本質
本日はコミカライズが休載です。
交換した剣を構えなおすスイボクは、目の前の相手が膨れ上がったように感じていた。
先ほどまではスイボクへの侮りがあったのだが、今はそれが消え失せている。
もちろん、人間が急に、いきなり、なんの前触れもなく強くなるなどありえない。
「ここからが本番というわけか」
スタジオが、本気になった。
覚醒を遂げただとか、そんな奇跡が起こったわけではない。
簡単に殺せる相手だと思っていたが、ここから先は本気の殺し合いだと認識しただけなのだ。
そしてスタジオは武将である。自分が死ぬかもしれない、と思って委縮するような小物ではない。
むしろ逆、彼にとってはそれが本来の戦場だった。
「スイボクと言ったな」
観客たちに聞こえないような小声で、スタジオはスイボクへ話しかけていた。
「そうだ」
とても嬉しそうに、胸が弾んでいるような顔で答えた。
「……」
名前を確認しただけで、そこから先の言葉が出てこなかった。
そして、その必要もない。スタジオは手にしている大剣を、強く握りしめた。
窮鼠、背水、死地、土壇場。
相手を殺さなければ、自分が死ぬ。そういう状況だと理解しなおした彼は、憤怒に表情を固めた。
「こい、スタジオ!」
そして、スイボクもまた彼の名前を確認した。
それだけで、十分すぎた。
「おおおおおおおおおおお!」
一国の武将として、軍人の礼装を着ているとは思えない、あまりにも野蛮な雄たけびが響いた。
余りにも原始的な、しかし本質的な戦士の叫びが、試合会場の全員に恐怖を感じさせていた。
「おおおおおおおおおおお!」
スタジオの放つ気勢が、虚勢ではないとスイボクは察していた。
彼もまた、スイボク同様にエッケザックスを操る資格を持つ、最強を自負する剣士なのだと認めていた。
肺の中の空気を出し切った彼は、同時に自分の中の恐怖を吐き出しきっていた。
息を大きく吸い込みながら、闘志と殺意を練り上げていく。
「があああああ!」
太刀筋はまっすぐで、剣に込めた力が正しく刃に伝わっていた。
一瞬でも早く相手を切り殺す、戦場の剣士がそこにいた。
「ぬうう!」
豪快で、素直で、愚直な一撃だった。
初手から渾身の一撃を受けたスイボクは、スタジオよりも数段小さい体でなんとかこらえていた。
「おおおおお!」
雑兵が相手なら細工抜きでも、粗末な防具ごと体を真っ二つにする一撃だった。
それを受け止められても、スタジオに一切の動揺はない。
受け止められて当然と言わんばかりに、再度大きく振りかぶって渾身の一撃を繰り返す。
「ぬ!」
一旦受けに回ったスイボクに反撃を許さぬ、まさに猛攻だった。
筋力と体格にものを言わせた、圧倒的な攻勢だった。
連続攻撃のすべてが全力であり、しかも回転が速くなっているようにさえ感じられる。
(これは、一人を相手にする剣ではない! さながら敵軍を蹴散らす、武将の進撃!)
