刮目
「……すげえな、これが天界か」
仙人が住まうという天空の楽園。
巨大な『山』が雲を従えつつ、勇壮な姿のまま空を進んでいる。
それを、マジャンの人間としてはもっとも間近でみたハーンは、息を呑んでいた。
ただでさえ、巨大な山は信仰の対象になりやすい。
それが空に浮かび、更に飛行しているのならその雄々しさは、ハーンをして見惚れるほどだった。
風火綸はお世辞にも高速移動ができないのだが、それでも浮かぶだけなら結構な速さである。
なんとか合流しようと、急いで浮上していたハーンだが、途中で何かに気づいた。
「止まった?」
あまりのスケール差、周囲に比較対象が無い空中という状況。
だからこそ、気付くのに時間がかかったが、西へ向かっていた天界は停止していた。
それどころか、ハーンに合わせるように高度を下げていた。
「まさか、俺に気づいて……」
「縮地法、牽牛」
一瞬で、視界が切り替わっていた。
未だに大八州から遠い場所で、風船のように浮かんでいるだけだったハーンは、一瞬で大八州の山頂に『移動』させられていた。
「な?! これは、縮地か?!」
「うむ、その通りである」
ほかならぬスイボクの弟子である山水が得意としている術、縮地。
自分だけではなく、遠くのものを引き寄せることもできる、とは聞いている。
しかし、だとしても彼の主観からすればあり得ない話だった。
縮地は原則として、そこまで遠くへは移動できないはずだった。
「バカな、空を浮いている相手を、この距離で引き寄せた?!」
「牽牛が早すぎる……意味が解らない」
「天動法を使いながら、縮地の高等技を前置きなく……」
それに驚いているのは、その周囲にいた若き仙人たちも同様だった。
やはり、自分たちが使える術、よく知っている術だけに驚愕も具体的なものだった。
とはいえ、そんなに驚いてばかりもいられない。
マジャン=ハーンは、初対面の相手ばかりの状況でも落ち着きを取り戻していた。
なにせ、天界と全く無縁、というわけでもないのだから。
「お初にお目にかかる。私は、マジャン王国を先日まで治めていた前王、マジャン=ハーンと申す」
「ほう、お主がトオンとスナエの父か」
ああ、やっぱりなあ、と思いながらスイボクは納得していた。
なにせ自分が作った宝貝を装着しているのである、他の可能性は考えられなかった。
「サンスイの師とは貴方のことでしょうか」
「いかにも、スイボクである」
巨躯、大男、偉丈夫。
そう呼ぶにふさわしい、引退してなお筋骨隆々たる、強者の国の元国王。
その彼は、目の前で立っている男へ畏敬を感じていた。
小柄な少年、小僧っ子、田舎のガキ。
そうとしか見えない、弱弱しいにさえ達していない、問題外であるはずの弱者。
その彼が、山水の師でありこの大八州を動かしているのだとしたら。
如何に王気、神降しの使い手とは言え、居丈高に振舞えるわけもない。
「こうしてお会いできるとは何とも奇縁ですが、お伺いしたいことがありまして」
「ほう」
「なにゆえ、我が国の上空を通っているので? 民が不安に思っておりますので、差し支えなければ教えていただきたい」
マジャン=ハーンは既に王ではないが、状況に合わせて話し方を変えるという最低限の『警戒心』は持っていた。
しかし、ここは天に浮かぶ山であり島。下手に機嫌を損ねれば、それこそ『天』が降ってくることになりかねない。
ここがマジャンの臣民の前であれば、それなりに威厳を持った立ち振る舞いをしなければならないが、臣民がいない状況なら下手に出ることへ抵抗はなかった。
「なるほど、当然であるな。無関係なことではないし、お教えしよう」
スイボクは、アルカナで何があったのか、これから大八州で救援に向かうことを伝えた。
「竜が、その僕と共に襲い掛かってきた、と?」
「然り。サイガと我が弟子は竜を討ち、トオンとスナエは竜の僕を相手に奮戦したと聞いている」
「そんなことになっていたとは……」
「思えば、貴殿にしても無関係な話ではなかったな。黙って通ろうとしたことを、許して欲しい」
自分の息子と娘が、遠い異国で勇壮に戦い生き残った。
それは誇らしいことであるが、このまま何もしないというのはあり得ない。
「いえ、貴殿も急いでおいでだったのでしょう。心中お察しいたします。ですが、よろしければ私の席を作っていただきたい。国のことは息子に譲りましたがそれでも元王、できることはあります」
