故郷
朝日が昇った。
それによって、都の民たちは状況を把握した。
東に海面があり、西に青空があり、中天に朝日がある。
あり得ざることに、この都は浮かんだまま九十度傾いている。
朝になることで、今の自分たちの状況が文字通り明らかになる。
今自分たちが地面だと思っている、いや、じじつ地面だったはずの大地は、断崖絶壁になっている。
文字通り、世界がひっくり返っている。
それを、いったい誰が隠せるだろうか。
この状況で平常に日常生活を送ることなど、それこそ都の兵士たちにも不可能である。
誰もが地面にへばりつき、一切の希望を失っていた。
如何に皇帝を絶対視しているとしても、如何に皇帝が声を張り上げたとしても、誰が皇帝に従えるだろうか。
少なくとも、皇帝自身にさえ不可能だった。
己の城の最奥で、引き籠るほかなかった。
「さて、ずいぶんとやつれたな」
そして、であれば、スイボクがその彼の枕元に降り立つことはひたすら容易だった。
「き、きさ、ま……スイボクか……!」
天地がひっくり返った状況では、それこそ神に祈るか神を呪うしかない。
しかし目の前に荒ぶる神がいる。
子どもの姿をしているが、見間違えるわけもない。
皇帝と仙人は、一対一で対峙した。
「如何にも」
「早く、この都を戻せ!」
「……」
大きな寝台の上で、毛布にくるまりながらも怒鳴りつける。
それに対して、スイボクは適当な椅子に座り込む。
それはどう見ても、今すぐに何もかもを戻すという構えではなかった。
毛布の隙間からスイボクを覗いている皇帝は、再度怒鳴りつけようとする。
「お前は、神のつもりか……」
「……」
「四千年生きていると言ったな? 四千年でこれだけの力を得たのか?」
「……」
「それで、これだけの力で何をした、何が出来た!」
何ができた、という言葉をスイボクは厳粛に受け止めていた。
彼が言いたいことは、為政者の価値観からすれば察するのは容易だ。
だからこそ、まず言わせようと思っていた。
「お前は、仙人は、天界は、天狗は、秘境は、何をした!」
不老長寿にして、天地を揺るがす超人。
なるほど、神のごとき人間である。
天狗や仙人の前には、中原を平定した皇帝と言えども俗人に過ぎないのかもしれない。
では、その超人が一体何をしたというのか?
「なぜそれだけの力を持ちながら、血風吹き荒れる人の世を放置した!」
目の前にいる男が神だとして、神が何をしてくれたというのか。
この地を平定し、救ったのは自分だと彼は叫ぶ。
それは正しくて、何も間違っていない。人間にとって価値があるのは、間違いなく皇帝だ。
「お前は国を動かしたとほざくか! 都を地盤ごと動かして、己の強大さを示したつもりか!」
興奮した皇帝は、ついに毛布を脱いだ。
寝台の上で膝立ちになり、叫んでいた。
「逆だ! お前はこれだけの力がありながら、民に何もしてこなかった! だからこそ、朕は立ち上がった! 大陸の平定という偉業をなしたのだ!」
「そうだな、お前は大したものだ」
「お前は、お前たちは、朕に従うべきだ! それ以外のことはあり得ない! それこそが正しい、それこそが唯一! それこそが、人の世を統べる絶対の結論だ!」
確かに、秘境や天界の技術があれば、この地は富栄えるのだろう。
それを仙人は決して否定しない。少なくともアルカナ王国では、己の知識と技術はとても重宝されたのだから。
既に実証された事実を、仙人は決して否定しない。
「それと、お前が永遠に生きることの何の関係がある?」
その一方で、そもそものことを確認する。
「お前は中原を統べたのだろう? であればもう、お前が死んでも問題ないはずだ」
「そんなわけがあるか! 下衆どもは何もわかっていない! 朕がいなければ、再び中原へ戦乱の時代が訪れる!」
国が一つになったぐらいで、戦乱の芽は消えない。
そんな簡単な話ではない。
まだこの国には強力な統治者が必要だった。
「平原が平定されたとはいえ、西には獣のごとき蛮人が住まう最果ての地がある。それに対する備えは絶対に必要なのだ! 故に、朕は堅牢なる要塞を建造せねばならん! それも、この国の全てを守る、隙間の無い巨大な壁のごとき要塞だ!」
彼の言っていることも間違いではない。
彼は脅威から国家を守るために、力を尽くしていた。
「それを建造するまでに、どれだけの時間がかかると思う? 朕が死んだ後に、その壁が中断されればどうなると思う! 下衆とそれに迎合する輩は、税を軽くせよと吠えおる! 朕の深慮に過ちなどない、税は正しく使っている、必要なことに使っている! それを軽くすることなど、できるわけがない!」
自分の政策に反発があることは理解している。
それでも必要なことをしているのだと、彼は信念をもって答えていた。