戦場ほど、一対一から遠い場所はない。
武器をもって、防具を着込んで、十分な訓練を積んで、目の前の相手を殺す気構えを持つ。
そんな兵士たちが大将首である自分めがけて、目の色を変えて襲い掛かってくる。
それらに呑まれた武人は数知れず、そしてスタジオは逆に飲み干した側だ。
自分が不利でも、相手が強くとも、そういう状況なのだと腹をくくる。そうすれば何が起きてもひるむことはない。
スイボクがどれだけ自分の攻撃を受け止めたとしても、スタジオは攻撃の手を緩めない。
自分の防御など考えもせずに、一瞬でも早くスイボクを殺すために全力を賭している。
「ぬぅ!」
「おおおおおお!」
先ほどの戦いはじゃれ合いだった、そう感じるほどに鬼気迫る勢いでスタジオはスイボクを押し込んでいく。
体格と筋力で勝るスタジオの猛攻は、スイボクをどんどん後ろへ下げさせていく。
スイボクは下がりたくて後ろへ下がっているわけではない。
スタジオの圧力が高すぎるため、その場に踏みとどまることができなかっただけだ。
体力の温存を度外視した、肉体の限界を超える攻撃。
それを受け続けるスイボクもまた、肉体を消耗させていく。出血や負傷こそないものの、筋肉や骨格が悲鳴を上げ続けていた。
勝機がある、優位にたった、などとスタジオは思わない。
相手が死ぬまで、息絶えるまで、自分の安全は保障されない。
彼は正に必死の覚悟で、重量のある大剣を振るい続けていた。
「甘い」
だがしかし、それはやはり対多数の剣に他ならない。
相手が多数ならそれも仕方がないが、一対一ならば最適な剣術とは言えなかった。
攻撃が止まず、高回転を保っているのであれば、逆に言えば単調になっているということである。
重量のある大剣は、一旦加速させて軌道を決めると、途中で変更が効かない。
まして使っている本人が、攻撃で押し切ろうとしていればなおのことである。
「な!」
頭部への、斜めの斬撃。それを回避されたスタジオは、大きくつんのめっていた。
スイボクは身をかがめつつ、剣を背負って後の先を狙ったのである。
「覚悟!」
剣を担いでいるスイボクは、既に攻撃の準備を終えている。あとは振りかぶって振り下ろすだけだった。
一対一だからこそ活きる、戦いの駆け引き、剣術の理合い。
「ぬおおお!」
戦いの刹那で、一拍の遅れは致命的となる。
だがそれを分かっていても、スタジオの体は正しく動いていた。
凡庸なら自分が死ぬことを悟って身動きさえできないところだが、彼は生きるために最善を尽くそうとする。
先ほどと違い、スイボクの持っている剣は通常のまま。刃こぼれをしているとはいえ、重さも長さも十分である。
先ほどのように腕で受けようとすれば、片手なら切断され、両手でも骨まで食い込むだろう。
そこで試合が終了しても、スタジオの人生はそこで終わる。試合の終了が間に合わなければ、そのままとどめを刺されるだろう。
なんとしても、剣で受けなければならない。
スタジオは残った力を総動員して、空を切っていた剣を防御に回そうとする。
「スタジオ……なかなか強かったぞ」
しかし、相手の攻撃を剣で受けるには、強く固定しなければならない。
牽制ならともかく、片手剣ならともかく、全体重を込めた必殺の意気込みで放つ両手剣の一撃。
それを受けきるには、大剣を掲げて軌道上に置くだけでは足りないのだ。
「が……」
大剣ごと切り裂くとはいかなかったが、それでも押し勝っていた。
スイボクの剣はスタジオの剣を押し通し、そのまま頭に食い込んでいた。
誰もが致命傷とわかる、わかりやすい死を迎えていた。
「だが技が雑だったな。戦場においては無双の働きをしたであろうが……それだけのことだ」
スイボクが少し残念に思うのは、彼があくまでも武将でしかないということだった。
確かに戦場という場所は、この上ないほどに実戦である。ありとあらゆる武器が交差する、平穏から遠すぎる戦いである。
