現実
「……もう止めよう」
通常、優位に立ち一方的に攻撃してくる者が争いを終えようとすることは、劣勢の者にとって希望と言っていいだろう。
それがありえざることに、優位を放棄して敗北を差し出してくる提案なら、詐欺と疑いつつも縋り付くだろう。
だが、何事にも例外はある。
復讐にすべてを費やしたものが、あろうことか復讐の対象に許されるなどあってはならない。
「僕には弟子が居る。三千五百年を費やしてようやく到達した境地を、きちんと託せた弟子が居る。三千五百年迷い続けて、間違え続けて、迷惑をかけ続けて、ようやく不惑に至った僕の答えを引き継いでくれた自慢の弟子が居る」
どうして、どうして、どうして受け入れられるだろうか。
「僕がようやく見つけた『最強』を、誰かに教えることができる弟子が、もういるんだ。もちろん、まだ教えたいことは沢山あるし、また修行を付けると約束もしている。だが……それでも、その未練を含めて、僕は君に命運を託したい」
ああ、ああ、ふざけるな。ふざけるな。冗談じゃない。
「その未練、無念を、君にかけた迷惑への罰として差し出そう。これより重いものは、もうすべて捨ててしまった」
まだ、何もしていない。まだ、何もできていない。
自分は、自分は、自分は!
この『野郎』をぶん殴っていない!
この『野郎』をブッ叩いて、悔しい想いをさせていない!
この『野郎』をぶちのめして、泣かせていない!
その為に頑張ってきた。
その為に修行してきた。
その為に三千年費やした。
ああ、でも、もうわかっている。
『カチョウ師匠! なぜスイボクが他の仙人の所へ行くのを咎めないのですか!』
『ふむ』
『あの小僧は、この地にある仙人から仙術を学びたいだけです! 他の目的など一切ない!』
『うむ』
『その力で、一体どれだけの悪を成すか! 想像できない貴方ではないでしょう!』
『そうであろうな、あの子はお前が懸念している通りの事をするであろう』
『では、なぜ咎めないのですか! それは、悪です! 許してはいけないことです!』
『……』
『今ならまだ間に合う、今ならこの地で止められる!』
『止められはせぬよ、アレはそういう宿命を背負っておる』
『そんなことはありません、今のスイボクは未熟者です!』
『……お前は未熟じゃな。儂は……儂はお前の方が心配じゃ、フウケイ』
『カチョウ師匠?!』
『お前はあの子のことを気にかけすぎじゃし、浮世の摂理にとらわれ過ぎておる』
『わ、私は、ただあの子の事が心配で……世間に迷惑をかけることも含めて、私は……!』
『未熟な……他人の事を心配する、という時点でお前は未熟なのじゃ』
今ならわかるのだ、あの時師匠から言われたことが。
『善だとか悪だとか、そんなことを仙人が気にしてどうする。ではお前は狼を殺し虎を絶やし鮫を干上がらせ、あらゆる森や草原を田畑に変え、人々の利益のために振る舞うのか?』
『そ、それは極論です! 我ら仙人は、あくまでも自然との調和を……』
『では自然とはなんだ。自然以外とはなんだ、調和とはなんだ』
『……申し訳ありません、私にはまだわからないのです』
『違う、違うのだ。我が弟子フウケイよ、今のお前には、ではない。このままでは、お前には永遠にわからない』
『それは、どういう……』
『他人の事ばかり気にして、他人の至らぬ所ばかりを目にして、他人を矯正しようとしているお前こそが、スイボクなどよりもよほど答えから遠い。お前は答えを得ようともしていないのだ』
『スイボクはいずれ答えを得て、私はそれにたどり着けないというのですか?! なぜ、どうすればいいのです!』
少なくとも、スイボクは答えを得ている。
対する自分は、この回答を受け入れられていない。
『スイボクを忘れよ、スイボクが成すであろうあらゆる『破壊』『殺戮』『浅慮』『邪悪』『宿業』『大罪』を諦めよ、スイボクのことなど気にせずに自分の修行に打ちこめ』
『そんなことは、忘れられません! 諦めることも、許すこともできません!』
『お前は、世間の利益を大義にしておる。そういう意味で、お前はさっぱり俗世を捨てておらん。そのどちらもが、仙道から程遠い』
『そんな……そんなことは、無い筈です!』
『お前は素直になれ。腹の底から大きな声で叫び、悔しがれ。お前はそれができぬ、自分が本当に思っていることを認められぬから、忘れることも諦めることも許すこともできぬのだ』
尊敬する師は、どこまでも真理をついていたのだ。
『嵐になる雲もある、ならぬ雲もある。ちぎれて消える雲も、まあある』
『それは、私の事ですか』
