恥部
「随分長生きしたわ。長く生きてみると、人生なんてアッというものよ。貴方でさえそうなんでしょうね、サンスイ様」
「様と呼ばれるほどではありませんよ、私は」
目の前の老婆と、夕日に照らされる部屋の中で話をしている。
レインの学業が思いのほか進んでおり、とても優秀だと褒めてもらった後で、彼女の心残りを聴くことになった。
不老長寿、それは人間にとって永遠の憧れだ。少なくとも俺の生まれた故郷でも、この世界でもさほど変わりはないだろう。なまじ、本物が目の前にいれば、尚の事だろう。
「長く生きていれば偉いなんて言うのは、馬鹿の考えることです。貴女より私は長く生きていますが、誰かの役に立ちたいと思ったことはありませんよ」
「そういう考え方も、限られた時間にこだわる人間の性質なのかしら」
「限られた時間を生きているのは、私も同じです。長いのか短いのかなど、大した違いではないでしょう」
俺はこの老いた女性が何を思っているのか大体わかる。
もちろん、この女性だって察されているとわかっている。
彼女は自分が幸福で充実した人生を送ってきたと分かっているし、今更不老長寿を求めてもいない。
ただ、話をしたいだけなのだ。
「誰もが、死ねば終わりです。そういうものです」
「そうね……本当にそう。でもね、歳をとると今できることが減っていくのよ」
俺も師匠も、結局人付き合いを断っていた。それは仙人としては普通の事だと思っているし、そうあるべきだと思っている。
そもそも、一緒にいて楽しいものではないだろうし、永住されては煩わしいだろう。
俺たちなど所詮、山に生えている木の様な物だ。人間の役に立つものではない。
まあ、人間はありがたがっている、ありがたがるものだとは、俺も憶えているのだが。
人間を卒業したつもりはないが、普通に生きている人間への引け目はある。
「私は長く、永く生きましたができることなんて増えてませんよ。結局人を殺すことしかできない」
人々から飢えを根絶するために、東西へ奔走している恵蔵ダヌア。
彼女はずいぶんと、俺や師匠を敵視していた。そりゃそうだ、世の動物は腹を満たすために必死なのに、俺達と来たら朝から晩まで素振りしてるだけなんだから。
そりゃまあ、服や住居は自給自足だったけども、そんなに頻繁でもなかったし、二人とも物欲なかったから割とすぐ終わったしなあ。
「本当は、レインを育てるにしてももっと……何から何まで自分でやるべきだったんでしょうね」
「あらあら、貴方らしいわね」
結局、偶々偶然知り合ったソペード家の御令嬢に雇われて、その家の多くの人に助けられて、育てているともいえないような状況になっている。
見方によっては、俺の稼ぎによって娘に裕福な暮らしをさせているともいえるのだが、色々と大変なことを他人に押し付けているともいえる。
まあ父親なんてそんなもんだ、と言われたらそうかもしれないし、そもそも俺が彼女を一人で満たせるとも思えない。
一人で頑張るべきだったんじゃないかな、と思いつつも、その場合レインはここまで幸せにはできなかっただろう。
「私は自制しているだけで、感情がないわけではありません。ああすればよかったとか、こうすればよかったとか、思わないわけではありませんよ」
「そう……貴方も思うところはあるのね」
「ですが、感情で動くのは良くありません。感情で動きすぎると、肝心の判断力さえ失ってしまう。誰とどう戦うかよりも、誰とも戦わないようにするのが一番です」
正しい判断は、正しい動作に勝る。
それは世の中の大概の事に当てはまることだ。
走るのが遅いとか速いとか、そんなことよりも目的地へ正しく向かっているかの方が重要なことと同じだ。
「必要なら戦うべきです、この世界はそんなに優しくない。しかし、戦うことを極力避けるべきでもあります。狂戦士が世間から忌み嫌われているのも、結局戦う相手を選ばなかったからでしょう」
「狂戦士の末路は、どれも似たようなものよ。貴方の師匠であるスイボク様が倒したという狂戦士も含めて、およそまともな死に様ではないわ」
いやあ、当時の師匠の話を聞く限り、通り魔というか辻斬りというか道場破りっぽいことをしていたようだし。
師匠に殺された場合は、また別だったと思う。
「貴方の師匠は彼らの仕組みを理解して、エッケザックスに伝えていた。それが私にはとても大きな意味を持つことよ。貴方がいても、大体見破れたかもしれないけどね」
「どうでしょうか、私はそこまで彼女に興味を持ちませんでしたから」
「残す、というのは素晴らしいことだと思うわ。私が教えている失敗の記録さえ、『傷だらけの愚者』と呼ばれる彼には役立った」
学問とは、失敗の蓄積であるという。定説など、しょっちゅう入れ替わるのが普通だ。
勘違いや思い込みが、真面目な本に書かれているなどよくあることで、これはこの世界でも一緒だろう。
その辺りのことが理解できるのは、元日本人でありその辺りの価値観を持つ仙人である俺故なのかもしれない。
「歳を取るとね、昔ああすればよかった、こうすればよかったと思うの。でもそれより辛いのは、あの時はどうあがいても何もできなかった、という無力と不自由を思い知ったときよ」
