思い返していた。
先日彼は、ある未来を予知した。
その予知の内容をエッケザックスに訊ねた場合、彼女はとても取り乱していた。
占術と呼ぼうが亀甲拳と呼ぼうが、時力と呼ぼうが星血と呼ぼうが、本質は変わらない。
意図せずに発動するのではあるが、もっとも有用な予知ができるのは寝ている時なのだ。
そして、もう老い先短い老人は遠くない未来に何が起こるのかを夢に見てしまった。
それをエッケザックスに訊ねたらどうなるのかを予知して、それを伝えることはなかった。
何も見ていない、何も聞いていない、何も喋らない。何も知らないことにしておく。
それが一番賢くて疲れない生き方だと、予知能力者は知っていた。
『バカな?! 【竜】がこの世界を見つけだたと?!』
『もう一万年以上昔の話だぞ?! まだ生き残りがいたのか?!』
『あのトカゲどもは、あの世界と命運を共にしたはずだ!』
『もしも次元の嵐を越えることができたのだとすれば……』
『この世界も、奴らの手によって滅びかねん!』
伝説の狂戦士も最強の神剣も、旧世界を亡ぼしたドラゴンも、どうでもいいことだ。
そんな馬鹿げたことに付き合う気力、気骨、気勢など最初からどこにもない。
「うんざりだ」
何も知りたくなかった老人は、もう既に自分が何を予知したのかも忘れようとしていた。