退屈
もうすぐ国境を越えて、そろそろバトラブ領地に入るというころである。
「もっと死角を意識してください」
馬車というのは馬が引くものであり、とうぜん馬も生き物なので途中で休憩をはさむ。
まして長旅の終わる間際なのだから、馬をこまめに休憩させるのは当然だった。
その中で、山水は祭我を含めた生徒たちに指導を行っていた。多数を相手に模擬戦を行いつつ、その戦闘を他の生徒たちに見取り稽古させるという、山水にしてみればごく普通の指導だった。
映像の記録技術がないこの世界では、それこそ低速で見直すなどは一切できない。
であれば、数をこなすことで補うしかない。山水が多数を相手に立ち回るところを、生徒たちは集中して観戦していた。
「目で見るだけではなく、脳で、頭で見ているのだと考えて視野を広げるんです」
今の山水は、金丹の術によって成人男性の姿になっている。それによって身体能力もある程度上がっており、それによって他の仙術をほぼ使わずに立ち回ることができていた。
縮地を使わずに、それでも多人数を相手に翻弄する絶技。剣術の妙というよりは、対集団の立ち回りにおける妙。
それは兵士たちにしてみれば、我が目を疑う空論の実践者である。しかし、当然素人が見て楽しいものではない。
「……つまらないわね」
「……正直、私もそうね」
ドゥーウェもハピネも、自分の男がものすごく真剣になっているので口をはさめないが、この道中幾度も見てきた光景であり学園でも見ていた光景ということもあって、はっきり言って辟易していた。
もちろん、それは異常ではない。口にこそ出していないが、ツガーも心の中では同意していた。
なにせ、剣の訓練である。つまりは反復訓練であり、言ってしまえば他人の業務のようなものだ。それを見続けて楽しいとは、普通は思わないだろう。
「ああ、そういえば」
となると、大して好きでもない相手とも、話をするのは当然だった。
ドゥーウェは暇つぶしになればいい、と言わんばかりに話しかけていた。
「貴女のアレ、元婚約者。アレってどうなったの? 来るの?」
「ああ、クローのこと?」
「ええっ?! ハピネ様に婚約者がいらしたんですか?!」
ドゥーウェもハピネも、極めてどうでもよさそうに語り合っていた。
それこそ、双方にとってその話題がどうでもいいことのようだった。
しかし、ツガーにしてみれば晴天の霹靂だった。確かによく考えればいて当然だったのだが、今まで一切話題に上がらなかったのでいると考えたことがなかったのだ。
「ツガー……私にだって婚約者の一人ぐらいいたわよ」
「ですが……その、聞いたことがなくて……」
「サイガに会う前に婚約解消していたもの、そりゃあ言うわけないじゃない」
バトラブの本家令嬢、ハピネ・バトラブ。祭我がそうであるように、彼女と結婚するということはバトラブの当主になるということである。その彼女が婚約を破棄していた、となると尋常ではないことのように思えていた。
「……もしかして、なにか勘違いしていない?」
「あらあら、勘違いされないとでも思ったの? 貴女は自分が粗相をしないと思われている、なんて夢を見ているの?」
「私が粗相をしたと思い込んでいる、なんて決めつけるのよ!」
実際には、ツガーの中では『ハピネが何かをしたのでは』という可能性が頭をよぎらなかったわけではない。それ以外の可能性が思いつかなかっただけで、それだと思い込んでいたわけでもない。
「別に、そんなに大げさなことじゃないわよ。私の婚約者だったクロー・バトラブは、知勇を兼ね備えた凄腕の騎士であり貴族だったわ。だから私の婚約者に選ばれていたんだけど……優秀過ぎて、本人が近衛兵に志願しちゃったのよね」
「カプトやディスイヤならともかく、武門の名家であるソペードとバトラブなら、近衛兵になることはむしろ名誉なことよね」
「そうなの……本人が希望するなら、ってことでお父様もクローの両親も許したのよ。でも、王家に仕える近衛兵がバトラブの当主になるのは流石に無理ってことで……婚約は破棄されたのよ」