しかし、戦争で最強の者が、ありとあらゆる状況で最強というわけではない。少なくとも今この場は、戦場ではない。互いが完全武装しているわけではなかったのだ。
とどめとなった今の一撃も、スタジオが頭を兜でしっかりと守っていれば、致命傷になることはなかったはずである。
防具が不十分ならば、攻めに徹し過ぎるのはとても危うかった。
そうと知っていてもスタジオには、決闘で必要とされる技を磨く時間がなかったのだろう。
必要性が乏しいこともあるし、そもそも武将は忙しい。そして普通の人間は、どうしても時間に限度がある。
ここで俗人如きが、と言わない程度には、この時代のスイボクも節度や恥を知っていた。
「さて」
スタジオの気勢が消えた試合会場は、同時に他の音も消えていた。
浮浪者同然の恰好をしているスイボクの、一太刀によって倒れた自国の大将軍。彼を前にして、帝国の貴族たちは現実を受け止められずにいたのだ。
先ほどまでの彼らは、スタジオの強さに驚嘆していた。
ある者は恐怖し、ある者は感動し、ある者は畏敬の念を抱いていた。
これほどの強者が自国を守っているのだと、誇り高く感じたほどだった。
その彼が、気づけば切り殺されている。
神剣を持っているというだけの、田舎者どころか野蛮人に。
おかしいことだった。こんなことは、起きてはいけないはずだった。
しかし現実は、スイボクの勝利に終わっている。
「ふむ」
誰も、スイボクの勝利を称えなかった。
スタジオに真っ向から勝利したにも関わらず、誰もがスイボクに対して嫌悪感を抱いていた。
はっきり言えば、空気を読めと言う雰囲気がその場を支配していた。
彼らは勝つか負けるかわからない戦いを見に来たわけではない。
最初からスタジオが勝つと決まっている戦いを、スタジオが神剣を得る戦いを、ただの儀式として見に来ただけなのだ。
間違っても、スイボクが勝つことなど望んでいなかった。
望んでいないどころか、許していなかった。
尋常の勝負だったとか、試合が終われば恨みっこなしだとか、互角の条件だったとか、そんなことは頭に思い浮かぶこともない。
特権、という言葉がある。
普通ではないということ、競争することさえないということ。
勝つか負けるかわからない勝負など存在せず、最初から結果が決まっている状態のこと。
彼らは最初からそれを得ているものばかりであり、故に自分たちの思うがままになって当然だと信じている。
立場が上か下かが一番重要であって、それに反するものは悪だと疑わない。
常識を疑わないからこそ、外国の人間もそうなのだと思い込む。
もちろん、そんな甘えが通じるわけもない。だが、スタジオやアトリエ、サンキャのような一流と違って、一般的な貴族はそんなものであった。
そして、その最たる例がこの国の皇帝に他ならない。
「~~!」
たとえ俗物の中でも、頂点に立つというのは簡単ではない。
武官であれ文官であれ、その頂点には相応のうまみがあるのだから、当然のように競争が生じる。
それを勝ち抜いたサンキャや双子将軍は、俗物ではなく傑物と言ってよかった。
しかし、現皇帝はそうではない。
はっきり言ってしまうと、彼は運が良かっただけの男である。
優秀だった先代皇帝である兄に対して劣等感を抱えていた彼は、憤慨しつつサンキャへ毒殺を指示した。
たまたまサンキャが気まぐれのような理由でそれを請け負い、何かの間違いでそれが成功してしまったため皇帝になった、何のとりえもない男である。
もしも双子将軍が軍を挙げて反乱を起こせば、何の抵抗もできずに始末されていたであろう男である。
彼が皇帝の座に収まれているのは、双子将軍もサンキャも、皇帝の座に対して特に興味がないというだけのことである。
忠臣を得ているという意味では、優れた為政者と言えなくもない。如何に自分の懐を痛めていないとはいえ、有能な彼らへ相応の地位や報酬を与えていることも事実である。
だが彼個人は、何の才能も資質も、能力も自制心も持ち合わせがなかった。
