覚悟
カプトへ向かう道中、ドゥーウェは馬車に揺られながら期待に胸をときめかせていた。
彼女は人生で屈辱を感じたことはほとんどないのだが、同様に自分の手勢がてこずったこともない。
これは矛盾した感情である。
自分の手勢は最強無敵であるはずであり、如何なる敵もやすやすと倒せて当然である、という確信や自負。
いつもあっけなく勝負が決まってしまうので、苦戦や緊張に飢えている、という不満や鬱憤。
それが晴らせるかもしれない、そんな期待が彼女の胸をときめかせていた。
「……ふぅ」
同様に、トオンも覇気をたぎらせている。
山水から見ればよくないことだ、緊張していると言われるだろう。実際、自分には修行が足りないと思う。
しかし、どうしても思ってしまうのだ。一人前の兵士を百として、精兵を百二十として、自分は精々百五十。それがランや祭我のような、千とも万とも値する存在同様に扱われていることが、嬉しくてたまらない。
あの二人に比べて、及ばないことはわかっている。強くなったところで、結局妹にも勝てないとは知っている。
それでも、戦いたい。稽古ではなく試合でもなく、命を賭して戦いたい。
もうすぐ人生の終わりが見えている、到達するべき場所も見えている。
にもかかわらず、愛する女を危険にさらしたうえで、自分の命を鉄火場に晒そうとしている。それが嬉しくてたまらない。まったくもって、修行が足りない証だった。
「……」
同様に、別の馬車に乗り込んでいる面々も静かにたぎっていた。
これから死地に赴くというのに、戦力に数えられておらず、壁になることだけを期待されているのに、誰もがそれだけで幸運だと思っていた。
極上の戦いに居合わせることができる、それだけで彼らは幸福と興奮に満ちていた。
加えて言えば、彼らにも未来や目標が切り開かれつつあった。
流石に全員ではないが、山水から指導を受けている者たちの中でも優秀な者たちは、仕官を通り越して指導役としての登用がありえてきた。
もちろん、軍団の指揮や運用ではなく、貴人への剣の指導だった。つまり武芸指南役、という奴である。いうまでもなく、貴族への指導役は武人としては最高の身分であり、同時に非常に安定した立場だった。
客観的に言って、山水はこの国最強の剣士であると同様に、バトラブの次期当主の師でありソペードの我儘姫の婚約者の師であり、遠からず爵位を与えられる男であり、つまりはソペードから最上級の扱いを受けている男である。
その彼の弟子である。ソペード傘下、バトラブ傘下の貴族たちにとっては重要な意味を持つと言っていい。
武門の名家である両家の貴族たちは、礼儀として剣術の腕が求められる。その礼儀の指導として、山水の弟子を求めるのはある意味当然なのだろう。
つまり山水のおこぼれ、山水の武名や地位によるものではあるのだが、とにかく彼らの内何人かには人生に上りが見えてきた。
山水も喜ぶであろう、武人としての到達点。戦場で名を上げるまでもなく、彼らは剣によって地位と名声、権威を得ることができる。
つまり、山水から認可状的なものが発行され、それが一流の剣士を証明するようなものになる。そういう時代が近くなってきている。
山水は個人の剣士を越えて、ブランドになろうとしている。
それが指導している彼らのためになるのなら、と彼は拙い筆で認可状を書くこともあるだろう。一定の水準に達した者に、それをしたためて送り出すこともあるだろう。
「……」
今は未熟でも、訓練を積めば登用される。それは彼らにとって希望の筈だった。
そういう意味では、これから向かうところになど行っている場合ではないだろう。
それでも、男子として思ってしまう。ドゥーウェ同様に、最上級の戦いをこの目で見たいという欲求が体に満ちていたのだ。
頭上に広がりつつある暗雲。それが何を意味するのかを分かった上で、誰もがそれから逃げようとはしていなかった。
※
男は、歩いていた。
明確に感じる何かを目指して、ひたすら歩いていた。
時折腰を下ろして瞑想しつつ、それでも一つの方向を目指して歩いていた。
天槍ヴァジュラの力で、周囲の気象を操作して雲を集めている。
雨粒一つ降らせずに、ひたすら堆積させ続けている。
仮にひとたび雨を降らせれば、その周辺を水害で満たすほどの暗雲が、しかしそれでも足りぬと満たしつつあった。
『……おい、お前』
天槍ヴァジュラは、一万年という長い年月を越えた時間の中で、初めてエッケザックスを羨んでいた。
気に入らぬ主を拒めない、そんな自分の機能が呪わしかった。
一言もしゃべらずにひたすら歩き続けるこの男に対して、彼女は不満をひたすら感じていたが、しかし一つの事実に気付いて身を震わせていた。
どう考えてもおかしいことがある。
そう、ありえないことではあるのだが、そうでなければおかしいことがあるのだ。
『おい、聞いているのか! この天槍ヴァジュラが聞いているのだぞ!』
暗雲を作る速度が速すぎる。どう考えても、絶対にありえないほど速く空に雲ができている。
基本的に、ヴァジュラの機能は自然の流れに沿うものだ。密室で風を起こすことはできないし、雲がないところでいきなり雨を降らせることもできない。
