対話
本日、コミカライズの二話が公開されます。
そちらもお願いします。
中原の統一、大帝国の首都。
堅牢を極めるその都は、皇帝の威光同様に永遠不滅と信じられていた。
その信頼は、皇帝の暴虐を引き金とした天の怒りによって裏切られた。
ありていに言って、誰もが都を逃げ出した。
当たり前だろう、夜中に浮き上がって朝になったら九十度傾いて、そのままじわじわ海に沈められていったのだ。
これを天変地異と言わずなんというのか。
昼頃になると唐突に戻ったが、それでも都の半分は『潮漬け』にされていたのだ。
断じて夢ではない、と誰もが確信していた。
そうなれば、次に都の民がどうするかなど考えるまでもないことだった。
わき目も降らずに、都を脱出する。誰もが荷物を抱えるだけ抱えて、とにかく城郭から逃げ出していた。
本来なら往来自由な門であっても、この状況なら閉ざされるだろう。
しかし、この世界に『全自動』というものは存在しない。
如何に独裁者がいるとしても、誰かが己の手で動かさなければ門は開閉しない。
つまり、ありていに言って誰もが逃げ出していた。
この都で暮らす人々が、皇帝を見限っていた。
民だけではなく、兵士も役人も、側近さえも逃げ出していた。
いいや、重臣などの側近こそが率先して逃げ出していた。
なにせ因果関係を一番把握しているのは、スイボクがこの都を海に捨てるうんぬんを聞いていた側近なのである。
そのあと比喩誇張抜きで海に捨てられたのだ、誰がどう考えてもあの仙人こそが『神』そのものだったのだろう。
皇帝の言葉を伝える、中間管理職である彼らが率先して逃げ出したのだ。皇帝が何を言っても、誰も聞くことはなかった。
「……」
皇帝は、一人疲れた顔で玉座に座っていた。
空の城は、しかしほぼ略奪のあとが無い。
それこそ、誰もが命を優先した結果である。
「……」
彼の胸に去来するものは、輝かしい過去ではない。
むしろ、痛々しい喪失の経験だった。
自分と兄弟同然に育った将軍がいた。
彼は戦場で散り、その役目は子供へ引き継がれた。
『お前なら、きっとこの中原を平定できる。俺はそのための一兵だ』
彼の奮戦によって、ヤモンド帝国は躍進した。
彼の死は無駄ではなかった。
さきほど、無駄になったわけだが。
「……」
自分にとって、もう一人の父ともいえる先代からの忠臣がいた。
彼はとても厳しかったが、彼の教育が無ければ今の自分はなかっただろう。
『陛下、この中原は血にまみれております。これを救えるのは貴方だけなのです』
彼は病に倒れて他界したが、彼の教えは皇帝の中で今も生きている。
生きているだけで、もう活かされることはないのだろうが。
彼は今でこそ不動の地位を得ていたが、最初からそうだったわけではない。
彼は彼なりに、苦難を経て大帝国を築きあげたのだ。
だからこそ、それを守るために必死だったのである。
まあ、もう守れないわけだが。
皇帝が仙人を怒らせたら、都を浮かされて海に沈められた。
こんなことを偉い人が言い出したら、誰もが『ああ、お年なんだな』と思うだろう。
しかし、ヤモンド帝国付近では違う。『神界』こと『大八州』は、目視できる実在の空中都市である。
実際に浮かんでいる島があるのだ、都が浮かんでも不思議ではないと分かるのであろう。
そう、どうにも皇帝やその側近は『浮かんでいる島があって、そこで仙人が暮らしている』と思っていた節がある。
実際には『仙人が術で浮かせているし、やろうと思えば他の土地も飛ばせる』というのが真相である。
誰がどう考えても、そんな輩を怒らせたら国など滅びて当然である。
誰もが仙人の怒りを恐れて、皇帝から逃げ出した。実に正しい判断である。
彼はもはや、なにもなせない。彼がどれだけ正しい政策や軍略を練れたとしても、誰もがその言葉に従うことはないだろう。
「……朕が、築きあげたものが、すべて、崩れた」
「そうであるな」
その彼の前に、金丹の術で体裁を取り繕ったスイボクが現われていた。
既に弟子を送り出していた彼は、三度彼の前に現れていた。
「……貴様か、朕のことを笑いにきたのか?」
「笑う? 儂は話をしに来ただけであるぞ」
話をしにきた。
なるほど、確かに今なら皇帝もゆっくり話ができるだろう。
流石の彼も、すっかりへこたれていた。
相手の意見を聞かず、ただ己の要望だけを叫ぶということはない。
しかし、その精神状態にするためだけに、いったいどれだけのものが壊れたのだろうか。
「……何が言いたい」
「反省したか?」
「反省? それだけはしていない」
本心を語り合う。
皇帝と仙人は、怒鳴り合うことなく言葉を伝えあった。
「しいて言えば、仙人というものを見誤ったことは認める。いいや……知らなかったものに手を伸ばしたのだから、まあ仕方がない」
「それはそうだ。確かに知らんものは仕方がない」
