悠久
森に入って師匠と合流して話をしてきた面々が、入る前とは同じ人物に見えないほど汚れて帰ってきた。
ささっと着替えて帰りの馬車に乗り込むと、何を話してきたのか俺に教えてくれていた。
「そうか、師匠がそんなことを」
森から帰ってきた全員が、師匠に会って毒気を抜かれたようだ。
その一方で、俺もまた色々と得るものがあった。確かに目の前の彼を見捨てるのは、余りいいことではないのかもしれない。
少なくとも師匠に弟子入りした時の俺よりは、ずっと真剣に悩んで強くなりたいと思っている人だ。彼を見捨てるのは、昔の俺を見捨てるよりも残酷だろう。
「そういう事ならば、俺としては異論はない。もちろんお嬢様が良しとするならばですが」
「……許すわよ。いい、戦場に出ても絶対に死なないようにしなさい」
「それは無理です……」
「何とかしなさいよ!」
お嬢様、簡単に言いますけど死なない人間なんていませんから。
全身を防御できる法術使いならまだしも、影降ろしの使い手が死なないようにするのは、ほぼ不可能な気がする。
「はっはっは! 剣聖といえども女性の扱いは慣れていないと見える。そこで謙虚に答えずに太鼓判を押して安心させるのが正しい回答であろう!」
「何分、素振りしかしてこなかったもので……」
言うだけならただではある。
しかし剣に関しては、余り余計なことを言いたくもなかった。
少なくとも、安請け合いなどできるわけもない。
「……そういえば貴方の師匠は普通の人間に教えようと思ったことがないとか言ってたし、貴方自身も素振りしかしてこなかったと言ってたわよね。具体的にどうするの?」
「そうなんですよね……」
まさか朝から晩まで飲まず食わずで素振りをさせるわけにもいかない。
仮に成功しても、何の成果も得られないだろう。体を壊すだけでただの我慢大会だ。
「っていうかさ、前も思ったんだけど素振りしてるだけであんなに強くなれるわけないじゃない。その辺りどうなの? 貴方って実は強くなるための秘密の修行方法があったりするんじゃないの?」
もっともなことをおっしゃるハピネ。
確かに昔の俺ならそう思っていただろう。というか、初期は何度も思っていたし。
だが、事実は違うのだ。仙術の修業とは、とにかく時間を費やしてその内何とかなる、になるまで待つようなものなのだ。
「自分で言うのもどうかと思いますが、五百年修行している人間の秘密の修行法なんて存在意義がないのでは」
「そ、それはそうだけど……自分や相手を軽くする技とか、一瞬で移動する技とか、打撃技とか……木刀の素振りで憶えられるもんじゃないでしょう」
皆興味深そうである。確かに期待してしまうだろう。最強の剣士の、その修行法を。
だが、鉄の剣で岩を斬るとか、そんなかっこいいことをしたことがないのだ。
「師匠にしても俺にしても仙術使いですから……その辺りは説明が不要だったというか……」
「どういうこと?」
「修行の段階について語ることになりますけど、面白くないですよ?」
「いいわよ、教えてよ。口にするだけならそんなに長くないでしょう?」
長いとか短いとかではなく、面白くない話なのだが……。
「俺は最初、師匠に朝から晩まで素振りをするように言われました。朝日と共に目を覚まして、日が沈んだら寝る。雨が降ったら庵の中で草履や着流しを作ったり、話をしたりしたぐらいで、特に面白いこともなく過ごしていました」
それが五百年続きました、では余りにも盛り上がりがない。
一応、ちゃんと細かく説明するとしよう。
「大自然の中で素振りをする、といっても楽しいものではありませんでした。最初はひたすら時間が早く過ぎることを願いながら、木刀を手に師匠の隣で素振りしていました。ですが、掌がマメだらけになる中で想ったんです。流石にこのままだと駄目だと」
これは普通の事だろう。
少なくとも祭我は、そうだろうなと共感しているようだった。
「というか、俺は段々と自分がどれぐらいの時間、どれだけの回数素振りをしているのかが気になりました。それを少しでも記録しようと、いろいろと石に傷を刻んだりしていました」
自分が修行をはじめてから何日経過したのか、自分が何回素振りをしたのか。それを記録して、今までの努力を自信に変えようと思った。
「そうやっていると、自分が回数に囚われるあまり、進歩していないことに気付くのです」
「その間師匠はなにしてるの?」
「俺の隣で素振りしてます」
全員絶句している。
いいや、流石にトオンはそんなこともないようだった。
余り過剰に教えるものではない、と知っているのだろう。
「こりゃあいかんと思ってまた木刀を振るときに、ちゃんと振れているのかを自分で確認するようになります。すると……自分のこれまでの素振りが間違っていたことに気付くわけです。今までの自分のやり方は全部間違っていた、と気づいてそこからいろいろとやり直すわけです」
トオン以外、明らかに呆れている。そりゃそうだ、何も教わってないんだから。