トオンもスナエも、ちゃんと筋を通して結婚したのだ。
相手は遠路はるばる婚姻の許可をもらいに来て、マジャンは国家としてそれを許したのだ。
それはつまり、マジャンとアルカナは遠い親戚ということになっている。
親戚の窮状をしって何もしないのは、国の恥と言えるだろう。
「ふうむ……カチョウ師匠、ここはどうでしょうか。せっかく八つも島があるのです、二手に別れるのは?」
大八州は普段から浮いているので、『引っ越し』をすると言ってもそのまま横にも縦にも移動できる。
しかし、マジャンはそうもいかない。スイボクが墓を掘り起こす外道なら可能になるが、マジャン国民はいよいよ逃げ出すだろう(逃げられるかどうかはともかく)。
マジャンが援助をするには準備が必要だが、大八州は出来るだけ早く赴きたい。
であれば、大八州のうちいくつかの島をここに残して、そこから追うのがいいだろう。
スイボクはそう主張していた。
「幸い、俺と師匠がいます。二手に別れても不足もないでしょう」
「では、儂とお前、どちらが残る?」
「もちろん、俺が先に行きます。もしもの時がない、とは言えませんからね」
「そうしろ。儂も相手が竜では、役に立てるとは思えん」
その場の仙人や天狗には知覚出来た。
今自分たちが立っている場所の主導権が、完全にスイボクへ移譲されたことを。
三千年以上もこの地を支配しているカチョウの仙気を、スイボクは投げ渡された毬のように受け取っていた。
「雨四光と猪鹿蝶を地面に降ろす、お前たちはここに残って一足先にアルカナへ行け。マジャンの前王よ、貴殿は儂と一緒にこちらへ来なされ」
「……かたじけない」
「なに、儂も少しサンスイの話が聞きたくてのう」
特別な催しの際に使用される、普段はほぼ無人の島。
それの運航に集中することにしたカチョウは、ハーンを連れてスイボクの元を離れていった。
ふわりふわりと、優雅にゆったりと。
下降を始めた島を目指して、飛んで行った。
スイボクを主とした大八州は、昼も夜もなく飛行を続けた。
一路、アルカナ王国へ。
風に乗って、風と同じ速さで、雲を伴って、雲を見下ろして。
中原の国やその周辺では知られていた天界は、しかしそれよりも遠い国々には伝説どころが神話のごとき光景である。
巨大な島々が猛烈な速度で空を走る光景は、竜と人との戦争を知らぬ下界の面々には何が起きているのかと不安にさせるものがあった。
実際には、既に起こったことの後始末の為に空を飛んでいる。
ともあれ、スイボクが大八州を抱えて帰ってくるまで、ほんとうにあと少しだった。
※
「おお、目が覚めたか」
重い瞼を開くと、視界がゆっくりと明るくなってきた。
目を開けているのに、焦点が定まらず視界が安定しない。
要するに、明るいということしかわからない。
「久しぶりじゃのう、祭我」
「あなたは……」
忘れもしない声が聞こえてきた。
驚いて、体を動かそうとする。
しかし、指の一本さえ動かせない。
まるで首から下が固定されているかのように、身動きできなかった。
「うむ、神じゃな」
祭我に全ての気血を与えた神。
祭我の寿命のろうそくを不用意に消してしまった、この世界へ落とした神。
その神が、数年ぶりに祭我へ語り掛けていた。
「そうか、俺は……」
頭がはっきりしてくると、自分が何をしたのか思い出してきた。
そう、祭我は最強の神剣を手に、竜の軍勢を迎え撃ったのだ。
「俺は……」
自分は死んだのだ。
それを、祭我は納得しつつも受け入れていた。
少なくとも、神の失敗で死んだときに比べれば、死を実感できた。
あるいは、生を実感できていたのかもしれない。
「神様」
「なんじゃ」
「バトラブの都市は、守れましたか?」
「無傷ではないし死人も出たが、竜はお主を越えることはできなかったぞ」
竜という最強の生物は、ただ一頭でも国家を滅ぼす力を持っていた。
その竜が数多襲い掛かる状況で、祭我は一つの都市を守り抜いていた。
それを聞いて、祭我は安堵していた。
「……俺の、その」
「ああ、お主のハーレムか? 全員生きておるぞ」
「そうか……」
納得してしまっていた。
やり遂げたのだと、実感してしまっていた。
未練はあるが、満足してしまっていた。
「俺、ちゃんとやれたんだ……」
「うむ、誰もがお主を英雄と認めておるし、讃えておるよ」
