選択
バアスが何者なのか。
さほど隠していたわけではないが、もともとは南側の国家に属する人間である。
平民の生まれであるが、国家の体制が平民としているだけで、実際には貧民と言ってよかっただろう。
その彼が体格に恵まれるほどに栄養を得ていたのは、一重に薄汚い手段で飯を食っていたからだろう。
だからこそ、逆に志は高く。
このままでは終わらない、という意思があった。
故郷の国の名は、ネイム王国。
南側では中堅とされる国家であり、だからこそ小競り合いの絶えない国だった。
小さい国へ攻め込むこともあったし、大きい国と戦うこともあった。
そしてそれは、弱小国と違って上納金を納めても、オセオの手から逃れられないことを意味していた。
ネイム王国の正規兵だった彼は、ある貴族の若い青年将校に剣の腕を見込まれ、『精鋭部隊』として編入された。
そして大国が編成した魔法使いの部隊へ奇襲を仕掛け、大戦果を挙げる。
その後に何があったのかと言えば、本人が語ったように上官への暴行だった。
彼は精鋭部隊だった他の面々同様に、報酬金だけを手に軍を不正規に抜けた。
不平不満を感じながらも、かつての上官へ見当違いな憤慨をくすぶらせていた。
とまあ、些細な話である。
本人が言っていたことと何も変わりはない。
彼の現在の立場、それは一応、ネイムが送り込んだ『選手』である。
彼は一般の参加者に紛れて本命の選手が怪我をしないように守りつつ、最後には棄権する。
そういう、捨て石としての役割を与えられた選手だった。
それを彼がどう思ったのかは、さんざん本人が語ったことである。
彼が山水に挑んだことは、完全に暴走である。ネイムやほかの諸国もそんなことを望んでいないが、その一方で放置していた。
ありていに言えば、見捨てていた。たかが捨て石一つが、その役割を放棄した程度のことに構っていられなかったのだ。
しかし、万策尽き果てた南側諸国が、山水のそばにいる彼を発見した時。
一縷の望みを彼に託したいと思っても、さほど不思議ではないだろう。
※
「こっちが字を読めないからって、適当な手紙にしやがって……おかげでそこそこ歩いたぜ」
安い酒しか売っていないような大衆酒場で待つ、という程度の暗号だと思ったバアスは、夜の王都を歩いていた。
一応革の防具を着ているし、愛用の大剣も持っている。
しかし、完全に一人で行動していた。例えば山水へ伝言を送ったとか、そんなことは一切ない。
明らかに、大馬鹿以外の何物でもない行動だった。
「伝言を頼むとか、そんなことは考えなかったのか?」
王都に何件でもある、安い酒場。
そのうちの一つの前で、明らかにバアスを待っていた男。
彼は酒場の裏の、人通りの少ない狭い道へ案内していた。
大の大人が三人並べば埋まるような、そんな狭い道である。
「……お前が泊っている宿屋は、そこそこの格がある。そこの従業員に少々のカネを握らせても、どうでもよさそうな紙をしのばせることしか頼めなかっただけだ」
「ああそうか。で、アンタが直接顔を見せるとはな」
別に珍しくない顔だった。
整っている部分は整っているが、『乱れている』部分はとても痛々しい、暴行を受けた経験のある男だった。
「なあ、カット」
「かつての上官に対して無礼な奴だな、敬語はどうした?」
「鏡を見て言え。俺が、俺たちが、そんなことをアンタに対して思っているわけないだろうが」
およそ、軍人にとってたいていの怪我は名誉の負傷である。
例外があるとすれば、戦争とも訓練とも、任務とも全く関係のないところで負った怪我だろう。
彼の目立つ怪我は、それこそ不名誉な傷だった。
部下から離反されたカットは、裏でこうささやかれている。
報酬をケチって、部下に裏切られた男と。
実際には異なっている。彼は現金としての報酬を、ほぼすべて部下へ渡していた。
彼は身を切ってまで過大な報酬を部下へ払った。不幸があるとすれば、部下との行き違いだろう。
とはいえ、事前に報酬の内容を明言していなかったのだから、上官として、雇用者として失格だともいえるのだが。
「……なんでアンタが直接顔を見せる」
「なぜ私だと駄目なのだ」
「俺はアンタが嫌いだし、アンタだって俺が嫌いだろう。顔を見合わせて、こじれないとでも思っているのか?」
お互い、顔を見るのも嫌な関係である。
他にも人がいるのなら、それこそわざわざこじれるようなことをする意味がない。
「……要件を言うぞ」
「おい、答えろよ」
「頼む、ランへ毒をもってくれ」
滅亡した国の貴族とは言え、矜持があるはずの武人が脱走した兵士へ頭を下げていた。
