第九
「友よ……どうか止まってくれ。君はもうわかっているはずだ、自分の修行が……」
「やめろ!」
フウケイは叫ぶ。
これから起こる運命を悟り、しかしその悟りから目を背ける。
そんな結論は、絶対に受け入れられないからだ。
「いいや、言う。それが君の為だ、友よ。君の三千年に及ぶ修行研鑽努力は“無為”に終わった。千五百年前に僕が森に閉じこもった時点で、僕を倒して凶行を止めるという目的は終わってしまった」
認めたくないが、そうだった。
少なくとも、千五百年前には無駄になってしまったのだ。
「君が僕を殺すことに必要なのは、三千年に及ぶ研鑽で得た仙術や盗んだヴァジュラでもない。その三千年が間違っていた、無駄だったと認める勇気だ。形に囚われるな、君は既に目的を達成できるんだ。君は僕が差し出す首を受け入れればそれでいい。そのはずだ、勇気があれば受け入れられるはずだ」
今更取り返しがつかないのだ。
千五百年以上も前に暴れることを止めたスイボクを、今殺してもなかったことになるわけではない。
同様に、フウケイがこの三千年間で積み重ねたものは、どうにもならないのだ。
それでも、フウケイが真に大義を思うなら、差し出された首を受け入れるか、もう悲劇は起きないのだと納得するしかない。
ここでこれ以上暴れても、今更どうなるものではない。それは、ただの私怨であり執着だった。
「間違いに気付かないことが過ちであり、過ちに気付いているのに気づかない振りをすることは更に愚かだ。それは君が僕に教えてくれたことだ、僕はそれを認めることができたからこそ、答えを得たんだ」
自分は間違っていた。そう認めることこそが、スイボクにとって最後のきっかけだったのだ。
「僕の人生は、今までの行いは、全て間違っていた。そう認めたからこそ、今の僕のすべてがある。そして、今の君は僕ほどに悪を成していない。自分で言うのもどうかと思うが、僕はこの俗世とある程度縁があるんだ。二人で謝罪しよう、まだ間に合う。僕が原因の事だ、一緒に償おう。そうすればきっと……君は昔のように戻れる!」
スイボクは、心底からフウケイの変容を嘆いていた。
自分の行いのせいだと、悔やみ悲しんでいた。
昔の生真面目な仙人に戻って欲しいと思っていた。
その為なら、自分の命も惜しくなかった。
「確かに、君が僕を正したいと思ったことは間違っていない! でも、もう終わってしまったんだ、僕はもう自分の過ちを認めてしまったんだ! だから……もういいんだ、無為ではあっても、無駄になってしまっても、僕ほどに破壊はしていない! 君の努力は決して、君の人生を汚すものじゃないんだ!」
本気でそう思っている。
それが、切ないほどに全員に伝わっていた。
「少なくとも、俺が皇帝陛下に打ち負かされて、あんなこと言われたら自殺するな」
ノアの上にいる右京は、そうつぶやくしかなかった。呆れているわけではない、他にどうしようもないことがわかっていたのだ。
どちらも、どうしようもない。それを両方がわかっているのに、それでもどうにもできないのだ。
「スイボク殿……心中は察するに余りある」
トオンは悲しんでいた。この二人の会話を聞いているだけで、何が起きていたのかわかってしまう。
加えて、手抜きをして首を落とさせても、それが救いにならないと察しがつくのだ。
なまじ、フウケイが武術の使い手として一定以上の段階にあることが悲劇である。
その彼が、スイボクがあえて避けずに首を斬らせれば、きっとフウケイはそれを理解してしまうだろう。
そして、そこから更なる後悔へ沈むことになるのだ。
「必殺、技……」
『そこで師匠は更に踏み込みました。武器の強度に依存しない技の開発、つまり奥義だとか必殺技だとか、そういう特別な技を生み出そうとしました』
『そして生み出そうと苦心した結果、奥義や必殺技のような『型』もまた剣に無用な形を作ってしまうものだと思い至り……原点回帰として木刀で素振りをすることになったのです』
