77 帰りたい気持ち
両親が離婚するまえ。
彼らが延々と口論してたのをずっと聞いてた。
台詞を一言一句覚えてる。
家族を愛してるなんて、嘘だったのね。嘘つき。
そんなことない、そんなことはないよ。
言い訳ばっかり。ならどうして全部だいなしにするのよ。
愛してるよ、家族が大事だった。でも無理なんだ。
また逃げるつもりなのね。
また……。
僕は無意識のうちにぎゅっと拳を握っていた。
帰るのか? ここで? こんなところで? ホントに?
疑問がうずを巻いている。
当然、帰らない理由はない。ここにいれば紅華の言うなりだし、魔法を使えば使うほど酷い目に遭い、傷を負う。魔法を使わないようにしたいけど、そんな意志とは裏腹にオルドルに頼らなければいけない場面に追い込まれていくんだ。
でも、それって、逃げてるだけじゃないのかな……?
父親が、僕を捨てたみたいに……?
そのことと今ここで起きてることは、理性では関係ない、と思う。
でも、僕はじっとりと汗をかいている。
見えない風が僕を押していた。その風は段々と強くなり、抵抗しようにもしきれない強さになっていた。
このままじっとしていたら、問答無用に連れ帰られてしまう。
そして僕は、もとの世界へ……帰りたい。本当に本当だ。
「オルドル、手を貸して」
『なーに?』
「扉を閉じる」
オルドルが笑った気がした。
集中する。
魔法使いの地図を見るように、目を瞑る。
記憶から、扉を再構築する。
たぶん、オルドルに助けられてクヨウ捜査官の魔術を《見た》ときも、こんなやり方だったんだと思う。僕はオルドルのやり方で、現実ではなく魔術の世界を垣間見ているんだ。
体を押してるのは風でも白い光でもない。
金色の、無数の腕だ。
やっぱり……アイリーンの魔法に似てる。
『上手上手♪』
オルドルが、うしろから、僕の両手を取る感覚がする。
『これはね、大きさのわりに構造は単純。こっちが左の扉、こっちが右の扉』
僕の両手を前に押し出す。
『ハイ、閉じる!』
目の前にあるのは光だけだが、掌を押し返す冷たい石の感触があった。
重たい扉のはずなのに、薄い合板の扉みたいに簡単にばたりと閉じた。一瞬、風が強く吹き込んだけど、それだけだ。
目を開けるとそこにはただ大きな扉があるだけだった。
光は消えて、僕は直立して立っているだけ。オルドルもいない。指はおろか、両手を上げた形跡もない。
僕の髪の毛を引き抜いて、オルドルが去っていく。
紅華が狼狽えていた。
「どうして……? 正しい方法で扉を開けたのに」
「ごめん。僕がオルドルに頼んで、閉じてもらった」
でも、扉は閉められても、僕は天律魔法を使えないから、開けられない。
おまけに、ひどく後悔していた。
もう戻れない。
帰れないんだってことに。
僕は必死に帰らなかった理由を探してた。
「ごめん、でもマスター・カガチの伝言をまだイブキに伝えてないし、天藍にもひとこと言ってやらないといけないし、百合白さんにさよならもしてない。それに、ウファーリを学院に戻してやらなきゃ」
全部、言い訳みたいに聞こえた。
むしろ、僕が素直に帰らなかったことを責める紅華のほうが必死だった。
「そんなこと、すぐに忘れられる。今は心残りでも時間が経てば、ああ、そんなこともあったって……なんでもないって、夢のようなものだと思えるようになる! わたくしのことを憎んでいるのだろう!? 体の痛みを覚えているはずじゃないのか!?」
そうだ。
紅華がしたこと、リブラにさせたことは忘れられない。
でも彼女が自らそのことを口にした瞬間、気がついた。
「だからなのか……?」
紅華ははっとした表情を浮かべて自分の掌で口元を覆った。
「自分のことを憎ませるために、わざと僕を痛めつけたのか……? 僕が、怒って、自分から元の世界に戻ろうとするように」
失言に気がついた彼女は口元を覆ったまま後ずさった。
「どうなんだよ、答えろよ!」
僕は駆け寄って、顔を覆っている腕を乱暴にはぐ。
折れそうなほど細い手首。
か弱い力では抵抗も無駄だった。
腕の下には、苦し気にゆがむ少女の顔があった。
「それは……答えられない……」
喉の奥から絞りだすような声音だった。
紅華は僕から必死に目を逸らそうとしている。
何かを隠してる。
大事なことだ。
「本当のことが話せないのは、誰かが紅華……お前に口止めさせてるからなのか……!?」
「わたくしからは話せない。許せ」
紅華は必死に歯を食いしばり、まぶたをぎゅっと瞑って耐えている。
彼女は、最初から僕をもとの世界に戻すつもりだったんだ。
これはきっと、正しい推測だ。
でなければ、飛竜の餌になる危険をおかして、たったひとりで、図書館に走ってくる理由がない。でも、彼女は本当の気持ちを誰にも言うなと口止めされている。
いったい、誰に?
もしかすると、王姫という立場がそうさせているのかもしれないが……。
「許して……」
紅華の瞳から、涙がこぼれた。
透明な涙の粒が、赤い瞳を離れて眼窩をこぼれ落ち、白い頬をつたい、顎を流れて、粒になって落ちていった。
強気で、男勝りで、邪悪で……僕が知ってる紅華は、ここにはいない。
僕は、震える肩に迂闊に伸ばしかけた手を引っ込める。
紅華を励ます資格があるように思えないからだ。彼女が本当は何を考えてるのか少しわかったような気がするけど、まだまだ遠い。
「ツバキ、王姫という立場の私ですら、ときどきすべての役目を投げ出したくなる。それなのに無関係な君が背負わなければいけないものなど、この国には何もない……」
「それでも、行けない。帰れないよ」
後悔はすごくしてる。
でも、ここであったことを忘れられない。
だから、これでいいんだ。
これは僕が選んだことで、誰のせいでもない。
僕のせいでも、紅華のせいでも、家族のせいでもない。
僕は自分自身に、必死に言い聞かせていた。