サンキャや双子将軍は、本音と建て前を使い分けている。
世界が自分の思うがままにならなくて当然だと知っており、思うがままにするには膨大な労力が必要だと知っている。
だが皇帝はそうではない。彼は世界が思うがままにならないことが、絶対に許せないのだ。
「アトリエ!」
「はっ!」
そして現実と願望の間に生じるゆがみは、彼の配下に押し付けられる。
「その小汚い男を殺せ!」
「承知いたしました!」
一応とはいえ、勝負の形式をとっていた試合は終わった。
それは試合会場全体の雰囲気であり、ここから先は何をやっても許される状態になっている。
「我が名はアトリエ! 我が兄弟を打ち倒した気になっているようだが、それもここまでだ!」
「ほう」
「貴様がスタジオを切り殺せたのは、ただ幸運に恵まれただけだ! 本来ならば、貴様如きが討てる相手ではない!」
アトリエの言葉は、弁解なのかもしれない。負け犬の遠吠えかもしれない。
しかし、それでも言わずにはいられないのだ。一国の頂点に達した男が、こんな男に負けたなどとは認められない。
「貴様の剣技が人並み外れていることは認めよう。だがそれは、スタジオが戯れによって貴様と一対一で戦ったからだ! そうでなければ、勝てるわけもない!」
アトリエの言葉は、スイボクにとっては侮辱だった。
やや迂遠な言い方ではあるが、スイボクのことを弱いと評しているのだから。
「十の軍、千の部隊、万の兵を率いてこそ将だ! この帝国の軍事において頂点に達した男だ! 本来ならば、智による策と陣を乗り越えて、数多の犠牲を乗り越えて、ようやく対峙できるものだ! それを……それを!」
それでもスイボクは、アトリエの言葉を黙って聞いていた。
彼の表情からは、軽蔑でも嫌悪でもなく、悔しさだけが溢れている。
「スタジオを倒したことで、名を上げられると思ったか? 貴様は存在しなかったことになる。誰も貴様のことを語らず、記録にも残らなくなる! ここで私がお前を殺し、痕跡さえも消すからだ!」
全力を出し切れぬまま死んだ、本分を発揮できないままでの死だった。
こんな試合会場の中で、皇帝の前でのお遊戯で死んでしまった。
それを嘆く、悲しんでいる。
兄弟だからではなく、武将だからこそ悔しいと思っている。
スイボクは、その気持ちがわかってしまう。
「下らん」
わかるからこそ怒ることはないが、呆れてはいる。
「蛇足だぞ、アトリエ。スタジオは本当に強かった。一切言い訳をせずに、最後まで勝つために戦った。惜しむ気持ちもわかるが、お前のそれは見苦しいだけだ」
スイボクは促す。
戦うつもりなら、ただ戦えという。
「戦って勝って殺せ、お前がしたいことはそれだけだろう」
あまりにも単純すぎる姿勢に対して、アトリエは怒りが燃えていた。
まさに、田舎者だった。純朴極まりない、無垢な剣士がそこにいた。
「一体……いったい何様だというのだ、お前は!」
名声も栄光も、地位も財産も、酒も女も一切求めていないただの腕自慢。
アトリエはスイボクの人格を完全に理解していた。
だからこそ、そんな輩に巻き込まれてしまった、己の兄弟の運命を嘆いていた。
虎狩りをしに行って食われたような、そんな話だ。
暗殺をされたわけではないが、事故死のようなものだ。
これがスタジオの人生の結末というのは、あまりにも切ない。
「お前如きが……お前如きが!」
これなら毒で殺されたほうがまだましだった。
自分たちよりも少し強い程度の武人に負けて死ぬなど、あまりにも非運すぎる。
これぐらいの強さを持っていると知っていたら、お遊戯などせずにさっさと殺しておくべきだった。
それは今からでも、遅くはない。
アトリエは、帝国の秘宝を身に纏っていた。
「ぬ」
アトリエが軍服を脱いで着た服は、全身甲冑とは程遠い布の服だった。
異教の司祭が着るような、白を基本とする儀式の服。
それを見て、試合会場の誰もが意表を突かれていた。