「よかった……」
「良いのか? お主はただしんどかっただけではないか?」
なぜ人は最強を求めるのか。
それは最強という存在への幻想があるのだろう。
祭我も山水も、最強に対する定義がズレていた。
最強とは、負けないとか勝つだけではない。
最強とは、苦しむこともなく、疲れることもなく、努力することもなく、悩むことも迷うこともない。
ひたすら涼しそうに、あらゆるものを難なく片づけるのだ。
最強以外のあらゆるものを問題としない、絶対無敵の『主人公』。
それが、夢に描いた最強だった。
そして、それは実在した。しかしそれは、目指す気が失せるほどに遠かった。
「俺は……途中から、一番強くなりたいって思ってなかったんです」
山水に負けた後も、人生は続いた。
やっぱり強くなるのは楽しくて。
やっぱり新しい術を覚えるのは楽しくて。
でも、楽しいことばかりをやっているわけにはいかなくて。
「俺は、ちゃんとやり遂げることができた」
強いだけで、何かの役に立った覚えがない。
バトラブの人々から税金を受け取って、それを使って好き勝手に生きてきた。
それはバトラブの当主が、祭我に期待をしていたからだ。
それに応えることができた。
「正蔵じゃないですけど……俺は、俺で、ちゃんと求められて、応えられたんだ……」
「そうじゃな」
「……俺が、こうして死んだのは、寿命なんですかねえ」
「死んどらんよ」
「俺は……貴方が決めた運命の上を歩いていただけだとしても……」
祭我は自分の『人生』に満足していた。
もちろん心残りは多くあるけれども、それでも前の人生とは違い過ぎる。
一生懸命頑張って、それをみんなに褒めてもらって、そのみんなを護るために必死で頑張って、やり遂げていくことができたのなら。
それは、充実した人生ではなかったのだろうか。
「俺は、もういいです」
「いや、話聞け」
「いいんです、たとえまたろうそくを消された結果だったとしても、俺は死を覚悟していたんです」
「聞け」
神は、祭我のホホをつねった。
「い、痛い……」
「お主は死んでおらん。ちゃんと開眼し、刮目せよ」
寝ぼけていた祭我は、改めて周囲を見た。
「……あの、前はこんな感じじゃなかったような」
土に埋められていて首だけ出ている。
しかも、視界には木の桶の内側まで見える。
自分は膝を抱える形で、完全に埋没していた。
ある意味死んでいる状況だが、前と違い過ぎる。
「お主は死んでおらん。何度言えば分かるのじゃ」
「じゃあ……ここは?」
「アルカナ王国の王宮じゃぞ」
「あ、じゃあ俺は意識だけ神の元へ……」
「いや、儂がアルカナの王宮に来ておるのじゃが」
「なんで?!」
「なんでじゃろうなあ……」
二足牛
牛だが草だけではなく肉ももしゃもしゃ食べる。反芻もするぞ。食事が汚すぎて、周囲からは嫌われている。
そこいら辺に生えている草も食べようと思えば食べられるのだが、食べる量は尋常ではない。
猛獣と呼ばれる、屈強な生物。
気血の量はお世辞にも多くないが、身体能力で補えている。
素でも、悪血や強血で強化された人間よりも強い。
神降しの最大強化は、流石に無理。
犀やらイノシシやらとは何かと張り合っているが、根本的に使う術理が違うので話にならない。
なお、素で殴り合った場合、勝率は犀が一番である。
それを忌々しく思う程度には、三種族は仲がいい。
具体的に言うと、三種族とも体系的に地味に気にしていることがあり、それを語り合えるからである。
首の自由度が狭くて、横を向くのが苦手とか、そういうことを共有できている。
犬はそれに入れて欲しそうにしているが、駄目だと言われている。
寿命は四十年ほど、比較的長め。
集団行動は結構得意で、連携も上手である。
従精
人間は影気と呼ぶ
己と同じ分身を生み出すことができる術。
ケガの具合なども忠実に再現できる。
酒曲拳の影響を全く受けないため、非常に相性がいい。
なお術者には普通に通じる。
他の種族が使用した場合、術者が正確に操作しないと人形のように転んでしまったりする。
しかし二足牛が使用した場合、分身はある程度の思考能力を宿している。
術者の命令に従って、自主的に行動することが可能である。
よって、制御にはさほど苦労しない。
ただ、気血の量がそこまで多くないので、連発は難しい。
それでも、猛牛の群れが数十倍に増えるのは、当に壮観である。