「そして、特に反発しているのが平定し併合した国へ、未だに帰属意識を持っている非国民どもだ! この中原は、朕の定める法によって治めている! 朕の定める法に従う限り、永遠の安定が待っているのだ! 朕に従うことこそが、唯一の道だとわかっていない! 朕がこの世を去れば、奴らはたちまち中原を食い荒らす!」
「なるほど、全員が納得しているわけではないと」
「納得など不要だ! 朕の正しさのわからん連中へ一々了解を得ていては国家など治められん!」
「そうであろうな」
そこまで聞いてから、スイボクは指を振るった。
再び都が震える。
外では悲鳴が上がり、皇帝自身もすくんで寝台から落ちていた。
スイボクはもう一度指を振るい、その上で揺れを止めていた。
「き、きさま……!」
「儂に国政はわからんが、まあそうなのだろう。求めていることが必要なことだとは限らん、それは儂も長い人生で悟った」
願うことが達せられれば、そのまま幸せになれるわけでもない。
そして、皇帝の言っていることは、そのまま皇帝自身に跳ね返る。
自分の配下にどれだけの無茶を言ったのか、どれだけの無理を強いたのか。
それを、彼は必要だからと言い切る。
彼自身は、自分に必要な言葉を常に受け入れてきたとでもいうのだろうか。
「しかしだ、皇帝よ。儂はお前に従う気はさらさらない」
「こ、この、皇帝に向かって……重ね重ね……お前などと!」
「儂も人間であり、お前も人間であり、お前が言うところの下衆も人間だ。違う生き物、というわけではない」
「何を……朕を下衆と同列に並べるか!」
「同列の何が気に入らん、狭量な」
「朕は寛大であるが、限度はある!」
「そうか、儂も千五百年ほどおとなしくしていたので寛大になっていたつもりであったが、どうにも違うようだ」
苛立ちを目に込めて、スイボクは睨んでいた。
「千五百年ぶりだな、こんな気分になったのは」
スイボクは決して強く見えるわけではない。
しかし、スイボクのでたらめさはよく知っている。
彼が苛立つことがどういうことなのか、皇帝は想像もしたくなかった。
「お前、俺をどうにかできるつもりなのか」
皇帝は中原を統一したうえで、スイボクに何をしたのかと問うた。
スイボクは答えなかったが、実績はうんざりするほど積んでいる。
スイボクがこの人の世で何をしたのか、それはもうたくさんの国を滅ぼしたのだ。
「へえ」
外功法、崩城。
それを正しく使用したスイボクは、皇帝の居城の上層を瓦礫に変えていた。
轟音とともに破壊された屋根は、そのまま『真下』の海面へ落下していく。
それによって風通しが良くなった皇帝の寝室、そこで不機嫌そうにしているスイボクはいよいよ後ずさるしかない皇帝の頭を掴んでいた。
「優しくしてやってりゃあ、いい気になりやがって」
そのまま力任せに、頭をつかんで持ち上げる。
「もういっぺん言ってみろ」
不敬極まりない行動だった。
絶対に許されない行為だった。
にもかかわらず、スイボクはそれを平然と行う。
子供のままで、見た目だけは年上の男を暴力で黙らせる。
許されざる行為に対して、皇帝が口にした行動は実に正しかった。
「ゆ」
「ゆ?」
「許してくれ……!」
今ここにいる危険人物が会話をしているのは、それ自体が譲歩だった。
にもかかわらず、皇帝は普段通りに傲慢な態度をとりつづけた。
それが死を覚悟しているものならまだしも、ただの楽観だった。
スイボクは、その辺り容赦がない。
「まったく……我がことながら嫌になる。晩節を汚すとはこのことか? いや、そうでもない。汚すほどに誇る人生ではなかったな」
自分の行為が暴虐であるという自覚があるため、正当だとは思ってもため息をついた。
簡単に激高する自分に呆れながら、皇帝から手を放す。
「がっ……!」
頭を掴まれ、握りつぶされるかと思っていた皇帝は、大急ぎでスイボクから離れる。
もちろん、何の意味もないのだが。
「いいか、よく聞け」
相手が自分に対して反抗的である、ということはスイボクもよく知っている。
だからこそ、スイボクは暴力を惜しまない。
「これから、この城を海に沈める。さっさと逃げろ」
「な?」
スイボクは屋根があった場所を指さす。
皇帝が見上げたそこには、接近してくる海面が見えた。
もちろん、海面が近付いているのではなく、この都そのものが海に接近しているのだが。
「ひ、ひいいいい!」
※
「戻ったぞ」
大八州に戻ったスイボクの背後では、沈没している都が見えた。
都なので水没と言った方がいいのかもしれないが、意味としては沈没の方が近いだろう。
ゆっくりゆったり、どんどん海へ沈んでいく。
「まったく、強情な男であった」
迎えた五人のうち、山水以外の面々は蒼白になっていた。
薬屋の主人と息子は不衛生な牢獄の中で短期間とはいえ監禁されていたため、心身がとても弱っていた。そのため、とりあえず粥を極限まで薄くしたものをゆっくりと食べていたのだが、その食欲が失せる光景が遠くに見えた。