その服が何を意味するのか、ほとんどの者は知らなかったのだ。
「まさか、火鼠の衣か?」
「知っているのか。仮にも神剣の使い手に選ばれただけのことはある!」
スイボクだけは、それが何なのか知っていた。
仙人の住まう故郷でも、誰も作れなかった難しい宝貝。
天狗の中の大天狗だけが製造できた、俗人を仙人に限りなく近づける衣だった。
「……ということは、まさか貴様」
「そう、その通りだ!」
兵士から受け取った、布に包まれた長物。
その封印を解くと、中からは燃え盛る溶岩が現れていた。
試合会場が、一瞬にして蒸し暑くなる。
さながら溶鉱炉のすぐ傍のようで、口に入る空気さえも熱を帯びている。
兵士も貴人も皇帝も、滝のような汗をかいていた。
硫黄の匂いさえ周囲に漂い、その場所は野外よりも不快な空間に変わっていく。
「火尖鎗……それも、大天狗の作か」
スイボクも認める、最強の宝貝がそこにあった。
「そうだ……これこそは神が作った最強の槍! 煮えたぎる山の力を封じ込めた槍、火尖鎗だ!」
知っているからこそ、スイボクも驚いている。
まさか俗人の国で、それを見ることになるとは思っていなかったからだ。
「ぬ……」
「貴様には、神剣を手にする暇も与えぬ!」
スイボクは、とても困った顔をしていた。
目の前の相手が自分を脅威と認めて、危険を承知で貴重品を持ち出したのだと理解したからだ。
だからこそ、なかなか言い出せないこともあったのだ。
「そ、そのなんだ、アトリエよ」
スイボクは、ここにきて歯切れが悪くなっていた。
「悪いことは言わん。その槍を俺に使うな、絶対に後悔するぞ」
「ほう! 怖気づいたか! 神剣なくして、この槍に勝てぬと臆したか! だが、貴様はこのまま殺す、殺してやるとも!」
スイボクは困った顔をしていた。
しばらく悩んだ後、説得を諦めていた。
相手が本気だからこそ、口で何を言っても通じないと理解したのである。
「仕方ない……後悔するなよ」
もしもアトリエが多少でも冷静であったのなら、スイボクを深く観察していただろう。
「後悔だと……後悔はすでにしている!」
「いや、そうではないのだが……」
そして気づいたはずだ。
この試合場の誰もが汗だくであるにも関わらず、自分同様にスイボクがほとんど汗をかいていないことを。
「まあいい……引けぬのなら、斬るしかあるまい」
スイボクはエッケザックスを取り戻そうともせずに、剣を構えていた。
「斬るだと……貴様は、燃えて死ぬのだ!」
最強の武器を持ち出したからこそ、最強の神剣を相手が装備していないからこその、必殺技だった。
スイボクとアトリエには十分な間合いがあり、スイボクがどう走ってもアトリエが先に攻撃できた。
「はあああ!」
気合一閃、気炎万丈。
火尖鎗を一薙ぎにしただけで、試合会場は毒気のある炎が満たしていた。
通常の魔法使いの、火の炎とは一線を画す、強大な火砕流。
本来密閉空間でつかうようなものではないが、使ってしまえば相手に逃げ場などない。
出力次第では国さえ滅ぼしかねないそれを、個人に向かって使用する。
それは歴史ある巨大帝国の本気であり……。
「無駄だ」
それが、限界だった。
「な!?」
試合会場に飛び散った溶岩が、くすぶって煙と炎を放っている。
人間どころかあらゆる生物の生存が許されない空間の中で、スイボクは平然としていた。
「アトリエ、俺にそれは効かん」
彼の体には、煮えている溶岩がへばりついていた。
しかしそれを、スイボクはあっさりと振り払う。
何の問題もなく、ただの泥のように飛び散ったそれは、床に散らばっても相変わらず燃えていた。
「それは、天狗や仙人が俗人と戦うための宝貝だ。よって、仙術を修めた俺には、何の効果もない。ただの棒だな」
この時点でも、スイボクの年齢は二千歳ほどである。
花札で千年の修業を積んだ彼は、神の住まう虚空の彼方にさえ自力で到達している。
