75 疾走
避難する市民の受け入れで混乱している市境を抜けるのはひどく簡単だった。
海市では、黒曜が言っていたように断続的な攻撃が続いてる。
飛竜の影はまだ遠くのビルの向こうだが、市街地に入れば絶対に避けては通れないだろうってくらいの数が空を舞っていた。
やっぱり、陸軍の攻撃では数を減らせていない。
殲滅のための有効な手段は、黒曜のほうでもわからないと言っていた。
でも僕と彼にだけはわかる。
このまま魔法の力で無限に竜を生み出し続けるわけにはいかないだろうってことは。
それとも《代償》が小さくて済み、もうとっくの昔に支払いを済ませているんだとしたら……?
登場人物と一体になるというのは、どういうことなんだろう。
ありえないことだけど、もしも僕とオルドルがひとつになるとしたら。
僕も、僕を殺した者を憎悪し、人間を食らうバケモノになるってことだろうか。
『で、どうするのさ』
現在、僕はひとりきり。
天藍もいない、ウファーリもいない。誰にも頼れない状況だ。
「……あの飛竜たちと真っ向からやりあって目的を達成する力は僕にはない。そして軍とはち合わせするのも避けたい」
誤射されたらたまらないし、ミサイルや爆薬での破壊に等しい惨状をもたらす軍用魔術とやらに巻き込まれるのはもっと御免だ。
「というわけで、オルドルさん。野生動物の嗜みとして、スニーキングについてご教示お願いいたします」
茂みに隠れながら、僕は水の入った硝子瓶に平身低頭頼み込んだ。
『結局ボク頼みかよっ!』
鹿に突っ込まれた。
しかも思いっきり……鹿だけに。
だがもはや僕にプライドなどというものは存在しない。
自慢ではないが頼れるものはなんでも頼る。
「このまま無策に突っ込んでいって、僕が死んじゃったら、お前も困るんじゃないの?」
『そしたら、もっと頭がよくてできれば魔術の才能がある読み手を待つだけだケド……まあでも、青海文書の登場人物としては協力しないこともない。髪の毛か、爪の先をよこせ』
頭から抜き取った毛は、どことも知れない空間に消えて行った。
「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」
小声で呪文を唱えると、ぐらり、と頭が揺れて、僕はアスファルトに膝を突いた。
吐き気をじっと堪えながら、揺らぎが去るのを待つ。
気分は悪いが、頭はむしろ冴えていた。
頭……というか、五感かな? 匂いや視覚、聴覚がいつもより鋭くなってる。
『地面に耳をつけてみなよ』
僕は言われる通りにした。地面に寝るなんて最悪だけど、僕は素直ないいやつなんだ。
微かな振動から、いろんな情報が伝わってくる。
車輛が動く音。人の足音。話し声のかすかなさざめき、飛竜の羽の羽ばたきまでどんな小さな音だって聞こえるし……さっきから遠いはずの死臭や、火薬の臭いがして吐きそうなほどだった。
「これ、お前の感覚なのか」
血の臭いって、凄く気持ちが悪い。鉄とか、金属の臭いもだ。
『目を瞑って』
僕は目蓋を閉じる。
オルドルは現実をシャットアウトした僕の脳内世界に、五感と記憶から得た情報によって再構築された《現実世界》を広げていった。
「うわ……」
気がつくと、僕は海市の世界を鳥の目線でみていた。
陸軍の配置も、飛竜が集まっている場所も、避難所のあるところもはっきりわかる。航空写真をリアルタイムで見てるみたいだ。
風が僕の頬に吹き付ける感覚がしてぎょっとした。
手触りまであるなんて……妄想やただの記憶とは思えない。
オルドルが右手を広げると、世界の果ては無限に広がっていく。
『キミが感じて、ボクが再構築した、かぎりなく現実に近い非現実世界。魔法使いの現実さ』
隣をみるとオルドルが立っている。
相変わらず僕と同じ顔で、僕の髪の毛を咥えてる。
少し、目の色が赤いかな。紅華よりも暗い褐色の赤だ。
「水を使わなくてもいいんだな」
『これはボクに本来備わってる能力だからね……。水を媒介にするのは、あくまでもエネルギーが足りないときだヨ。もっとも……』
オルドルは必要に応じて水の力を借りる術を持っている。
そういう力を秘めた魔術書を持っているからだ。
だが、それは本来のオルドルに備わっている性質とは異なるため、無駄も多くたくさんの代償を必要としてしまう。
『ちなみにこの光景を共有できるのはボクとキミが特別な関係下にあるからであって、あとは完全に同一化してしまった登場人物くらいにしか不可能な魔術だと推察しとく』
「……よし、これならなるべく安全に、紅華を探せるな」
意外と使える魔術があるじゃないか。
僕は意気揚々と市街地へと繰り出した。
~~~~~
物陰に隠れながら、僕は街を走った。
少しでも暇があれば、目も鼻も総動員で竜の姿を探す。
頭の中の魔法使いの地図は刻々と形状をかえていく。
わずかなズレが致命的なミスに変わってしまう。
地図を参照して、時折立ち止まって飛竜をやり過ごし、また路地へと駆けこむ。臭いなのか視覚なのか、飛竜がどうやって人を感知しているのかはわからないが、どれくらい近づけば反応するのかは段々掴めてきた。