「だが、不老不死を求めたことだけは間違えてなどいない。お前がおとなしく不老不死を差し出していれば……と思っている」
偽らざる本心だからこそ、とても攻撃的だった。
まあこれで感謝だとか感動だとか、そんな感情に至ることはないだろう。
極めて『自然』なことである。
「しかし、薬屋やら医師を集めたことに関してはどうだ?」
「実際にお前たちを見つけたのだ。間違えてはいなかった」
「なるほど、臣民に迷惑を及ぼしたとは思っていないと?」
「元をただせば、医師や薬師の無能が悪いのだ。どこにあるかわからん不老長寿の薬を探してこい、と言っているわけではない。既に我が掌中にある賢人の水銀を、どうにかして複製せよと命じているのだ。錬銀炉の実物さえあるのだぞ、にも関わらず無能をさらす。そんな連中はどう罰されても文句は言えまい」
まあ、そうかもしれない。
若返りの妙薬は実在し、薬効も確かである。
それで作れないのが不満、というのはまあわかる。
もちろん、天狗の中の大天狗であるセルの神業の再現など、その道の天狗や仙人でもほぼ不可能だろう。
「無能か……それで、皇帝よ。今の己の状況をどう考える?」
「……嵐に全てを流された、そんな気分だ」
もう怒る気も嘆く気も、憎む気も悲しむ気もない。
そんな気力などなく、ただ呆然とするだけだった。
失意、としか言いようがない。
「……朕は、偉大な皇帝、だった。朕以外の何者であっても、朕の偉業をなすことはできないと思っている。今でも、だ」
今でも、自尊心や自負心は萎えていない。というよりもただの事実だと思っている。
過去の栄光だけは、今でも彼を慰めていた。
「その朕が永遠に生きる。それは素晴らしいことだと、なぜわからない?」
「お前のようにこのあたりを治めた『王』はけっこういるらしいぞ。儂もこのあたりでずっと暮らしていたわけではないが」
「王はいたらしいな、伝説の昔だが。しかし、皇帝は朕一人だ」
「どう違うのかはわからんが……別にお主もいきなり皇帝として生まれたわけではないのだろう」
「朕は、皇帝になるべく生まれてきたのだ」
生まれながらの宿命。
その言葉は、スイボクもよく聞いていた。
それこそ、神から直接言われていた。
「朕の先代も、その先代も。この中原に安定をもたらさんがために腐心してきた。その結実こそが朕なのだ。盗まれた賢人の水銀は、平定をもたらした『皇帝』の為のものであった。先々代も先代も、それゆえに決して手を付けなかったのだ」
「それは結構だが……」
「むろん、朕だけではない。朕の妻にもそれを分け与えるつもりであった。あるいは、量さえ賄えるのなら忠臣に分け与えることもやぶさかではなかった。だが……潰えた」
「また無理のある話を……」
「無理なものか、朕に不可能はない。いや、なかった……」
流石にここから逆転できる、とは思っていない。
既に信頼は失われている。
彼の臣民は、夢から醒めてしまった。
「朕の築きあげたものは、一夜にして瓦解した。しかも、ただ壊れただけだ。朕にはわかるぞ、各地の愚か者どもがかつての様に相争う、修羅の時代が再来したのだ」
そう言って、彼は睨む。
改めて、世界から秩序を奪った男を見る。
「殺さなければ殺される、そんな時代が再び訪れたのだ」
「それは普通ではないか? どこの人間もやっていることであり、獣もそうしているぞ。それを悲しげに語るなど、悲観が過ぎる」
「だからこそ、朕の統一には価値があったのだ!」
片方は人間全体を見ている。
もう片方は生物全体を見ている。
それで話が通じるわけがない。
「……今更お前がなにをやっても、朕が何をやっても、何もかもが手遅れであろう。朕にはお前が理解できん、なぜそうも『他人』をないがしろに出来る?」
「いや、であるからな。儂から見れば薬師や医師をだな……」
「怠慢と無能は裁かねばならん。結果こそが、実績こそがすべてだ。お前たちにできることが、出来ないこと、出来ずに済ませてきたことが罪なのだ」
「ではお前も罪深いのであろう」
「……そうだな」
皇帝は、玉座に浅く座った。
背もたれに体重を預け、だらしない体勢になる。
「朕は落城した国主たちをあざけっていた。強者であり優れたるものである朕に平伏せん愚か者が、相応の結末を迎えたのだと思っていた。であれば、朕もそうなのだろう。強者を測り違えた、その無能の責任をとらねばならん」
「まあそうであろうな、お前は単に強かっただけだ。武力をもって平定をしたのなら、それは徳ではなかろう。軍をまとめる力が徳というのならそうかもしれんが、それが他の国になかったとは言えぬであろうし」
「……朕は学んだぞ。仙人という名の、賢しいだけの獣よ。貴様の賢しさは人の世になんの恩恵ももたらさん」
皇帝は彼の言葉を聞いて、語り合って、ようやく価値観の根本的な相違に気づいていた。
