自制
「自制の先にこそ、真の自由がある。お前は、それをはき違えた」
「訳の、分からないことを!」
俺の言葉を、俺に対して感じている恐怖を、ぬぐおうと彼女は殴りかかろうとした。
それを、俺が迎え撃つ予備動作をすることで、彼女は慌てて停止した。
そう、彼女はわかっている。如何に彼女が速力で上回っているとは言っても、迂闊に攻撃を仕掛けたところで回避されるのが関の山だからだ。
だからこそ、彼女は踏みとどまった。
そんなことは、話しかける前から分かっている。
「どうした、動きが固いぞ」
攻撃を中断したことで生じた硬直、分かり切ったそれを見逃すわけもない。
縮地で側面に移動し、そこから発勁で腹を押し込む。それだけの技で、彼女は大きく吹き飛んだ。
「ぐっ、こんな技!」
「ああ、効かないだろうな。だがそれでいい、何の問題もない」
最初から倒す気などない。
それは彼女を見世物にする以上に、彼女に実力差を理解させるためだ。
もちろん、斬首同様にあんまり趣味がいいとは言えない。
しかし、達人技によって一瞬で気絶させることができたとしても、彼女を殺すことはできるが実力差を理解させることはできまい。
「自制心がないからこうなる。お前はたしかに体の動かし方に関しては、文句なしだ。走るにしても殴るにしても、全く修正箇所が見当たらない」
「ぐっ……」
「さっきの様に、足を止めたところから踏み込んで打ち込むことに関しても満点だ。あれは初めて試みたな? だが完璧だ、まさに無形と言っていい」
彼女は狂戦士だからなのか、それとも狂戦士の中でも最高クラスの才能を持っているからなのか、体の動かし方が完璧だ。
俺が長い時間をかけて培った、人体構造の理解がこの若さでできている。
どんな体術でも、或いは武器術でも、彼女は完璧にこなせるだろう。
「同じ無形なら、身体能力が上の自分が勝つはず。そう思っている。しかし……それは間違いだ。現にお前は、俺に対処できていない」
そう、彼女はまるで、俺の縮地に反応できていない。
俺が彼女の攻撃を対処できているにもかかわらず、彼女は一方的に撃たれるのみだ。
それが、彼女にとっては不気味なのだろう。
天才というだけの彼女は、この不可思議な事態に困惑している。
「……なんで、お前が動くところが見えない!」
「自制心だ、と言っている」
呆然としながらも、拳を構える。
その上で、何とか興奮している頭を回転させて、対処法を練ろうとする。
無駄だ、彼女の引き出しに、この状況を打破するものはない。
「我慢の事だろう?! この場で我慢がなんの意味を持つ!」
「それを教えてやろう、体感でな」
俺は縮地を使わず、ただ歩み寄る。
すり足ではなく、ただ普通に近づいていく。
それが何を意味するのか、彼女は察していた。
「舐めるな、そこまで馬鹿じゃない!」
無防備に近づく俺に対して、不用意な攻撃をさせる。
そこから縮地で移動して回避し、死に体を攻撃する。
それが、俺の狙いだと思っている。そして、事実そうなのだ。
彼女は何も間違っていない。しかし、それは机上の空論というものだ。
「馬鹿だろう、お前は何もわかっていない」
ただの事実として、彼女は構えてさえいれば、背後に突然俺が移動しても対応できる。
問題は、それが彼女が平常心を保っていられれば、ということだ。
走っているわけではないが、元々俺と彼女の間合いは近かった。
故に、俺は少し歩いただけで、一足一刀の間合いをさらに踏み込んでいく。
それを前に、彼女はどんどんうろたえていく。
「どうだ、まだ『我慢』できるか?」
「ふ、ふざけるな!」
そう、彼女は我慢しているのだ。
非常に興奮している、し続けている彼女は、こうやって時間をかけて間合いを詰めてくる相手に、殴りかかることを我慢することが難しい。
積極的に攻めている時は、つまり今までは一切意識していなかったが、彼女は消極的な戦い方をするのが苦手なのだ。
完璧なはずの身体操作が、目に見えて強張っていく。
手を伸ばせば俺に届く。そんな間合いなのに、憎い敵を殴れない。
そんな精神状態で、彼女が体に余計な力が加わるのは当然だ。
「分かったか? これが修行が足りないということだ」
「黙れ!」
ついに、迂闊な攻撃を顔面に向けて突き出してきた。
