慰霊
ふわり、とノアは浮き上がっているスイボクの森へ乗っていた。
スイボクにとってもはや己の支配下にあると言っていい森の木々の上に、ノアは乗っていた。
満天の星空の元、静かな時間が過ぎていく。
「とても……辛かったのですね」
パレットは、なんとかそう言葉にすることができた。
少なくとも、スイボクは安易な答えに甘んじなかった。
どこまでも真面目に、どこまでも真剣に、己と向き合い答えを探し続けた。
その結果が、山水という弟子だった。あるいは、山水という存在がどこまで彼の救いだったのかを、その場の面々は否応なく理解していた。
「辛いか……辛くはなかった。いや、辛いこともあったし苦しいこともあった。もちろん、今は悔やんでおる。しかし、修行は楽しかった。戦うことも楽しかった。フウケイがそうであるように、本当に苦しんでおったのは儂のせいで傷ついた者たちじゃよ。儂は幸福じゃ、儂の目指したものに共感してくれる後進が沢山いるしのう」
「……スイボク殿」
片膝をついて、トオンが礼の姿勢をとっていた。
無様を晒した、己の未熟さを恥じながら謝罪していた。
「貴方の弟子であるサンスイ殿から指導を受けているにも関わらず、私は貴方の境地を引き継ぎきることができませんでした。申し訳ありません」
「うん?」
「戒めてきたつもりですが、増上慢になっておりました」
トオンを始めとして、祭我もランも、フウケイに対して常に一拍の強みを持っていた。
一手及ばず、一歩届かず、紙一重。無限遠の境地にある程度たどり着いていた。
しかし、その『一』が無限になることはなかった。フウケイが一工夫するだけで、すべての戦いは覆っていたのだ。
小細工一つで、一は埋められてしまった。その理由は、心の未熟さにある。
「私は、あろうことか貴方の先達を侮りました。貴方の教えを引き継ぎ切ったわけでもなく、貴方自身になったわけでもないのに、思い上がり慢心しました。貴方に助けていただかなければ死んでいました」
もちろん、無尽蔵に至ったフウケイを殺しきれたとは思えない。
しかし、まだもう少しやれることはあった。そう思う。
もしも自分に油断がなければ、もう少し食らいつくことはできたとも思う。
そう思うと、情けないやら悔しいやら。
「よせ、トオンよ。儂やサンスイを尊敬してくれることは嬉しいが……お主の若さでそこまで至り、剣のみならず心でも優れておる男にそうも卑屈になられては、立つ瀬がない」
「ですが……」
「儂にしてもサンスイにしても、ただ長く生きているというだけのこと。お主、五十年も生きておらんであろう? 我ら師弟、百歳のときにどれほど子供じみていたのかを考えれば、儂らこそ恐縮してしまうわい」
確かに小便をひっかけたとか云々言っていた。千歳ほどのスイボクは、きっと相当大概な男だったのだろう。
そんな彼からしてみれば、そうも自分の未熟さを認められるトオンはまぶしかった。
「今回の一件は、完全に儂の不始末よ。儂がどうにかするべきことであり、お主にとっては人生の一大事というわけでもなかった。恥じるなとは言わぬが、身を縮めることはない。お主もサンスイ同様に、儂にとっては自慢できる剣士である」
「……ありがたい、お言葉です」
「それに、何やら我が弟子の主と男女の仲であるようだしな。これで死なれては、それこそ我が弟子に申し訳が立たぬわ」
力なく笑うスイボク。
確かに、スイボクのせいでトオンが死んだら、山水としてはどう思っていいのかもわからなかっただろう。
というか、ドゥーウェがどう動いたのかわからない。少なくとも、今まで通りとはいかなかったはずだ。
「……できることなら、この森の木でフウケイの御霊を弔う社を作ってやりたいところであるな」
しんみりとしながら、仙人はそんなことを言っていた。
「そうじゃな……作ってやるが良い、スイボクよ。得意じゃしな」
うむうむ、とエッケザックスが割ととんでもないことを言っていた。
「……なあエッケザックス。スイボクさんって、お前と一緒にいた時に社を建てたことがあるのか?」
「うむ、十度とまではいかぬが、結構建てたな。そうであったであろう、スイボクよ」
「ははは、恥ずかしい話であるな」
何故だろうか、魂を弔う社を建てたことが、その場の面々にとって恐怖しか感じられない。