「そこでようやく、俺は師匠の動きを見よう見まねでやるわけです。すると、自分の体の動きが分かるようになる。木刀を振るのは腕ではなく、筋肉でもなく、全身であると認識できるわけです」
当たり前だが、素振りをすると言っても直立不動のまま、肩から先だけ動かして剣を振っているわけではない。
姿勢だとか重心の位置だとか、そういうものが見えてくる。
「いわゆるへっぴり腰、とかそういうのがようやく矯正されるわけです。そうやっていると、今度は全身を意識するようになる一方で、腕がおろそかになる。だから散漫になっている部位に気合を入れるわけですが、そうしたら今度はまた別の場所がおろそかになる。それを繰り返していると……夜になる」
このころになって、ようやく朝から晩まで剣を振ることが苦ではなくなってくる。
むしろ、あっというまに時間が過ぎていくと理解できるのだ。
夜寝る前に、明日はもっと上達しようとか、そう思えるようになる。
「それを繰り返していると、意識すれば全身の関節の動きを理解できるようになる。気を配れるようになる。それが意識しなくても自然な動作として染みついたころになって……また筋肉の動きに気付く」
自分の骨格、関節の動きを認識するようになると、筋肉の動きに立ち戻る。
師匠と比べた時に、まだぎこちなさがある。関節に問題がないなら、筋肉におかしいところがあると気づく。
「素振りをするときに、力を入れ過ぎて居たり、或いは力を入れていない部位があることに気付く。そうすると、そこを集中するようになって、関節の動きがおろそかになって、どんどんひどくなっていく。それを何とか集中してまとめあげると、師匠に近づくことができていた」
レインなんて、もう眠そうである。
そりゃそうだ、皆聞いてて気が長すぎると思っているし。
「そしてまた気付く。師匠の事を見ていないのに、師匠を把握している自分がいると。自分の体の動きを強く自覚してくると、今度は周囲の動きにも敏感になってくる。自分の体の状態を把握しながら、隣にいる師匠の動きも把握していく。すると……師匠との差がまた明らかになって、それをさらに矯正していく」
それは仙気を操る仙人特有の知覚だろう。
故に、影気を宿すトオンには望めないことだった。
「一部に集中し、全体の動きに集中できるようになり、それが自然にできるようになる。それを繰り返していくと、剣に神経が張り巡らされていく。自分の握っている剣が、どういう形をしているのか、どう振れば速度が乗るのか、どう振れば重くなるのか。それが理解できるようになっていく」
基本から逸脱しないまま、応用に広がっていく。
それ故に、その間の移行はあまりにも緩やかだった。
「そうやっていると、自分の中の仙気が自分のいる森とつながっていることにようやく気付く。魔法使いが魔力を意識したように、剣を通じて仙術の基本にたどり着くわけですね。ここまでで百年ぐらいでしょうか」
「……貴方の師匠に、一切尊敬できるところがないんだけど……」
「仙術っていうのは本を読んだり口伝で教わったりとか、そういうものじゃありませんからね。自然とつながって、そこから自然に習得していくものなのです」
そもそも、何時不老長寿になったとか、一々憶えてないし。
仙術って、なんとなく憶えていくもんなんだよなあ。
「とはいえ、師匠の中の仙気を感じるようになれば、師匠が着流しや草履の材料を集めるときに自然に行っている軽身功とかが、体の中の仙気をどう動かしているのかがわかるようになるので、やっぱり師匠から学んだで間違いはないわけです」
「仙人は自然と一体になるために瞑想を行うと聞きましたが、スイボク殿は瞑想の代わりに素振りをするのですね……」
「まあそれであってると思います」
トオンだけが真面目に聞いている。
他の面々は、気が長すぎる話で現実逃避を始めていた。
レインなんて、もう寝ているし。
「それで、技が使えるようになっていくと、慢心するわけです。俺も大したものだな、とか、これだけ努力して強くなったんだな、とか、そういう未熟さがあらわになるわけです」
「……それ、未熟なの?」
「ええ、心が乱れて体に余計な力が入ったりするわけです。そこに気付いて、ゆっくりと色々直していくわけで」
「ああ、そうなの……」
「仙術使いの場合、自分の中の歪みもわかりますからね。慢心による動作の不具合もわかるんです。とはいっても、そうやって他人を見下したいとか、優位に立ちたいという心は中々抑えにくいものです。そういう時頼りになったのは、やはり自然でした。雄大な自然の気配を、広い範囲で認識できるようになっていくと、その自然の営みの中で自分がどれだけちっぽけなのか、ゆっくりと学べて行くわけですね……それが二百年ぐらいでしょうか」
「貴方、やっぱりトオンの師匠になるのやめなさい」
そんなわかりきったことを、お嬢様は今更のようにいうのだった。