『あのさ~、いざ、何も起こらないとつまらないんだけど……?』
オルドルが寂しそうにいう。
そんなの、知ったことではない。
僕は逆にスキップできそうなくらい身も心も軽快だった。
「こういうゲーム、友達の家でよくやったから得意なんだよね」
西側から二体近づいている。あと数十秒で気づかれてしまうだろう。
でも、僕は慌てず閉じた商店の裏口のガラス窓を杖で破り、鍵を開けてその中に逃げ込んだ。
パン屋みたいだ。暗いけど、オルドルのおかげで闇の中でも見える。
戸棚を倒し入口を塞ぐ。
息を殺してしばらくすると、飛竜が去って行くのを感じた。
思いっきり、息を吸い、吐く。
「さて、これからどうしようかな」
街には紅華はおろか、人っ子ひとりいない。魔法使いの地図にも引っかからない。
紅華が翡翠宮からいなくなった、という話を信じるとして。
彼女が僕を心配して海市に出て来たなんて、やっぱり眉唾ものもいいところの、途方もない大ウソなんじゃないかって気がしてきた。
『あるいは、向こうは追跡を躱す術を使ってるかもしれないな。何しろデナクがみつけられないんだから』
「もしもだけど……たとえばだけど、魔法で、竜には聞こえないような信号を出せないの?」
『竜の感覚器官に引っかからずに? 次は骨をもらうよ』
「無理か……」
僕は目を閉じて全身から力を抜き、地図に集中する。
出現した竜たちは海市のあちこちに散っている。
そんな中、かなり至近距離に竜が集中している場所をみつけた。
足音を殺して、店の表のほうへと向かう。
窓にそっと近寄り、ピンク色のカーテンをめくる。
瓦礫の山がある。
「ここ、図書館の目の前だ……」
ずいぶん目的地の近くまで来ていたみたいだ。
道理で竜の数が多いと思った。
しかし、あの場所まで行くのは自殺行為に近いな。
引き返そう……。
踵を返しかけたとき、音が聞こえた。
りーん。
まさか、と思った。でも、そのまさかだ。
次はもっとはっきりと聞こえた。鈴の音だ。
カーテンを押し上げて、夜闇に目を凝らす。
瓦礫の近くに踊る影が見えた。
踊ってる……んじゃ、無い。
「人!?」
竜に襲われて、逃げようとしてるんだ。
体が震えるのがわかった。
怖い。でも動け。
僕は意を決して、店の外に出た。
月あかりに照らされて、その人物の顔が見えた。
紅色の瞳も。
紅華だ。
「ツバキ! こっちだ!」
彼女はたくさんの飛竜に囲まれながら、叫んだり、喚いたりせず、まっすぐ僕に手を伸ばしてそう言った。
月明りの下、汗と血を散らしながら――。
「来い!!」
僕は力強過ぎる言葉に引っ張られ、そちらに走る。
僕の手を、彼女が掴む。百合白さんとは違う、まるで氷みたいにひどく冷たい手だった。
「《ここは女王のあるところ、絶対不可侵の王城なり》!」
紅華が鈴を振る。
鈴の音とともに目には見えない魔法の波動が広がり、食らいつこうとしていた何匹かを弾いた。
それでも追いすがる竜に、僕が振り回した金杖がクリーンヒット。
「行くぞっ!」
彼女は瓦礫の山の端――地下室が露出した部分に、みずから飛び込んで行った。
僕の手を掴んだまま。
「何メートルあったっけ!? この穴! うわああああっ!」
情けない悲鳴を上げながら、僕と彼女は地下室の底へと落ちた。
いや、情けない悲鳴を上げていたのは、僕だけだ。
「いてて……」
目を開けると、そこは。
「……あ?」
僕と紅華は、地下室にいた。
地下室の天井にあいた大穴に飛び込んだから当然なんだけど、そうじゃない。そこは僕が紅華たちと初めてきたときの、あの地下室だ。
瓦礫もない。天井の大穴もない。竜によって破壊されたところなど、何ひとつない図書館の地下。
「青海文書と同じ効果だ。書が戻れば、ここはいかなる攻撃も受け付けない、受けたとしても何度も修復する魔法の領域となる。文書の力が守るんだ」
紅華は冷静にそう言った。
「立てるか?」
「それって……僕の台詞じゃないかな」
紅華はドレスじゃなくて、赤いチェックのスカート姿だった。
それも、あちこちケガだらけで服はボロボロだった。
白い肌が深く切れて、血を流している。
ここまで彼女はひとりで走ってきたんだろう。
僕が天藍やイブキ、イネスの助けを借りている間、誰にも守られることなく、たったひとりで。
「血が出てるじゃないか。なんでこんなところにひとりで来たんだよ!」
「お前に会うためだ」と彼女は言った。
「僕に?」
「もちろんこれが女王国の危機であることも、危険も、すべて承知の上だ」
彼女は怪我の痛みに、眉をしかめた。
どうして。
わからない、紅華が何を考えているのか。
彼女は白い手を伸ばし、僕の服を掴んだ。
「ツバキ、お願い。わたくしと一緒に来て」
その表情はいつもみたいに有無を言わせない、毅然とした女王の態度ではない。
僕の瞳にうつってるのは苦難の前にただなす術なく傷ついている、ひとりの女の子だった。