後になって検証して、やはり何もできなかったと後悔する。それは確かに悔しいだろう。
しかしそれは、上手くいく見込みがあるとしても、危険を伴うことに挑戦していいことにはならない。
それで失われることを思うと、俺はとてもつらかった。
お父様はその辺りを気にしなくていいとおっしゃった。実際、もう俺が責任を取るような話でもないので、それが正しいのだろう。
とはいえ、あのランという狂戦士のせいで被害が出たらと思うと、俺はとてもやりきれない。
「まだ検証段階にあるから、諦めたくないのですか?」
「私は、私が成功する必要さえないと思っている。でもね、少なくとも今のこの学園には、彼女を抑えられるものと切磋琢磨できるものが揃っている。もしも後世の人間が、私と会ったこともない人間が、この状況で安全に徹して、最初からあきらめたとしたら……それは学者としても教育者としても失格だと思われるでしょうね。少なくとも私は、そんな教師に憤慨するでしょう」
しかし、それがヒトの世界で生きていくということなのかもしれない。
人間社会で何かをしようとすれば、必ずリスクが付きまとうのかもしれない。
そして、リスクを抑える条件がある程度揃っているのなら、挑戦しなければ何もできないのかもしれない。
「貴方は現在を見ている、目の前の命を見ている。それは悪い事ではないし、貴方はそうするべき。そんな貴方だから、皆信じているの」
「貴女自身は未来の命を見ていると?」
「そうと言えばそうだし、違うと言えば違うわね。確かに今すぐ結実するとは思えないし、もしも成果があるとしても私の死後でしょう。ですが……私は呪われたくないのよ。同じ志を持った私の後進の者に、臆病だと嘆かれたくない。例え笑われたとしても、失敗したとしても、万全を尽くしたうえで挑戦をしたい」
死にたくないのなら、戦うべきではない。生存を確保したいなら、まず危険な場所へ行くべきではない。しかし、それを俺が言うのは間違っている。
つまりは、この先生も俺と一緒で、わかっていても変えるつもりはないのだろう。
自分の馬鹿さはわかっているが、それでも信念は変えられない。
強い人だ、強かな人だ。俺のように薄く浅い男では、決して止めることはできない。
「私は師の元で五百年過ごし、お嬢様の元で五年過ごしました。そのことに後悔はありません、そうでない人が多いことも知っています」
俺は剣の事しかわからない、戦闘の事しかわからない、あの森で起きたことしかわからない。
人間の持つ確固たる信念も、燃え盛る狂気も、野心も欲望もない。だから、彼女を止められない。
そんなことは、最初から分かり切っていた。
「……貴女は長く生きてください。きっと、私よりも意味のある人生だ」
俺は学園長のいる部屋から出る。
扉の向こうで話を聞いていた、ランと祭我と顔を合わせる。他にもテンペラの里の四人もいた。
俺は当然、この六人がいたことも察していた。六人もわかっているようだったが、盗み聞きをしていたことに変わりはないのでバツが悪そうだったが。
「学園長先生なら中ですが」
「いや、その……実は山水に話があるんだ。実は、ラン以外の四人がテンペラの里に戻ることにしたらしい。俺とランも同行することにしたんだ」
それを聞いても、まあそうだろうとしか思えなかった。
ランが故郷に戻っても、なんの意味もない。おそらく、彼女にとっても里にとっても不幸な事しか起きないだろう。
その一方で、あの四人は余りにも修行不足だった。もっと強くなるためなら、ここにいるよりも故郷へ頭を下げに行った方がいい。
それに、祭我は希少魔法を覚えるほど強くなれる。きっと、未知の魔法を覚えに行くのだろう。
「そうですか、それはいいことです」
「それで……お前にはっきり言いたいことがあるんだ。……殺さずに治めてくれて、ありがとう」
誰を殺さずに治めたのか、それを聞くのは野暮に思えた。
場合が違いすぎるので何とも言えないが、そう思うことだってあるだろう。
「「「「「ご迷惑をおかけしました」」」」」
深く謝罪してくる五人。それを受けて、俺はなんとも言えない感情を抱いていた。
これも、選択の結果である。もちろん、俺の行動が全ての因果というわけではないのだろうが。
「私は……そうですね、謝罪は受け入れましょう。ここから先大変でしょうが、今の謙虚さを忘れないようにしてください。それから……エッケザックスが同行する以上何とも言えませんが……師匠のことで何か言われましたら、私にも教えてください」
まあぶっちゃけ、エッケザックスの話を聞く限り、一番ぶっちぎりで殺されるべきだったのは昔の師匠なわけで。
修行をした結果俺の知っている師匠になったとしても、当時の関係者は結構ぼろくそに言っているし、罪が消えたわけではあるまい。
二千年以上経過してからその弟子から謝られても、子孫の方々もなんとも言えないだろうが。
「場合によっては、私も弟子としてお伺いするとお伝えください」
知りたくなかったなあ、師匠の恥ずかしいところなんて。