『しかりである。お前は自分を見つめよ、自分を、自分自身を見つめよ。醜く浅ましくどうしようもない自分の非を認めるのじゃ。それが、お前にとって必要な事じゃ。そうでなくば、お前の終わりは……とても、悲惨なことになる。長い生が苦しみに満ちたものであったと後悔しながら死んでいくのじゃ』
ああ、しかし師匠。
スイボクと私の師匠。
偉大なるカチョウ師匠。
『他ならぬお前自身が、自分の人生を否定して終わってしまう。儂は……そんなお前をこそ哀れんでおる。我が弟子、フウケイ。儂はお前が心配じゃ』
この答えが、結果が、どうしても受け入れられないのです。
『未だに未熟なお前にはわからぬであろうが、スイボクは『人間』ではない。もっと別の、規格そのものが違う『何か』じゃ。張り合うだけ損をするぞ』
「スイボク! 勘違いするな!」
終わらない、終わらせない、まだ戦いは続き人生は続き復讐は続く。
修行は成った、目標は達成した、未だに優位は失われていない。
「お前には、己を殺すことはできない! 己こそ天地のすべてを握った者!」
確かに認めよう、自分はこの男に届いていない。
この男は強いだろう、だが自分を殺すことはできない。
だからこそ、こうして戦いを終わらせることを願っているのだ。
だとしたら、絶対に止まることはできない。
「お前には、この戦いを終わらせることができない! すべての決定権は、あくまでもこの俺にある!」
「フウケイ……」
「そうだ、そうだ、そうだ! お前は確かに、昔よりも強くなった。お前は強い、強い、強い! 力を付けた、この天才め!」
「違う、それは……」
「お前には、俺が殺せない! それが真実であり現実だ! この戦いは、お前が死ぬまで終わらない! いいや、お前が俺に殺されるまで終わらないのだ!」
三千年費やした、三千年かけた、三千年行った。
その結実が、これだとは認められない。
「……友よ、フウケイよ。僕の兄弟子よ」
「なんだ、スイボク!」
「認めよう。君が目指した境地に、君は到達している。僕は正直とても驚いている、君が大地の力を得ていることに」
三千年だ、三千年だ、三千年だ!
この男がどう生きたとしても、自分を越えているなどあり得ない。
自分は、復讐を達成するために仙人の時間を費やしたのだ、目の前のこいつが最強であっても、負けるわけがない。
「そうだ、己は不死の力を得たのだ! 何者も……お前でも、己を殺すことはできない!」
「それは違う、友よ。少なくとも僕は、君を殺せるものを知っている。ここに来るまでの途中で、その使い手に会ってきた。ああ、正直怖かったけどね」
しかしそれは、結局のところ想像力の問題であり知識の問題でしかない。
「僕は昔、エッケザックスを使っていた時代に、パンドラの所有者と戦って勝った……運が良かっただけだ。運が悪ければ、そのまま死んでいた。ましてや、今の使用者は完全なる適合者、今の君でも運が悪ければ何もできないし、今の僕では勝算など無いだろう」
「……お前が、勝てない?」
「幸い、引き下がってくれた。パンドラには随分と嫌われてしまっていたが……まあ彼女から見れば僕なんて面白くないだろうし、当然だな……」
フウケイは想像できず、知らなかっただけだ。
今の自分を殺せるものを。
「はっきり言うが、僕が何もしなければ、君は彼に殺されていただろう。僕が此処に訪れていなければ、君は僕の所にたどり着くこともできなかった。君は運がない、寄りにもよって、君を殺せる者がこの国にいて、君を殺す使命を帯びていたのだから」
スイボクは知っている。
自分の事も、目の前のフウケイの事も、あっさりと殺せる者がいることを。
「お前に、己が、救われているとでも?!」
「それは少し違う。ただはっきりしていることは、君が描いた理想は、間違っているということだ」
言うな、それは違うはずだ。
今でも、自分の優位は一切失われていないはずだ。
自分が諦めない限り、この戦いは続くはずなのだ。
自分は、その為にこそ……。
「これは、仙人としての分析だ。君は、地脈と完全に一体化している。それによって、君はこの星から常に力の供給を受け続けている」
「ああ、そうだ!」
「それによって、君は仙気を消費する術を際限なく発揮できるうえに、肉体が滅びても再生できるし、あらゆる大地で長年過ごしたかのように振る舞える」
「ああ、そうだ!」
その通りだ。相手がスイボクなので、仙人なので、対峙すれば即座に看破できるはずだった。それでも、まったく問題ないはずだった。
人生を賭して得た境地は、誰にも破れないはずだった。
「仙人として、本当に尊敬している。その難易度を想像するだけで眩暈がしそうだ。だが、武人として言わせてもらおう」
「なんだ、言ってみろ!」
違う、言うな!
お前の口から、恐怖や憤怒以外の言葉など聞きたくない!