「フウケイが雪やら雹やらを降らせていたであろう? 儂も一時期仙術によって凍気を操り、戦闘に生かせぬかと腐心した時期があってな。エッケザックスと共にそこそこ深い山に入って修行をしていたことがある」
どうやら、スイボクがエッケザックスと共に世界を旅していた時期も、ずっと戦っていたり旅ばかりしていたわけではないらしい。
課題を見つけた時は腰を落ち着けて、仙人としては短いスパンで修行することもあったのだろう。
「流石に先ほどまであった、ヴァジュラとフウケイが作った暗雲ほどではないが、儂もエッケザックスを使って暗雲を維持し、雪を降らせたりして色々腐心したのじゃが……結論として仙術では戦闘中に相手を氷漬けにすることはできぬ、ということがわかった」
ハピネもドゥーウェもパレットも、学園長先生の事を思い出していた。
そう、魔法の歴史、失敗の歴史の事である。
「というのも、儂がしたかったことは、気合を入れると相手を一瞬で氷漬けにするという即効性のある技であった。しかし、それこそ相手を雲の中に放り投げるか、或いは山にこもっておる儂のところまで、止まぬ吹雪の中を歩いて入ってくる馬鹿でもない限り氷漬けにすることはできぬということになった」
仙術が自然現象をある程度操作する術であるならば、正蔵がやるようにいきなり氷漬けにするということも不可能なのだろう。
なぜなら、普通に吹雪と何も変わらないからだ。凍死させることはできても、氷漬けにするのは難しいだろう。
「技を完成させたが、戦闘中に使うのは無理である、と分かった時点で儂はエッケザックスと共に山を下りたのじゃが……」
「十年ほど修行しておったからのう。山もその周辺も丸々氷漬け、それどころか近くにあった国も滅びておった」
即効性には乏しいが、有効範囲がやたら広いことが、仙術による気象操作の特徴だった。
であれば、自分の暮す山周辺だけ影響を及ぼすということは、どうあがいても不可能だったのだろう。
「そこで、儂は慰霊と反省の意味を込めて社を作ったのじゃ。弔うためにのう」
「流石に済まんと思ったからのう……」
悪気はない、そう悪気はなかったのだろう。
でも、悪気はなかった、では許されないレベルの所業だった。
多分、その時期にフウケイが戦っていれば、それこそフウケイが望む戦いになっていただろう。
「他には、そうじゃな。今儂がこの森を浮かせているように、仙術には大地をくびきから解き放つ技があるのじゃが、これを戦闘に応用できぬか考えたこともあった。まず適当な山を支配して、大地から切り離して浮かび上がらせて、持ち運んでいた時期があったのじゃが……なにせ一旦浮かせれば永遠に浮いたままであるが、移動させるとなると浮かせた物の傍にいる必要がある。つまり、常に山を犬のように引き連れながら旅をすることになるわけじゃ」
なんか、それは戦闘的な意味ではなく地形的な意味で迷惑ではなかろうか?
「今にして思えば、山をぶつけるなり山で潰すなりして勝っても、ちっとも面白くない。これは駄目だと思った儂は、ある程度技が完成した時点で元の所に山を戻して、また下山したわけじゃが……」
「山を下りると、昔はなかった道ができていてな。ふと振り返るとそこには……山に潰された家の瓦礫が……!」
なんで怪談話風なんだろうか。
「我が思うに、あの山がなくなったことで人間たちが新しい道を作り、街までできたわけじゃな。しかし、戻ってきた山に潰されて、壊滅したわけじゃ」
「儂も申し訳なく思ってのう、社をこさえて弔ったのじゃ」
こいつらは社を免罪符かなんかだと思っているのだろうか。
社を建てて慰霊するとか以前に、もうちょっと考えるべきだったのではないだろうか。
「そう言えば、テンペラの里なるところがあってのう……特別な血統に由来する拳法を伝える家がいくつもある里じゃった」
ランはふと思い出していた。
里の中にある、荒ぶる神が作ったという社の事を。
「道場破りをしたところ、里の者全員を敵に回してのう……やむなく皆殺しにしてしまった。今にして思えば、惜しかった」
「ちょっとコイツ、フウケイに殺してもらった方が良かったんじゃないか?」
右京の言葉を、一体だれが否定できただろうか。