上郷村の話〜人が消える山〜
昔は道があったのだろう。鬱蒼とはしていたが、源三の通る道は軽く草がかかっているくらいで他よりも幾分かは歩き易かった。
山は穏やかであった。木々の間からは木漏れ日が射し込み、風で葉がきらきらと輝く。歩く道の近くに川があるのだろう。水の流れる涼しげな音が聞こえ、鳥たちも歌い舞い踊るのであった。
だが、そんな穏やかな山の中、源三の顔には明らかに恐怖の色が浮かんでいた。そのことに縁も気付いてはいたが、あえて言わずに二人は山の道を進んでいた。
「ここだ。だいたい村の奴が山菜を取りに来るときは、ここまで探しに来る。来る途中にも山菜が幾つかあっただろ?これだけ豊かだからな、ここまで取りに来れば、もう籠は山盛りになる。」
そこは少し拓けた場所であった。まるで庭のように平坦な光景が広がっている。ふと目をやれば蕨なども見える。なるほど、たしかにここに来るだけでも籠は満杯になるだろう。縁は納得したように軽く頷いて辺りを見渡す。
「実際に足を運んでも信じられませんね…こんなにも穏やかなのに、人が消えるのですから……源三様?」
「あ、あぁ…すまねぇ…どうもおっかなくてな……ガキの頃から知ってるからこそ、ここで何人も消えたと思うと…な…」
「……これを。飲めば少しは落ち着きますよ。」
縁の手には竹の水筒が握られていた。源三はすまんと告げると水筒を受け取り、二、三度傾けては喉を潤した。
「ふむ……源三さん。私がこれから姿を消したら、その間荷物の方をお願いできますか?あと、消えた人の名前…誰か一人でいいので教えてください。」
源三が噴き出し咳き込む
「き、消えるってあんた!」
「大丈夫です。私の場合は自分から入るので、他の人みたいに帰れないということはありません。それに帰って来ないと、源三さんが嫌な思いをしますからね。」
意地悪そうに微笑みながら縁は源三を見る。先ほどの水筒の中身のせいなのか、目の前の女の涼しげな笑みのせいか、源三は何故か落ち着き始めていた
「……必ず戻って来るな…?」
「ええ、必ず」
「違えるなよ?」
「勿論」
「そうか……。名前だったな…ユウカ…俺の…女房だ。」
「…すみません……ありがとうございます」
「なぁ…あいつは…消えちまった奴らは…生きてるのか…?」
「さぁ…行ってみないことには…」
「そう…だよな……すまねえ…分からねえよな…そりゃそうだ…」
「………」
源三の顔には普段からは想像もできないような悲しげな表情があった。その表情からは妻の帰りを信じようとする思いと、もしかしたらもうという想像、そして妻を失った痛みが強く読み取れた。