「お前は、賢いかもしれんが馬鹿だ」
「よく言われるぞ」
「だろうな」
皇帝は、ものすごく納得した。
「お前の口から出るものは真理かもしれんが、ただ諦めて眺めているだけだ。誰かの得になることが無い」
「当然だ、真理とはそこにあるもの。それが人にやさしいわけがないであろう」
「朕の口から出る言葉が真理でなかったとしても、人の世の為になるものであった。少なくとも、そのつもりであった。だが……お前にはそれがない。本当に理解できん、お前はなぜ……世の為に力を使わない?」
仙人とは獣である。
仙人のことを正しく認識した言葉だった。
本人たちも、けっして否定しないだろう。
「お前は過ち以前に、世の為に尽くそうという気が無い。そんなものを、朕は認められん」
「認められんのは当然だ、そもそもお主の臣民ではないしな」
「開き直るな……お前こそ、他人と話す気が無いのではないか」
「そうかもしれん。先ほども師や弟子からとがめられつつ、しかし押し切ったところであるし」
「そんなお前に、お前のしでかしたことをどう語っても意味がないのであろうなあ……知った上で無価値と思ったのだから」
もう失うものが無いからこそ、ただひとえに罵倒する。
心までは屈するものか、という最後の抵抗だった。
「いかにも、儂は無意味な男である。さんざん迷惑をかけた、どうしようもない男である。しかし、それでも弟子を育てた。自慢の弟子だ」
「……」
「皇帝よ、人は過ちを犯すものだ。儂の人生の全てが過ち以前に根底からおかしいというのも、広義ではおなじことだろう」
自分にはまだやるべきことがある。
だからこそ、まだ自然へ帰らない。
しかし、今消えても、そんなに気にならない。
「過ちを許せないというのなら、だからこそ後継を育てるのだ。自分の成果を受け取り、教訓を得た弟子こそが成果であろうさ。いつでも責任をとって、世を去れるようにな」
スイボクが屋根を砕いているため、宮殿に天井はない。
青空の元、彼は訪ねた。
「一つ言っておく」
「なんだ」
「これは儂の言葉ではなく、天狗の言葉でもない。お前にさらわれた、薬師の言葉だ」
それだけは、絶対に受け取らせなければならない。
スイボクは今までのへらへらとした、ともとれる顔を引き締めていた。
「お前に、愛想が尽きたそうだ」
確かに、志は高くなかった。
確かに、超一流ではなかった。
それでも、清く正しく、臣民として生きてきた。
同じ民衆の為に薬を販売してきた。
その彼が、彼らが、不当な扱いを受けた。
「お前の国を滅ぼしたのは儂である。だが、お前の臣民を痛めつけたのは、他でもないお前自身だ。お前の臣民がお前を見限ったのも、お前の行動が『神』の怒りにふれるものだと解っていたからだ」
「……それは」
「それさえ、下衆の浅慮というのか? 臣民を痛めつけねば、儂らを見つけられなかったのだとしたら」
「そうでもせねば、出てこぬ己たちが悪いとは思わぬのか」
結局、話し合いをする気になっても、わかりあうということにはならないのかもしれない。
「好き勝手に生きて、他の者には諦めろだの仕方がないだの、偉そうに言うだけの輩が……」
「ではお前は、自分の臣民に『我慢しろ』と『努力しろ』以外のどんな言葉を送ったのだ?」
真理とは、やさしいものではない。
打ちのめされたものを、どこまでも打ちのめす。
このばの強者二人が、今まで生きる中で虐げてきた者たちがあじわってきたように。
「お前が命じたことを達成できない場合、我慢が足りんだとか努力が足りんだとか、そういう言葉でののしってきたのではないか?」
「……それは、真実としてそうだったからだ。先ほども似たようなことを言っただろう」
「では、お前は浮かび上がった都をどうしろと言ったのだ」
「どうもできなかった……どうしろとも言えなかった」
「当然だ、努力は万能ではない。そもそも生きている者は大抵努力している」
飲食が不要な仙人でさえ、そもそもそこに至るまでに膨大な修行を必要とする。
総量としてみれば、明らかに俗人よりも苦労している。
「ただでさえ努力し忍耐している者にむかって、直接的な対価も示さずに更なる努力と忍耐を要求している。それがお前の所業である。儂も似たようなものだがな。結局お前の指示は絶対に正しいのではなく、絶対に変更できなかっただけだ」
「……」
「お前も言われれば腹が立ったのではないか? もっと努力せよとかもっと忍耐せよとな。それでお主はそれなりに見返りがあったのであろうが、お前の臣民には何もなかったのだ。その上でお前よりも強大なものを知ったのだ、誰が従うか」
とても、決定的なことを言い残して、彼は去る。
それこそ、自分が保護した薬屋の代弁者として。
「お前なんぞ、死んだほうが清々するわ」
次回から、新章です。