自分でもわかっているだろうが、この拳はガタガタだ。
フォームが崩れている上に、余計な筋肉が緊張していることで速度が落ちている。
おまけに体重を込めているから、途中で留めることもできない。
俺は軽く下がりながら、顔の前に掌を置いた。
ランの拳が伸びきる一瞬をつかみ、包む。
そこから、発勁。
「ぐあっ?!」
「足りないな、何もかも」
頭を揺さぶれば、当然気絶させることができる。
しかし、拳という人体の末端を揺さぶっても、腕が一本しばらく使えなくなるだけだ。
そして、それも一瞬で復活する。しかし、一瞬だけは全く動かせない。
機と呼ぶには、余りにも長い一瞬だ。
「このっ!!」
「なぜ下がらない」
片腕が、一瞬死んだ。
その事実を認識して、彼女はもう片方の腕で反撃を試みる。
その身体操作そのものは、正しい。片腕をつかまれた状態ではあるが、理想的な体の動かし方だった。
だが、間違っている。彼女は、反撃ではなく下がるべきだった。
俺は彼女の拳を握っているだけなのだから、後ろに下がれば離されてしまう。
にも関わらず、彼女は反撃しようとする。
つまり、体の動かし方ではなく、行動そのものが間違っている。
「お前の片腕は木偶だ。そこを征されたのだから、まずは離れるべきだ」
軽身功で、ランの体を軽くする。
その上で、つかんでいる拳をひねり、関節を極めながら持ち上げる。
それだけで、彼女の体は宙に浮いていた。
「なっ?!」
文字通り、関節があるだけの軽い人形を投げるようなものだ。むしろ、関節がある分簡単だ。
俺は動かない腕だけをつかみ持ち上げ、頭部を下に向けながら軽身功を解除しつつ地面に落していた。
「くそっ!!」
当然、頭部から床に激突するという無様はない。
彼女は動かせる片手で、自分の全体重を柔軟に受け止めながら頭を守っていた。
片手で倒立腕立て伏せをしているような体勢から、俺の腕を振り払いながら瞬時に復帰する。
「もう十分わかっただろう、お前は自分の体を完全に制御しているつもりかもしれないが、実際には攻撃することしかできない。お前の心の未熟さが、体の自由を奪っている」
自制心が足りない、とはこういうことだ。
狂戦士ゆえに身体能力も身体操作も完璧だが、狂戦士ゆえに攻撃以外の選択肢が不自由を極めている。
「自制心が足りないから、待つことができない。待とうとしても、気が逸って動きが固くなる。下がるべき時に下がることができず、こうして行動を制限される」
「くそっ……くそっ!」
分かっている、彼女はそれが分かっている。
強制的に、わからせてきた。
分かっているが、どうにもならない。
そのどうにもならないということが、彼女の未熟さの証明だった。
「お前は狂戦士だ。それだけで、他の一切がない」
おそらく、これまで生まれたどの狂戦士も同じようなものだったのだろう。
彼女にやった対処を、他のどの狂戦士にやっても同じ結果へ至るだろう。
なんという無個性、なんという不自由、なんという凡庸さ。
「お前には積み上げてきた修練も、理想としていた到達地点も、必死さも理念も創意工夫も一切ない。ただ素質に甘えて、いい加減に生きてきただけだ」
「な、何が言いたい!」
「お前はつまらない、面白くない、くだらなくて退屈だ」
野生の獣だって、もうちょっと一生懸命に生きている。
このランという少女は、人生で何一つ自分に不足を感じてこなかった駄々っ子だ。
「~~~!」
「怒ったか? だが、それでも攻めてこないのは、当てられる気がしないからだ。長々俺の話を聞いているのは、俺の言葉を否定できないからだ」
おそらく、それこそが彼女の存在意義だったのだろう。
彼女は努力とは無縁だった、何か目標を持っていたわけでもないし、一生懸命頑張っていたわけでもないし、その強さをどう使うか考えないし、戦い方を考えたこともないのだろう。
それが、彼女の誇りだったはずだ。
彼女は、そうした輩よりも強かった。周囲にとって悲劇なことに、彼女は頭抜けて強かった。彼女が思い上がっても仕方がない。
だがそれは、あくまでも彼女の不運ではなく、周囲の不運だったはずだ。
「なんで、お前の攻撃に対処できない……それも、自制心なのか?」
