一矢
会場の誰もが、その試合に見入っていた。
勝てるわけがないと思っている者がいる。
いい勝負になっていると思っている者がいる。
見に来てよかったと思っている者がいる。
勝ってほしいと思っている者がいる。
興奮し戦慄している者がいる。
彼らは声援を忘れて、ただ試合の行く末を見守るのみ。
もしも全員の共通認識があるとしたら、それは志波を認めていたということ。
井上志波は、神剣の継承者を決する戦いの、最後の一人にふさわしい。
あらゆる備えが許された試合でありながら、二人はどこまでも晒した札だけで争っている。
それは規定を守ることよりも一段上である、作法を丁寧に守っている戦い。
八百長でもなんでもなく、お互いを尊重し合っている試合。
百戦目、幕引きにふさわしい戦いだった。
当然それは、規定や作法を守ったうえでの、互いを痛めつけ合う死闘と言うことに他ならない。
ランも志波も、一切手心は加えていない。痛くて痛くて、無様に叫びたくなるような苦痛を与えあっていた。
双方が流している血は、まさに生き血。多大な出血は決して演出ではなく、互いの攻撃が人知を超えている証明だった。
とはいえ、余裕がないのはやはり志波である。
荒い息で酸素を取り込みながら、それでも明るい思考には至らなかった。
先ほどの拳が突き刺さった時、後ろに倒れてほしかった。
先ほど足をつかんだとき、石の舞台にたたきつけたかった。
それなら最高の結果を生んでいた。そうならなかったことが、残念でならない。
(だが、悪くはない。これでも、最悪には程遠い)
勝てない相手に痛めつけられる、勝利が期待できない、苦痛を伴う試合を続行する。
それがどれだけ恐ろしく、勇気を必要とするのか。
どれだけ勇気があったとしても、恐怖が消えるわけではない。
恐怖が表面に出ない、とは誰にも言えない。
「あああああああああ!」
それを、雄々しい咆哮によってごまかす。
叫ぶことで己を鼓舞し、自分の中の弱さを抑え込む。
観客も対戦相手も、目にするのは怪力の剣士が突貫する姿だけ。
銀髪の少女と、勇猛な剣士が戦う姿だけだった。
「ぐうう!」
とはいえランも、恐怖を確かに感じていた。
今の彼女は冷静に戦うことができているが、だからこそ恐怖を忘れずにいる。
確かに素人の剣術、確かに単調な攻撃。しかし、重い。
回避するだけならなんということはないし、機先を制して一方的に攻撃し続けることも難しくはない。
だが、受けるのはランの怪力でも無理があった。他に選択肢がいくらでもあって、その中でも一番つらく難しい選択を選ばなければならない。
ランにとって、確かに志波は格下だ。
だが、格下であることと強敵であることは矛盾しない。
志波の猛攻は、ランをして逃げ出したくなるほどだった。
「う、う、う……はああ!」
それでも、受けて受けて受けて、弾きつつ反撃に転じる。
痛みを蓄積させている腕を回復させながら、へしゃげている鉄の剣で防御している志波へ如意棒による連続攻撃を見舞う。
まさに滅多打ち。防御の上から叩くだけではなく、脚や胴体、頭にも確実に打撃を加えている。
「おおおおお!」
それでも志波に救いがあるとすれば、あくまでも連続攻撃だということ。
志波には確実に攻撃が入っているが、一撃で意識を刈り取るような、そんな渾身の一振りではない。
試合は続行できる、それだけを心の支えにして剣を地面から抜いていた。
「おおお!」
「ぐ!」
「はああ!」
「ぬ!」
どれだけ叩き込んでも、その先には反撃が待っている。
それを分かったうえで、志波は剣を振るう。
「おおおおおお!」
志波は片手に一本ずつ剣を持った。二刀流と言うにはあまりにもお粗末だったが、それでもランは押し込まれ始めた。
単純に素手になるまで倍の時間が生じ、倍の攻撃が可能になった。それだけでランは一歩一歩、後ろへ押し込まれていった。
「ぬ……う!」
鉄の剣を何度も使いつぶすことで、如意棒も流石に壊れ始めていた。
如何に大天狗が作った最高の宝貝とはいえ、俗人骨による四器拳の刀ではない。
耐久力には限界があり、それが確実に近づいてきていた。
もちろん、予備がないわけではない。だが持ち替えるにも少々の手間が生じるし、志波に押し負けたことになる。
かといって、十文字と鯨波の合わせ技で相手を硬直させることも、観客にわかりやすいものではない。
「発勁法、震脚!」
ならば、攻めに対して攻め。
稚拙な二刀流、その攻撃の合間を縫って、熟練ゆえの打撃を見舞う。
志波の右手での攻撃を受けてから、左手での攻撃を始める機に合わせて同時に攻撃をはじめ、志波が剣を振り切るより先に薙ぎ払う。
「ごぁ……!」
握っていた両手の剣を手放して、志波の体が『く』の字に折れ曲がる。
さながら海老のように後ろへ飛び、肺の中の空気を失いながらも尻から舞台にへたり込む。
決着の一撃に見えた。
自らの猛攻の最中で、歯を食いしばって覚悟を固めるより先に、ランの攻撃が無防備な脇腹へ直撃していた。