近衛兵。
それを聞いて『ああ、サンスイに蹴散らされた奴らね』と思わないでもない。
しかし、近衛兵は本来この世界で最強と呼んでいいものたちを、百人もそろえたアルカナ王家の威信である。
武の才能と魔法の才能を兼ね備えたものだけが選出されており、一騎当千とまでは言わずとも雑兵を数十人まとめて蹴散らすほどだという。
「ということは……クロー様は、トオン様やブロワ様と同等の実力者ということですか」
剣の才能がなくとも魔法の才能があれば強い。
魔法の才能がなくとも剣の才能があれば強い。
両方の才能があれば、さらに強い。
その上で鍛えに鍛えて、最高の武装をそろえて編成すれば、それこそ無双の兵隊となる。
それがアルカナ王家の誇る、粛清隊と親衛隊。それらをまとめて近衛兵と呼ぶのだ。
「ええ、そうよ。近衛兵だったの……たしか、親衛隊の方だったかしら……何かのきっかけで近衛兵を辞して、バトラブに帰ってきたんだけど……」
「ええ、サンスイが他の近衛兵とまとめて蹴散らしたのね」
「はたから見れば落伍者なのに、誰もののしらないから不思議に思っていたけど……そういうことだったみたいね」
そう、比喩誇張抜きでこの世界最強の男であるスイボクが、『俗世なら最強と名乗ってよい』と太鼓判を押すほどの実力者として送り出したのが山水なのだ。
今目の前で数十人を相手にあしらっているが、それだって一般の兵士からすれば質の悪い冗談そのものである。
「ええ、サンスイに負けて挫折したのだもの。それは恥ずかしくないわよね……身の程を知ったということだもの」
ドゥーウェは当時のことを思い出して、楽しそうに笑っていた。
すました顔のステンドが、威厳のあふれる国王が、その表情をゆがめたあの一件を思い出して笑っているのだ。
「そのサンスイとも、今のサイガならそこそこいい勝負ができるのだけどね……。とにかく、私とクローが婚約を破棄したことに、サイガもサンスイも関係ないのよ」
「そうなんですか……」
ツガーにとっていいことがあるとすれば、クローが落伍者になったことに祭我となんの関係もないことだった。
なにせ、完全に自分の意思で近衛兵に志願して、山水に負けて失意のうちに実家へ帰ったのである。祭我に何の興味もない、とは言わないまでも直接難癖をつけてくることはないだろう。
とはいえ、他の近衛兵同様に山水へ何かを抱いているかもしれない。
彼女としては、山水に会いたくないからと表に出てきてほしくないところだった。
「といっても、あれから五年ぐらい経ってるし、流石に気を取り直しているんじゃないかしら」
「五年……早いわね」
「この旅で往復一年以上たっているじゃない、何をいまさら……」
そう一年以上旅をしている。
ツガーと祭我が出会って、もう二年以上経過していた。
幸いといっていいのかわからないが、祭我に大きな怪我もなく、しかし任務を投げ出すことなくバトラブの後継者として課せられていたことをこなしていた。
本人としては『適度に苦戦して、適度に充実感を感じる戦いがしたい』と言っていたが、ツガーにしてみればとんでもない話である。
祭我は今も努力を怠っていないが、普段の鍛錬の目指すところは『一切苦戦せず、怪我もなく勝つこと』のはずである。少なくとも山水はそれに到達しているし、皆もそれを目標にしているはずなのに、なぜか『散々苦労して強くなった自分』でも苦戦する相手と戦いたがるのだ。
「私としては……このまま何事もなく日々が過ごせれば、他に何も望まないです」
ツガーは自分の立ち位置をよく理解している。四大貴族の当主の愛妾になれるのだ、女としてこれ以上の幸運などありえない。あとはこの幸運が続くという幸福さえあれば、苦難も障害も不要だった。
この繰り返されている鍛錬同様に、退屈でも充実した日々があればそれでいいはず。
彼女は禍福に悩みながらも、それを祈っていた。