火鼠の衣を着てさえいれば使える程度の武器で、燃えたり苦しんだりするはずがないのだ。
「そ、そんなバカな!」
サンキャから毒が効かないとは聞いていた。
しかし毒が効かないことと溶岩で燃えないことは、まるで別の話である。
彼には到底信じられないことだった。
「い、いや、まさか? お前のその服も、火鼠の衣だというのか?!」
「……いやいや、違うぞ」
原理としてはあっているが、自分の実力を疑われたスイボクは、少々嫌な気分になったのか服を脱いでいた。
宝貝でもなんでもないそれを地面に置くと、下着姿のスイボクは溶岩を素手で掬っていた。
観客たちも皇帝も、アトリエもサンキャも、ただそれだけで彼が普通ではないと悟っていた。
だがスイボクの奇行は、それにとどまらなかった。
「……不味い」
掬ったそれを、口の中に入れたのである。
毒で死ぬどころの騒ぎではない、誰がどう考えても死ぬ行いだった。
「やはり錬丹法で練ったわけではないから、赤粥のように食えるわけではないな……砂を食っている気分だ」
げふうとげっぷをすると、口の中から炎が漏れ出る。
「火尖鎗の溶岩など、食えたものではないな」
そして、ようやく理解した。
この男は、そもそも人間ですらないのだと。
「とはいえ、だ。棒は棒で、使いようもあるだろう。このまま戦おうではないか」
服を着なおしたスイボクは、再び剣を構えていた。
確かに火尖鎗の炎はスイボクに通じないが、その一方でただの棒としての打撃は通用する。
溶岩の槍ではなく石の棒だと思えば、長物としての有利もあって勝負になるだろう。
「な、な……」
しかし、アトリエはそれができなかった。
目の前の怪物の人格を理解しても、性質を理解していなかったからこそ挑むことができた。
二千年以上の修業と戦闘を経ても、いまだに成長途中の『最強』を前に、戦意が完全にそぎ落とされてしまっていた。
「これも勝負だ」
人間的すぎる怪物はアトリエを惜しみつつも、殺すことこそが強さの証明だと自らに言い聞かせた。
そして、おびえる弱者を一刀で切り伏せる。
「大天狗も、酷なことをなさるものだ」
ただ、恨み言を言う。
それだけが、スイボクにできる愚痴だった。
「き、貴様……!」
それを、皇帝が良く思うわけもなく……。
彼の快進撃は、いよいよ終わるかと思われた。
※
とても今更ではあるが。
本当に、もう大概なほど今更ではあるが。
それでも、はっきりと言わねばならないことがある。
スイボクと山水の最大の違いは、覚えている術や年期、経験ではない。性格である。
山水は五百年もの間、世界最強の仙人であるスイボクとだけしか交流が無かった。よって自分が偉いとか年上だとか凄いだとか、そういう意識がまったくない。
そもそも仙人という者に対して、仙術を使う者、という程度の認識しかない。なにせ俗世と五百年も断絶していたし、もっと言えば根が日本人である山水は仙人の社会的な地位というものがわかっていない。
頭ではわかっているのだが、根本的な価値観が異なっているのだ。
それに対して、スイボクは花札の生まれである。
花札にあっては、仙人とは神である。気が遠くなるほどの歳月を修行に費やすことで、天地を自在に操る術を得ている神に他ならない。
実質的な政治の指導者であり、天地の管理人であり、つまりとても単純に偉いのである。
およそ二千年の後に、山水は妻から『実力のわりに腰が低すぎる』と言われた。
そしてこの時代のスイボクは、実力相応に腰が高かった。
つまり、年功序列や実力相応に、自分が偉いと思っていた。
世界で一番強い男が、世界で一番自分を偉いと思っていた。
それがどれだけ恐ろしいのかなど、知りようもないことである。
「ああ、不安だ不安だ」
「一体何が不安なんだ?」
「空が落ちてきたらどうしよう」
「そんなことになるわけがないだろう、馬鹿だなあお前は」
「だけども、もしも空が落ちてきたらどうする?」
みんな、そのまま死んでしまうぞ。