いきなり宮殿の屋根が吹き飛んで海面にぶつかり、更にそのあと都が垂直なまま海へ入っていくのだ。
これで飯が美味いと思うのは、それこそ右京ぐらいだろう。
「昔の儂に似て、相手より上でなければ気が済まん男だった」
かつてのスイボクは、対等を知らなかった。
相手より強く振舞って、相手を下にしなければ男が下がると思っていた。
自分の強さに甘えて、相手を押さえつけることしかできなかった。
それをどこまで通しても、それで求めたものが手に入るはずもないのに。
自分より弱い相手でも、心の歪んでいる相手でも、言っていることが正しいことはあるというのに。
「このまま水につけて数日放っておけば、性根も洗われるであろう」
彼は建造物だとか土地だとかを何だと思っているのだろうか。
微妙に気になるところだが、まあしょうがないだろう。
動かせるものは、いくらでも動かせばいいのだ。
「師匠、城の半分を海に沈めるおつもりですか?」
「然り。案ずるな、食糧庫やらに浸水はせんし、牢屋も安全だ」
気遣いができる仙人は、気遣いが微妙に間違っている。
いいや、大幅に間違っているのだろう。
「なにせ儂は、千年付き合いのあった兄弟子さえ説得できぬ、口の下手な男だ。であれば、相手が儂へ心を開いてくれなければ、説得などできんよ」
「それは心を開くというよりは、腹を見せて全面降伏するの間違いでは?」
「皇帝が誤りを認めるとはそういうことであろう? 儂も故郷へ帰ってきて気が逸っておってな、早くカチョウ師匠にお会いしたいのだ」
鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス。
鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス
鳴かぬなら、泣くまで待とう、ホトトギス。
鳴かぬなら、鳴くまで海に沈めて、死んだらそれまでホトトギス。
全部同時進行で放置する、スイボクという男の和解工作。
できれば説得したいが、死んでも仕方ないという剣仙一如の境地である。
「いやはや、それにしても……絶景かな絶景かな」
スイボクは朝陽に照らされる故郷を眺めて、感慨に耽っていた。
なお、薬屋の三人は遠くに見える、沈没しつつある都の方を見て感慨に耽っていた。
「懐かしき我が故郷、花札。三千年空けている間に、ずいぶんと様変わりをしたものだ」
秘境セルは閉鎖された地下空間という風情だったが、大八州はとても開放的な浮遊島だった。
大小多くの切り立った山が群れを成して浮かんでおり、上空にもかかわらず多くの木々が生い茂っていた。
その森の隙間に人里が見えており、そこでは人々の営みが見て取れた。
なるほど、ここを天界と呼ぶのは無理らしからぬことなのかもしれない。
「儂が三千年前に破壊し、バラバラにしたので変わっているのは当然だが」
花札と呼ばれていた時代は、たった一つの巨大な山が勇壮に浮かんでいた。
それをスイボクが天動術で破壊した結果、現在の形態になったのである。
「それでも、うむ……懐かしい。懐かしむ資格があるかはわからんが」
背後で沈みゆく都のことを意にも介していないあたり、資格はないものと思われる。
「どうであるか、サンスイよ」
「……ここが仙人の本場、師匠の故郷。そう思うと、吸う空気さえ特別に感じます」
「そうか」
皇帝が欲した世界そのものではないだろうが、なんとも自然と一体化した世界だった。
山に映える木々と、それの中に溶け込んだ集落。
それはまさに、争いのない楽園に見えた。
もちろん、そんなことはないのだが。
「そして、気付いているか? サンスイよ」
「ええ、気付いています」
この大八州全体を覆う、歳経た仙人の気配。
それとは別に、強烈な殺気が立ち込めている。
「なるほど、そういうことか」
「ええ、そういうことのようですね」
「二人とも、私にもわかるように言ってください」
この島を浮かせる地動法の使い手の気配こそ感じても、殺気は感じ取れないフサビス。
彼女はなにやら納得している二人に対して、天狗は一応の確認をする。
「フサビス、どうやらここにいるらしいぞ、賢人の水銀を皇帝から盗んだ輩は」
「な、なんですって?!」
山水の強さの根源、達人の見切りに若年の肉体。
技量と身体能力の両立、そんなありえざる剣士にして仙人。
しかし、もしも。
同じように肉体が全盛期を取り戻している達人がいるのなら。
その達人が、宝貝で武装しているのなら。
仙術に対して理解が深く、別の術を修めているのなら。
「コレを使わないと勝てないかもしれないな」
空に浮かせていた『最強の武器』を縮地で手元に引き寄せて、山水は義手となった右手で握っていた。