「そうだ、俺は自制している。お前の事をどう思っていたとしても、俺の行動は自由自在。常に最善を選び続けることができる。お前と違ってな」
時間をかけた。
彼女と違い、俺は自分の肉体を完全に制御するのに時間を費やした。
そこから先、俺は更に長い時間をかけて、それを常に維持できるようにした。
「修行が足りないな、ラン。お前はどうしようもないほど、修行が足りない。その程度の力で自分は最強だと思い込む、その未熟。いっそ滑稽なほど、お前は未熟だ」
羨ましくさえある。俺は今でも満足できていない。この自分に不満があって仕方がない。
何時か、レインの独り立ちを見届けたら、その時師匠に色々と稽古をつけてもらうことが沢山ある。
この世に自分と戦えるものが一人もいない。その程度で満足できる、この娘の謙虚さには見習わなければならないほどだ。
もちろん、皮肉だが。
「すべての生き物に、明日は保証されていない。お前も俺も、今この瞬間死んでもおかしくはない。特に、お前はな。さて……今日まで勝利を貪って、最強を甘受してきた、テンペラの里のラン。お前は今死んでも悔いはないか?」
死とは敗北の先にあるもの、あるいは弱者が強者に押し付けられるもの。
だとすれば、彼女は自分が本当に死ぬとは、考えたこともないだろう。
「俺はお前と、お前達と戦った一昨日、お前達を殺さなかった。そのことを、正直に言って後悔している」
殺す理由がないと思っていた。
そこまでしなければならない理由はどこにもなかった。
しかし、やっぱりそれは思い違いだったのだろう。
「俺がお前を殺しておけば、スナエ……様が怪我をすることはなかった。確かに相性上有利ではあったが、それでも戦えば重傷を負うかもしれなかった。それに、他の誰かと戦って、無意味に怪我をするかも知れなかった」
俺が殺さずにあしらったからこそ、皆が皆、彼女を生かしてもいいのではないかと思ってしまった。
確かに俺なら簡単にどうとでもできる。しかし、それは俺だからだ。他の誰かなら、きっと殺されてしまうだろう。
そうでなくても、痛い思いをしていた。俺が殺さなかったばっかりに。
呆れるほどの未熟さだ、彼女が興奮状態にあったことは見るからに明らかなのに、首の供養の件があったからか、彼女を殺さずに済ませてしまった。
「お前を殺さなかったせいで、沢山の人が危険にさらされた。俺がお前を殺さなかったから、沢山の人がお前を殺さなくてもいいと思ってしまった」
もちろん、誰かから恨まれることもなく生きたいと思うのは、余りにも傲慢だ。だが、それを抜きにしてもランは普通じゃなかった。
事実として、彼女は常に興奮状態にある。それを放置したのは、弁解の余地がなかった。
「俺の軽はずみな判断で、誰もがお前の危険性を見誤った。今回、俺がお前をどこまでも貶めたことで更にそれは悪化するだろう。お前がその気になれば、俺か祭我……様以外などいくらでも殺せるというのに」
それはきっと、正蔵の場合も一緒だ。彼はいくらでも、好きなだけ世界を壊せるはずだ。
だが違うのは、彼は自制をしている、できているということだ。
彼女には、それができるのかということだ。彼女はその素質によって、極めて直接的に狂いやすい。
それどころか、狂っているのが普通という始末だ。
「お前は何を望む、狂戦士ラン。ただの天才、世間を騒がせ、害をなす悪鬼よ」
「何を、望む?」
「強者が勝者となる、という摂理を行うことに酔いしれているのであれば、更なる強者としてお前を駆除しよう。身に余る力に酔いしれ、それを世界に示そうというのなら、その害悪をまき散らす前に誅罰を下そう」
俺は神ではない。彼女が知覚圏内にいなければ、何をしてもわからない。
仮に分かったとしても、彼女が暴れ出せば止めに行くにも時間がかかる。
そして、傷ついた人も失われた命も、俺にはどうすることでもできない。
「まあ、そのなんだ。つまりは……最後に言い残すことはあるか?」
この世には、死んでいい命などどこにもない。
しかし、死なない命も何処にもない。
そして、すべての命は貴く、各々にとって大切なものを繋ごうとしている。
「俺はな、そんなに頭が良くないんだよ。最初は生かしておいてもいいと思ったが、よくよく考えてみれば、お前のせいであの場の皆が死んでたかもしれないじゃないか」