故に大きな湖か、できれば海で雲を作らねば、大きな雨雲を速やかに生み出すことはできない。
この男はそれをしていない。ある意味自然に任せて、地表の水分が蒸発して雲になる流れを整えているだけだ。また、周辺の雲をまとめてもいる。
それはいい。それは自分の機能だ。
しかし、おかしい。どう考えてもおかしい。
いくら何でも、出来上がる雲が大きすぎる。雲の大きさに比べて、時間が経過していないにもほどがある。
『至高の神宝である我が、簒奪者であるお前に話しかけてやっているのだぞ!』
どれだけ『天に対して挑む心』が大きいのか、と思っていたのだが、それにも限度というものがある。
対人仕様の己に、そんなことができるわけもない。
できるわけがないのであれば、何か別の要素があるのだ。
「黙れ」
どうでもよさそうに、ただ沈黙を男は求めた。
男は集中していた。暗雲の下で歩む彼は、昔の事を思い出して浸り、猛っていた。
積み上げたものを、積み重ねた思いを、降り積もった感情を、すべてぶつけるために彼は歩いていた。
『いいや、黙らんぞ! ようやくお前の正体が分かった!』
「黙れと言っている」
ヴァジュラは怒っていた。それはもう、心底怒っていた。
天に挑む己が主が、皇帝という天を越えて天に至り、今後は自分を用いて民に恵みを与える神の如き振る舞いをするはずだったのに、それが一気に頓挫しようとしていたのだから。
『まったく、どれだけ迷惑をかければ気が済むのだ! アヤツは!』
彼女は、間抜けにもようやく気付いたのだ。
この男が、瞑想することはあっても、水を飲まず、葉っぱ一枚食べないという、生物としてあり得ない行動をしていることに。
希少魔法はそこそこの数があるのだが、そんなことが可能になる希少魔法などこの世に一つしか知らなかった。
『お前、スイボクの同門だな?!』
その言葉が真実であることを、歩き続けていた男の表情が固まったことで確信した。
そう、この男はエッケザックスの以前の主であるスイボクと、同じ師を仰いだ同門の『仙人』だった。
『やっぱりか! あの男はどこまで他人に迷惑をかければ気が済むのだ!』
「……知っているのか、スイボクを」
『知らいでか! 人間の分際で我と同様に天を操るあの男が、どれだけ人界を騒がせたと思っている!』
仙人はヴァジュラを使わないし使えない。
希少魔法の中でも唯一天候操作が可能な仙術は、ヴァジュラに遥かに劣るが同じことができる。
この場合の劣るとは、つまりは規模ではなく速度だった。仮にヴァジュラが三日でできることが、仙術では三十日かかることもあるだろう。
当然、永遠に近い寿命を持つ仙人がそんなものを気にするわけもない。
加えて、俗世と縁を断った仙人が、国家に憤慨したり運命を呪うわけもない。
何かを求めることが仙人らしからぬことであり、天に挑むと来れば更に仙人らしからぬことだった。
「……奴は、やはり悪を成したか」
『ああ、成したとも! 奴がいくつの島を海に沈め、いくつの山を試し切りし、いくつの森を焼き払ったと思っている!』
しかし、他ならぬ神宝たちは知っている。
世にも仙人らしからぬ、しかし人界に影響を及ぼした仙人の存在を知っている。
「あの男は……我らが故郷を滅ぼした」
『あの男は、故郷さえも滅ぼしていたのか?! よく国を亡ぼす男だとは思っていたが! 故郷まで滅ぼしていたのか!』
悠久の時の流れが、既に彼の悪行を包み隠していた。
スイボクが最後に暴れてから、千五百年以上の歳月が流れている。
既に彼の暴威を知る国もなく、隠れ里で神話のように語られるのみ。
しかし、この男は忘れていなかったのだ。故郷を滅ぼした、あの男の暴虐を。
―――最強だ、これで僕が最強だ!
―――待て、スイボク!
―――ああ、そうだ! 何人も僕を、儂を止めることなどできはしない!
―――貴様、ここまでの事をして、逃げるというのか!
―――逃げる? 何を訳の分からないことを! 俺は出て行くのだ、俗世に降り立ち、己の武勇を知らしめるために!
本来、個人への復讐心でヴァジュラが起動することはあり得ない。
しかしその相手が、それこそ国家を滅ぼすほどあり得ない力を持っていれば話は別だ。
その個人が厄災の如き存在として、人間の及ばぬ存在であると認識されていれば話は別だ。
「己は、奴を殺す。そのために三千年を費やした」
加えて、天を操作するヴァジュラを仙人が操った場合、それはまさに天意となって天空を操ることが可能になる。
例えエッケザックスで仙術を増幅しても、これに介入することは不可能だった。
『……勝てると思うのか、あの化け物に』
「勝つ、勝たねばならぬ! その為の三千年だ!」
三千年以上にわたって己を練り上げた仙人は感じ取っていた。
自分の歩む先にあの怪物が待っていると。
未だに力を求め続ける、大罪人が存在していると。
「今の己に、敗北などあり得ん!」
憎悪に満ちた覇気を放ち、彼は何処までも前へ進んでいく。
緩やかな歩みは、しかし煮えたぎった憤怒を確かめるような歩みだった。
天地を己の物としたことを確信する彼は、国境など知らずに乗り越えていく。
その先にいる怪物が、自分の接近に気付いていると確信して。