完全に意表を突かれた。如何に強大な筋力を持つとはいえ、内臓が持つとは思えなかった。
致命傷かどうかはともかく、戦闘の続行は不可能に見えた。
少なくとも、志波の体は震えて立ち上がることにも難儀していた。
降参の言葉が喉から出せなくても、そのままごろりと横になればそのまま敗北となる。
たとえそれが神剣を得る資格を失うことだとしても、ただ苦悶のままにのたうち回りたくなるだろう。
迅速な治療を受けて、すぐにでも楽になりたいだろうに。
それでも、一人の男は立ち上がった。
「う……うう……!」
その姿を見て、もう十分だと誰がか思った。
その顔を見て、もう戦えないと誰かが思った。
その無様を見て、最初から勝機がなかったと誰かが思った。
口から吐しゃ物が溢れた。
顔は青ざめ、汗が全身を濡らし、呼吸も脈も明らかに平常ではなかった。
仮に今、ランが軽く小突けば、それだけで彼は背中を地べたに着けていただろう。
そのまま起き上がれなかっただろう。
だがランは如意棒を構えて、残心を怠らなかった。
まだ決着ではない、まだ戦いは終わっていない。
少なくとも、志波はまだ屈していなかった。
(くそ……ここまで強いのか……だが)
しょせんは町の大工。
如何に力自慢だからとはいえ、超大国が信頼を置く戦士に勝てるわけがない。
期待はしていたが、想定内ではあった。
楽勝で勝てると思っているわけではないからこそ、この苦しみも覚悟の内だった。
「悪くは、ない」
悪いはわるいが、最悪ではない。
この程度、最悪には程遠い。
口を拭って、強がりな笑いを浮かべて、手に剣を持つ。
「まだ、負けていないぞ……!」
もう負けていい、という意地ではない。
まだ勝ち目がある、という期待ではない。
相手が情けをかけてくれる、という願望でもない。
まだ戦わなければならない、という気迫が立ち昇っている。
「……」
新しい鉄の剣を振りかぶった志波に対して、ランは申し合わせたように壊れかけた如意棒を振りかぶる。
それは渾身の一撃をぶつけ合わせよう、という前準備だった。
ひたすら単純に、存在のぶつけ合わせ。
なんでもあり、という規定のなかではありえない、競技でも見られない意地の張り合い。
「そうだな……今、負かせてやろう」
これはもはや、戦場で武将同士がやるような、古式ゆかしい一騎討ちだった。
「~~~!」
もはや叫ぶ力もない。
前のめりに体重を込めながら、志波は鉄の剣を如意棒とぶつけ合わせる。
ランが如意棒に込めた思いは、アルカナ王国の新しい切り札としての、国家を背負う者としての意地。
「~~~~!」
では、志波は。
別に国家を救いたいわけではなく、世界を救うなど考えもせず、竜を討ちたいとも、故郷を取り戻したいとすら考えていない。
そんな、一人の男には大きすぎるものは背負っていない。
大して美人でもない妻と、自分のことを敬っているわけでもない娘と、そして……忠告をろくに聞かないバカな息子を背負う。
「!!!」
一人の男の、気合と根性と意地と、それらをないまぜにした闘志だった。
そして、奇跡ではない必然が訪れる。
如意棒と言えども、鉄の剣と言えども、どちらも人間が作った武器であることに変わりはない。
であれば、双方が人知を超えた力でぶつけ合わせ続けたならば。
幾度折れても、その都度に新しい剣をぶつけ合わせたなら。
苔の一念、岩をも通す。
一刀両断と言う格好がいいものではない、ひび割れていた如意棒を叩き割りながら、ランの右腕を切り落としていた。
それが、最後の力だった。
頭に酸素が回らない志波は、前のめりに倒れかける。
そして、ランにもはや、右腕を丸々復元するほどの悪血が残っていない。
(実力勝負の横綱相撲ってのは……それで勝てるから横綱相撲ってんだよな……)
ランの左手は、如意棒の残骸を握ったまま振りぬかれていた。
そしてランの右手の付け根からは、膨大な血が溢れていた。
「気功剣法、弾糸」
ランの足が踏みとどまる。まるでこれから右腕で殴るかのように、姿勢を整えていた。
右腕の切断面からあふれる血は、切断されて落下している部位の切断面とつながっていた。
そして、まるで伸び縮みする繊維のように、血が縮んで切断面を繋ぎ合わせる。
(なるほど、こいつは……横綱だ)
「銀鬼拳、組木!」
残った悪血が、切断面を一瞬でつなぎ合わせる。
いうまでもないが、欠損した四肢を生やすよりも、つなぎ合わせるほうがよほど簡単で消費も少ない。
「発勁法! 崩拳!」
前のめりに倒れかけていた志波、その顔面にランの最後の一撃が叩き込まれていた。
それは志波の最後の意識を刈り取り、仰向けにさせながら吹き飛ばし、場外へ落下させた。
「勝負あり! 勝者、銀鬼拳ラン!」
静かな試合は、決着を迎えても静かだった。
「勝負あり、だ。もう戦う必要はない」
志波はもう戦わなくていい。
志波は出せるものを出し切って、これ以上できることがなくなって、そのうえで王者に敗北した。
この上ない、完全なる敗北だった。
「お前の強さは、誰もが知った。決して無駄にはならない」