そして、その内容は確かに頭を下げなければならないことだった。
「可能なら、試合の直前に。理想を言えば、試合の最中に。水を飲むときにでも、毒を盛ってくれ!」
素人でもわかるほどに、ずさんな計画だった。
誰がどう考えても、バアスに出来るわけがない策だった。
バアスが全面的に協力する気になっても、万に一つも成功するとは思えなかった。
それを実行に移さずとも、バアスが毒を持って王宮を歩いているだけで、既に大問題だった。
なによりも、実行に移してもさほど意味があるとも思えない。
「あのな……アンタらのほうが詳しいだろうが、アルカナには万能薬が腐るほどあるんだろう? 死ぬような毒を原液で飲ませても、死にゃあしないし、弱りもしねえだろ」
バアスの言うとおりだった。
実際にはもっと多くの問題があるのだが、バアスですら知っているような情報の範囲でも、効果のある作戦ではない。
「その通りだ」
「……おい」
「だが、もはや他に打てる手はない!」
まさに藁にもすがる思いであろう。
あまりにも成功率が低く、効果が見込めないとしても。
それでも、他に打てる手が無いのなら、それをするしかないのだ。
「南側諸国の為に、どうか命を捨ててくれ!」
厚顔無恥、とは言うまい。
今のバアスにはわかるのだ、目の前の彼がこんなバカなことを頼んでくる理由が。
彼が本当に賢いのなら、そもそも母国など捨てている。
アルカナは強大で、付け入るスキなどない。
己の無力を呪う中で、ほんのわずかでも可能性が見えたので縋りたいのだ。
「正規兵を抜けた俺に言うことじゃねえな」
命をかけて戦うことを誇りとしてきたバアスである。
過去を忌避しているバアスである。
死ねと命じられれば、その内容にこだわる。
はっきり言って、絶対に嫌だった。
「今度は金貨何枚で俺に死ねっていうんだ?」
「私の首が欲しいのなら、好きにしていい。苦しんで死ぬことが所望なら、相応の毒を飲み干そう!」
嘘ではないだろう、それはバアスにも分かる。
口だけではなく、正否を問わず生死をかけていた。
「……」
「今も、アルカナの南壁の向こうには、多くの民や貴人が震えているのだ! 彼らへ吉報を届けなければならない! その可能性がわずかにでも上がるのなら、なんでもするとも! お前に死ねとも言うし、お前に無謀な試みをさせるためなら命さえ差し出すとも!」
愛国心が、確かにある。
貴人への忠義も確かにあるのだろうが、民衆への慈愛も嘘ではない。
彼は軍人として、国家を守りたいだけなのだ。
だがそれは、今のバアスには大きすぎる。
「カット……先に謝っておく」
バアスは成長していた。
カットの苦しみを他人事とは思えず、ざまを見ろとも思っていない。
彼が正しい理由で苦しんでいる姿をみて、むしろ罪悪感さえ感じていた。
「アンタらが俺たち選手を信じてないことを、とんでもなく腹立たしく思った。ふざけるんじゃねえ、バカにしてるのか、最強の剣をかけた戦いなのにイカサマなんてなめてんのか。とかまあなあ」
この国最強の剣士に挑んで勝てば、そんなくだらない小細工をやめるかと思った。
だが実際には、本当に強い連中ばかりで……。
「知っているかどうかわからねえが、俺は実際にランやらサンスイやらと戦ったよ。どっちも希少魔法抜きだ」
「……手も足も出なかったか」
「ああ、ぶっちゃけ無理だ。剣だけならいい線いくかと思っていたが、上には上がいるもんだな」
「当然だ、相手は八種神宝を抜きにしても、一国を相手取れるのだぞ。お前如きがどうにかできるものではない。そんな常識に収まるような連中なら、アルカナ王国は神宝の命運を預けないし、我らもここまで四苦八苦しない……!」
バアスは自分の非を認めていた。
アレに搦め手が通じるかどうかはともかく、まともに戦って勝てる相手ではなかった。
その点だけは、全面的に正しいのだ。
「本当に悪かった」
「……そうか」
「その上で、だ。やっぱり俺は、毒を飲ませるのは無理だ」
実行に忌避感があることもさることながら、実現が不可能なことに挑戦する気にはなれない。
「アンタも今は専門家だ。その手の搦め手ってのがとんでもなく難しくて、剣しか振ったことが無い連中には無理なんだろう? 同じ無理なら、いっそラン達に切りかかった方がまだましだ」
「この期に及んで、お前は……自分一人の名誉にこだわるのか!」
「そうだ」
思い出すのは、比較対象にするのも恥ずかしい、一人の弱気な老人だった。
彼の言葉が、罪悪感を振り払う決意をくれた。
「アンタだって、俺がろくでもない生まれなのは知ってるだろうが。俺はアンタと違って、愛国心なんて持ち合わせがねえ」