祭我を始めとして、山水がスイボクのことを語っていた時居合わせた面々は、必殺技について思い出していた。
そう、スイボクにはあるのだ。エッケザックスも知らない必殺技が、山水に引き継いでいない過ちが。
エッケザックスと別れてから、山水を弟子にするまでの千年で、捨てた境地があるはずなのだ。
「スイボク……」
エッケザックスの胸中はどうなのだろうか。
理想を言うのなら、スイボクとフウケイが和解して欲しい。
それが叶わぬなら、哀しい事ではあるが、スイボクがしかるべき裁きを受けてもいいだろう。少なくとも、スイボクはそれを受け入れる。
だが、正直思ってしまう。スイボクが今の境地に至るまでに捨てた技を、この目にしたいと思ってしまう。
それが、スイボクにとって一番望ましくない結論であったとしても。
「己は……己は……」
ようやく、フウケイは己の置かれている状況を認識していた。
自分はヴァジュラを得ても、スイボクに手も足も出ない。その上、不死身になったはずの自分を、何時でも殺せる技をスイボクは会得している。
受け入れるしかないのだろう、自分の心の弱さを。
『フウケイよ、お前はあの子にこだわりすぎじゃ』
この場の面々の中で、スイボクも知らないことを、フウケイは思い返していた。
己たちの師が、自分になんといっていたのかを。
『お前はあの子に嫉妬し、羨望しておる。その才気、実力、無邪気さにのう。その事実を、お前は受け入れかねている』
違うはずの事だった、そうであるはずがない事だった、偉大な師ではあるが見当違いだと思っていた。
そう、思い込もうとしていた。
『お前があの子を嫌悪している根は、あの子を咎めたいからじゃ。あの子にある悪い部分ばかりを見て、自分よりも優れている部分を見ぬようにしている。それ自体はまあ構わんが、お前は自分を正しくするためにそれから目を背けておる』
その言葉が、ここにきて重い。
『素直になれ、フウケイ。お主はあの子が羨ましく、妬ましく、凄いと認めておるのだ。それを認めて楽になれ、それが第一歩じゃ』
それが真実であることが、どうしようもなくわかってしまう。
『お前は『セイギ』として悪を懲らしめたいのではない。あの子を貶めて、自分を正しいと思いたい、自分こそが優れているのだと思いたいだけなのじゃ』
師の苦言が胸を締め付ける。
『あの子と自分を切り離せ。嵐を相手に気張るなど、仙人のあるべき姿ではない。ただ、苦しいだけなのだ』
楽になれ、苦しむな。
その言葉が、こんなに辛いなんて思わなかった。
自分の重荷を下ろすことが、こんなにも痛みを伴うとは思っていなかった。
自分を許すということが、堕落ではなく苦行なのだと思い知っていた。
『あの子は、その内どこかで勝手に悟る。儂はお前こそが心配なのだ……』
スイボクが、既にこの苦しみを乗り越えたという事実さえ、張り裂けそうになるほどに辛いのだ。
「スイボク……」
「フウケイ、どうしたんだ?」
フウケイは苦しんでいた。そして、それがはじけていた。
フウケイの苦しみが尋常ではないと察し、どうしたのかと顔をうかがおうとしたスイボクを、フウケイは振り払っていた。
「スイボク、己と戦え」
そうだった。
師の言う通りだ。
既にスイボクの凶行は過去となり、殺す必要はなくなった。
既にスイボクは自分の罪を認め、戦う必要さえなくなっていた。
「もう、己は止まらん」
それでも、どうしても許せないのは、彼に対して感じていたものが正義感ではなく劣等感だったからだ。
どうしても、あの憎たらしいガキを相手に、優越感を感じたかったからなのだ。
その事実を、己の師はとっくに見抜いていた。しかし、スイボクは流石にそれを分かっていない。
当時幼かった、或いは自分の罪の重さを理解しているスイボクは、フウケイの心に卑しさがあったなどとは思っていない。