俺にも優先順位はある。
彼女が暴れた時、一番被害を受けるのは、あの学園にいる人たちだ。
その彼らが、俺が殺さなかった誰かのせいで死ぬ。
それも、この上なく露骨に危険な奴のせいで。
「それは、嫌なんだ。その程度には、俺にも感情はある」
必要ないなら殺すな。お嬢様にはそう言われている。
だが、殺すべきだと判断したなら、お嬢様はそれを許すだろう。
「お前から見れば、弱い奴なんてどうでもいいかもしれない。でも、あそこの奴らは健気でな、強くしてやりたいんだ。もちろん、戦場で果てるのが当たり前で、殺されても仕方がない。だが……特に生かしておく必要もないお前を見逃して、そのお前が殺したとなれば、俺は嫌な気分になるだろうな」
彼女にとって、彼らは価値がない。
世間から見ても、彼らには価値がない。
彼らから言っても、今の自分達にそこまでの価値はないと思うだろう。
もちろん俺だって、優先順位から言えばかなり低い。
しかし、少なくとも目の前の狂戦士よりは高い。
「私は……死ぬのか?」
「ああ、死ぬ。お前が今まで好き勝手にしてきたのと同じように、俺の好き勝手によって殺されることもあるだろう。嫌か?」
言葉に感情は乗らない。
表情にも出ていないだろう。
それが自由自在というものだ。
「わ、私は!」
「お前に自制心が宿るかどうか、その辺りはわからん。もしかしたらできるようになるのかもしれない。だが、正直興味がない。もしも失敗したら、今殺しておけばと後で後悔するよりは……ここで殺して、すっきりしたい」
ある意味、右京の殺戮を止めなかった国王様と同じ心境だろう。
生かしておくと何をするかわからない。そして、もしかしたら何もしないかもしれないが、それを期待するほど彼らに価値がない。
今まさに、そんな気分だった。
「私は……!」
彼女はまだ興奮している。
銀色の髪が波打っている。
そして、今目の前には憎い俺がいる。
死の恐怖、敗北の屈辱、不自由への不満。それらが、彼女を誤らせるだろう。
俺は、腰の木刀を抜いていた。
まさに土壇場の風景、彼女がどう動いても、俺はたやすく殺すことができる。
彼女の葛藤が見て取れる、それは彼女の身体操作を誤らせるには十分だ。
そして、今でも俺は全体を把握している。
コロッセオの誰もが、俺の処断を前に息を呑んでいた。
もしかしたら、狂戦士が戦うところを見たかっただけなのかもしれない。
もしかしたら、俺が本当に強いのかを見に来たのかもしれない。
もしかしたら、ただ友人に誘われたからなのかもしれない。
その誰もが、俺の空気に支配されていた。
「私は……!」
ランの涙を、誰が見ることができただろうか。
近くで対峙している俺は、もちろん彼女のそれを見ることができた。
「私は……!」
興奮している彼女は、昂った感情を制御できずにいるのかもしれない。
泣きたくなったら、そのまま泣いてしまうのかもしれない。
そして、それは年頃の少女として当然なのかもしれない。
「私は……」
「そして、お前を殺さなかったとしても。その結果、お前が何かをして後悔したとしても……それでも、俺が勝手な判断をするのは間違っている」
俺は、腰に木刀を戻した。
「私はドゥーウェ・ソペード様の剣。お嬢様に命じられるまま斬るのみ。故に、勝手な判断で貴女を斬るべきではないのだろう」
こうやって脅しておくのがやっとで、俺は彼女を殺してはいけない。
あの時と違い、沢山の人が彼女に思惑を持っている。
だとすれば、やっぱり殺すべきではないのだろう。
俺は彼女に背を向けて、そのまま去る。
戻る先は、もちろんお嬢様やブロワの待つところだ。
そして、俺の背後に気配を感じる。
「ラン、大丈夫?!」
「首、繋がってる?!」
「実は斬ってて、後で落ちるとかない?!」
「確認して!」
泣きじゃくる彼女を、同郷の面々が慰めていた。全く、茶番も甚だしい。
とはいえ、あの子に恥はかかせたからお嬢様は納得するだろうし、ランに釘はさせたし、俺が指導している面々にはいい指導になったと思うし、観客も狂戦士の戦いと俺の戦いを見て満足だろうし、そんなには角が立たないだろう。
これが俺の精いっぱいだった。
まったく、あの時殺しておけばこんなことはせずに済んだのに。
「我ながら、修行が足りないな」