「志が低すぎる」
そんな、そんな目で見るな。
「地脈とつながる云々はともかく、目指したものが『スイボクを倒すこと』であるにもかかわらず、その為の手段が『殺されても死なないこと』というのは卑屈すぎる。君は最初から僕に勝てないと思っていた、だからこんな境地を目指して、到達したらそれで安堵してしまった。志が低すぎるにもほどがある」
そうかもしれない、そうなのだろう。
だが、それを言われた自分はどうすればいい?
「確かに僕の修行は、君にとっては想像するしかないことだっただろう。だが、この境地における勝利とは、僕が疲れ果てるか、長時間の戦いによって失敗するか、面倒くさくなって諦めるかのいずれかだ」
じゃあ、己の修行は最初から間違っていたというのか?
そんなことを言う資格が、お前にあるとでもいうのか?
「そんな勝利で、そんな復讐で、そんな結末で、君は満足できるのか? なぜ、武の技で僕を越えようとしない、なぜ僕に指一本触れさせずに完勝しようと思わない。泥仕合で殺そうと思っている時点で、君はとっくに心が負けている」
ああ、そうだよ!
そうなんだろうよ!
でもお前には言われたくないんだよ!
「なぜヴァジュラを求めたんだ、なんで天動術で僕を越えようと思わなかった。君は、最初から僕に勝ちたいと思っていない。地脈と一体化し、天を操る槍を奪った? そうだろうが……そのどちらもが、君の弱さの証明だ」
なんでこうなる、なんでこんなことになっている、なんで何も言い返せない!
「君が三千年前に目指した境地は、君が三千年間行った修行は、君が三千年かけて到達した絶招は、僕を倒せるものではなかった。認めるんだ、それを。どうあがいても、今の君じゃあ僕には勝てない」
残酷なことを言っている自覚があるのだろう、その言葉を口にする資格がないことがわかっているのだろう。
だが、それでも言い切っていた。
言わねばならないことを、フウケイが苦しみの中にいる理由を。
受け入れられないからこそ、苦しんでいるとしても。
「言いたいことは、それだけか?」
虚勢だった。自分が虚勢だからこそ、相手のそれが虚勢だと思いたがる。
「お前は、どうなんだ? お前が無限遠だとして、己が無尽蔵であることは変わらない。お前が何をどう言っても、お前が己に勝てないことは変わらない。お前は己を殺せない」
それはそれで、事実だった。
少なくとも、スイボクは幾度となくフウケイを倒しているが、殺しきれていない。
「己はお前を殺すことを諦めない、であればお前が己に殺されるのは必定だ。せめて自分の格好を付けようと必死なのだろう?」
「それは違う、友よ。僕はそんなことを考えていない、というより……」
スイボクにとっても、どうしようもなく不運だった。
スイボクは自分の未熟を呪っていた。
「僕は君と違って、迷ってばかりで惑ってばかりだった。君は僕を殺すために三千年間その境地を目指して鍛え続けてきたようだが、僕の場合は違った」
どうしても、フウケイを救えない。
誠実さ故に語る言葉は、彼を絶望させるものでしかない。
「僕は故郷を滅ぼしてから五百年、最強の剣を求めた。その結果、エッケザックスを神から受け取った。それから千年旅をして、行き詰まりを感じた僕はその神剣を捨てた」
調度、千五百年。修行の折り返し地点だった。
「そこから千年、僕は色々試行錯誤してね。今の境地に達したのはほんの五百年前だった」
「……何が言いたい?」
「僕はその間、色々修行を形にしては放棄した。何が言いたいのか、だったね。僕の到達地点である無限遠では、君を殺せない。それは事実だ」
スイボクは己の絶招を十牛図の第十図、と呼んでいた。
それが何を意味するのかと言えば、試行錯誤の結果到達した境地であるという事。
例え結論が一枚の絵だったとしても、そこに至るまでには九枚の絵が存在している。
「だが……僕は今の戦い方に至るまでに、四つの技を生み出した。それらを極めて、その都度放棄した」
フウケイは三千年間、地脈との一体化を目指した。その結果、無尽蔵を己の物とした。
一切迷わず、その境地に到達した。技の難易度から言えば、スイボクの至った境地を越えているのかもしれない
「どんな敵でも倒せる技、なんでも切れる剣、避けられない攻撃、あらゆる攻撃を防ぐ技。我ながら、思い返せば赤面の至りだが……しょうもない技を生み出したよ」
しかし、結局フウケイは三千年前に考えた境地に対して、一切疑問を抱かなかったことを意味している。
それが本当に正しいのか、検証もしなかった。その結果が、今のフウケイなのだろう。
「いやあ、ごめん。長くなった。結論を言おう、僕は君を殺せないんじゃない。殺したくないだけだ」
もう、どんな顔をしていいのかもわからない。
「殺すつもりなら、とっくに殺している」
現実は、残酷だった。
「君が死んでいないのは、僕が殺していないから。それだけだ」