「お前は、俺を殺すしかない。首を差し出すことが無意味であると悟っているのなら、戦え」
フウケイは、逃げた。
過ちを認めることから、逃げた。
戦い、死ぬことに逃げようとしていた。
どうしても、自分の卑しさを認めることができない。
どうしても、自分の醜さを語ることができない。
どうしても、自分の浅ましさを許すことができない。
どうしても、スイボクがそれに気づくことに耐えられない。
「もう、遅い。すべてが、だ」
フウケイは命を捨てることを選んでいた。その気質をエリクサーに見抜かれているとは知らずに、命よりも尊厳を選んでいた。
三千年間スイボクを討とうと思っていた己の心中が、正義感ではなく劣等感の裏返しだと知られたくなかった。
その為にだけ、フウケイは戦う。それこそ、自尊心を守るために。
「スイボク、己はお前を討つ。お前が言うことを信じていない。お前に大地と一体化した我を討つだけの高みに至っているなど、信用できるわけもない」
「……そうか、それもそうだ」
「礼儀知らずだったお前に教えてやろう、こうした時にどう振る舞うのかを」
そうだ、そのはずだ。自分の目指した境地が、三千年間鍛え続けた技が、根元から間違っていたなど認められるものか。
「本当にあるのなら、使って見せろ。我を殺せるという、その絶技のすべてをぶつけてこい!」
もうどうにもならない。
自分は堕ちた、最初から堕ちていた。スイボクは登り続け、到達した。
それは認めよう、認めるが語らない。
自分の愚かさを、この男に知らせるわけにはいかない。
なによりも、堕ちたままであったとしても、目の前の相手よりも強くなったのだと信じたかった。
この期に及んでなお、フウケイはその考えを捨てられなかった。
「風景流仙術内功法絶招」
そうした心中を察するまでもなく、その頑なさを誰もが理解していた。
スイボクの過去の行状が語られただけに、そう簡単に納得できるわけがないと、誰もが彼に共感していた。
スイボクもわかっている。それがどれだけ難しいのかを。
その選択肢を選ばせ無くしていることも含めて、自分の罪だと理解していた。
「“蚩尤”……天下無双!」
渾身の一振りが、祭我の打ち込みをはじき返した最強の一撃が放たれた。
自分はやれるはずだ、そう信じたいがゆえに絶招へしがみつき、縋り付く。
ヴァジュラで薙ぎ払い、その胴体を別とうとする。
当たるわけがないと頭で理解しつつ、当たりさえすればと心で祈りながら、振りぬいた。
「そうか、これ以上君を止めても、それは君への侮辱か」
手応えなく振りぬいた、そう思っていた。
仮に命中しても、無防備なスイボクを斬るにあたって手応えなどあるわけもなかったし、回避されたのであれば結局手ごたえはない筈だった。
「分かった、もう止めない。君を殺そう、禁じ手のすべてを使って」
その光景に、フウケイだけではなく誰もが目を奪われていた。
当たっているのに、手応えがない。それを誰よりも理解しているのが、ヴァジュラだった。自分の刃が強化されたうえでスイボクに触れているのに、届いていない。
「なんだ、これは……!」
「水墨流仙術軽身功法絶招、十牛図第九図“返本還源”色即是空空即是色」
それはある意味では、フウケイが地脈から無尽蔵の供給を受けていることと似た技だった。
今のスイボクに、もはやフウケイの攻撃は届かない。フウケイが不死身であり、いくら傷を受けても復活するのなら、スイボクはあらゆる攻撃を無効化する無敵に至っていた。
「もはや、問答無用だとしても、この技の名は『問答三昧』」
それは、本当に皮肉な技の名前だった。
「君は、もうどうしようもなく僕に届かない。僕はこのまま、君が何もできないまま殺す。迷惑ばかりかけた君をこんな風に、一方的に殺すことは心苦しいが、それを君が望むならそうしよう」
前言撤回の言葉が詰まるほどに、フウケイは目の前のスイボクへ恐怖していた。