それが正しいのかどうかはともかく。
賢いのはアルカナについて国民を見捨てることであり、愚かなのは滅びた国と共倒れすることだろう。
特に、役職についていないのならなおのことだ。
正規兵ならとがめられることだが、既に彼は無頼の輩である。
無責任、その一言に尽きる。
「正直、国の奴らがどうなっても、ざまを見ろとしか思えねえ。それにだ、失敗するならまだしも、成功したらとんでもないことになるだろうが」
「……どういう意味だ」
「俺は最強の剣士に嫉妬して、毒を盛った情けない男として墓に名が刻まれる」
「そんなことはない、お前は救国の英雄として……」
「ああ、毒を盛って救った英雄、勇者様だ。そんなもんになるぐらいなら……!」
思い出すのは、既に死んで会えない男たち。
山水の門下として認められ、武芸指南役になり、旧世界の怪物たちと勇敢に戦って死んでいった、伝説になった勇者たちだ。
ただの、山水の弟子として死んでいった彼らだ。
「そんな勇者になるぐらいなら、死んだ方がましだ」
もしかしたら、この時代の人間はバアスを称えるかもしれない。
汚れ仕事を引き受けて、あえて死を選んだ男として名を刻むだろう。
だが後世の者はどう思うだろうか。
バアスへ恩義など感じないだろう。旧世界の怪物から奪い返した土地も、暮らしていて当然の土地と思ってありがたく思わないだろう。
そして、バアスのことをあざけるのだ。
今までバアスが嘲ってきたように、卑怯者として罵るのだ。
「……お前は、お前は!」
そんな彼に、国家が滅ぼされたにもかかわらず、汚れることを嫌うバアスに、カットは憤怒の表情を向けた。
「お前は! 何をたわけたことを抜かすのだ! 国を守ることに、民を救うことに、人を殺すことに、綺麗も汚いもあるか!」
カットの言葉は正しい。
少なくとも、南でおびえている人々は、バアスを罵りカットを称えるだろう。
「南側の誰もが! 過去の怨恨を捨てて、懸命に立ち向かっている! こんな、こんな大国の、悪ふざけのような大会に縋っているのも、本来は願い下げなのだぞ! だがそれでも、大真面目になんとかしようとしてきたのだ! それもこれも、国家のためだ! 多くの人が、かつての家へ帰るためだ! それを、お前は!」
「どうでもいいって言ってるんだよ」
汚く育ったからこそ綺麗に生きたい、手段と名誉にこだわる無頼の男。
綺麗に生まれたからこそ汚れることをためらわない、目的と利益にこだわる軍籍の男。
その両者は、決定的に行き違っていた。そして、今回の決定権はバアスにある。
「……そうか」
大国の要人へ後先を考えずに毒を盛るように言われて、それを断ったバアスは賢いのだろうか。
否、バアスは賢くなどない。彼が賢いのなら、そもそもこんなところへ一人で来ていない。
「もう十分だろう、俺は宿に戻る。安心しな、お前たちのことは誰に言わねえよ」
バアスは自嘲しながら断りの文句を終えていた。
ここから先、何が起きるのかなどわかり切っている。
ほんの少し、後悔していた。
カットの懇願をこの場で断ったことではなく、ここに一人できたことでもない。
山水やその周囲と、もっといろいろな……。
「……そうはいかない」
そらきた。
そりゃそうだ。
「お前が協力してくれるのが一番よかった、一番確率が高かった」
バアスは大剣を抜いた。
狭い路地で、自慢の大きな剣を抜いた。
美学美意識ゆえに、他の武器は持っていない。
それを、目の前のカットはよく知っているはずだった。
「ただでさえ藁にもすがる思いだった。お前が協力してくれないのなら、更に分の悪い賭けに出るしかない」
カットの後ろから、クロスボウを構えた男が現れた。
ちらりと後ろを見れば、そこにもクロスボウを持った男が二人もいた。
大剣しかもっていないのに、この狭い路地で挟まれた。
どう考えても間合いで大きく劣る武器で、数で勝る敵に挟まれた。
「万に一つもあり得ないが……お前を人質にする。シロクロ・サンスイに気に入られているお前を人質にして、彼に毒を盛ってもらう」
「上手くいくと思うか?」
「上手く行かなくても、仕方がない。だが、何もしないよりはましだ」
わかりやすく、絶体絶命だった。
条件が違えば、勝てない人数ではないだろう。
だが、相手はこちらの装備を知っている。その上で、絶対的優位な条件での罠を張った。
とても単純で、致命的な罠を。
カットは、バアスに対して全力の罠を張り巡らせていた。
「ついてきてもらおうか」
バアスは、自嘲せずに笑った。
「嫌だ」
後悔を忘れて、不敵に笑う。
「力づくでこい」
今の俺なら、この罠を食い破れる。




