71 戦いの洗礼
揺れは、地震とは少し違っていた。
激しく揺れた後、止まる。
空がみるみるうちに紅く染まり、僕の頭にアリスとイブキから教えてもらった知識が駆け巡った。
大気に濃い魔力が満ちてる。この血錆に似た、吐き気を催すにおい。
竜だ。
竜の魔力が空に満ちて赤く染め上げ、昼が消えて夜も消える。
警戒の鐘が鳴る。
鐘は二百年前に海市のあちこちに設置されたもので、竜の出現を知らせ、竜鱗騎士を呼ぶためのもの――と言われているが、実際に使われたことはない。
それが鳴っている。
しかも、間近で、複数だ。
間髪入れず、カフスから警告音。
竜の出現と出現箇所が表示される。
「これは――――!?」
魔法学院、市民図書館、貧民街、翡翠島。
「相変わらず、結界には何の反応もないな。先に行く」
天藍は溜息混じりに言い、結晶の翼を生やして飛び上る。
僕は戸惑いながらも、その後を追う。
次第に悲鳴が聞こえてきた。
逃げてくる生徒たちで上手く進めないが、やっとのことで辿りつく。
僕が自己紹介をしかけて乱闘になったあの中庭だ。
「っ!?」
異常な状態だった。地面には大穴が空いていた。
人の血のにおい。
泣き声。
それから、それから。
僕が実際に目にしたのより、少し……いや大分小型の竜。銀色の飛竜。
体長は1メートルから1メートル半ってところか。
口は長くとがっていて嘴のよう、後ろ脚が鉤爪のように邪悪に発達してる。
それが、十……二十……ざっと数えて百はいる。飛び回っている。
中庭にはかなりの生徒が残っていた。
怖くて足が動かないのか、みんな釘づけだ。
地面には逃げ遅れ、負傷した生徒がちらほら倒れていた。
「動かない……死んでるのか……?」
僕の声は震えていた。
なんで、いまさら。
地揺れは収まったのに、両手が揺れてて、止められない。
『ビビってるのぉ~~~?』
オルドルが嗤った。
そうだ。
ビビってる。
全然体が動かない。
怪我してる人を助けなくちゃいけない。わかってるけど、体が動かない。
義務では、生存本能が全力で踏みこむブレーキを解除できないんだ。
ぎいっぎいっと錆びついた機械のような不気味な鳴き声を立てながら、地面に倒れてる男子生徒に飛竜がのしかかり、喉笛を噛み切ろうとしてる。
「やめ、やめろおっ!」
何も考えず飛び出した。
杖をバットみたいに握り、横殴りに殴りつける。
金属を打ちつけたような、鈍痛。痺れ。飛竜はごくわずかによろめいたが、わかる。
手応えが全くない。
これ、全然ダメージになってない!
飛竜は強靭な後ろ脚で地面を蹴って飛びかかってくる。
「うわっ!!」
『ちょっとぉ、落っことさないでよ、ボクの杖』
杖に食らいついた飛竜が離れなかった。
頑丈そうな牙が丸見え大サービスだ。
くそっ。
そのとき、白い旋風が駆け抜けていった。
杖に食らいついていた竜が真ん中から分断されて地面に落ちた。
「遅いぞ天藍っ」
嬉しそうな声が出てしまったのはピンチにつき見逃して頂きたい。
「カガチ先生を呼んでいた」
天藍は翼を生やしたまま地面を滑るように駆け、逆手に握った短剣で続け様に二体を葬る。
死の女神の横顔が、わずかに曇る。
「あ……」
次の飛竜の牙が天藍の剣を叩き折っていった。
真ん中からふたつに割れた刃は、白い髪を払いながら、後ろに飛んでいく。
こんなに小さな竜なのに、武器が保たないなんて。
「いやあっ、助けてえっ!」
悲鳴につられてそちらを見ると、窓を破って教室に入った竜が女子生徒の腕に食らいつき、三階の窓から引きずり落とそうとしている真っ最中だった。
「《昔々、ここは偉大な魔法の国》!」
やみくもに唱えた呪文に、オルドルが応える。
『まあいいよ――なにしろボクはキミ、キミはボクなんだから。代金は頂くけどネ♪』
「《森の最奥に住むは半身が鹿、半身が人の異形の主》っ!」
僕は走る。
体が軽い。内臓のかわりに空気が詰まっているみたいだ。
軽く、足が、地面を離れる。
凄まじい跳躍だ。鹿っていうより……カモシカ?
「届けっ……」
一階の窓枠に足をかけ、体をひねって、さらに跳ぶ。
竜に咥えられ、引きずり出された女子生徒の体を掴む。
「《触れるな、下郎!》」
僕の口から、僕ではない、オルドルの言葉が吐き出される。
たぶん生物的な本能みたいなもので、野生動物の上下関係を悟ったのだろう怯んだ竜を思いっきり蹴り飛ばす。
女の子を両腕に抱えたまま、地面に落ちた。
ふわり、みたいな効果はない。オルドルは鳥ではなく鹿だから。
ジンジンする痛みをじっと堪える。
「大丈夫?」
ショートカットの女の子は、腕に深い噛み痕をつけて制服に血が滲んでいた。
頭に鋭い痛み。
「いてっ……」
オルドルが髪の毛を二、三本持ってったみたいだ。
ハゲたらどうするんだよ。ハゲたら。
「ヒナガ! 来るぞ!」
振り向くと、三匹の竜が弾丸みたいな速度でこっちに向かっていた。
「嘘っ!?」
少女を抱えたまま肉食獣に追われる草食獣の気分で地面を跳ね、屋根に登り、みっともなく逃げ回る。
たぶん、みんな呆れているだろうけど背に腹は代えられない。
「ヤメテッ! 僕なんか食べても美味しくないよっ!! わッ」
靴の裏が柔らかいモノを踏む。土の感触。
ここ、渡り廊下の屋根の上だけど。
見ると、足元からよくわからない植物が生えまくっている。
慌てて飛び退くとそれらが急成長。
僕たちと竜とを隔てるように、見上げるほどの大きさの――あ、これ、見たことある。
「食虫植物……?」
ハエトリソウの巨大なやつが追って来た飛竜に食らいつき、檻に閉じ込める。生い茂る巨大ウツボカズラに飛び込んでいったやつは、じゅっと音を立てて煙になった。
中を覗きたい気持ちは皆無だ。
「何こいつら、気持ち悪い……」
「いやあ、私の竜は少々厄介な能力でしてな。無事ですかな、ヒナガ先生」
校舎の屋根から、大きな体が降りてくる。
「少し掃除をしてきます」
カガチは両腰の剣を抜くと、地上に降りていった。
なんでもないような表情、体のどこにも力の入っていない……脅えのない仕種で。
そこからは、あっという間だった。
カガチが剣を振るえば飛竜は断ち切られ、天藍が竜化させた腕で力ずくで潰していく。
空を舞う二頭の竜により、さっきまでこいつらに蹂躙されていた地上は竜の死体の山になっていた。
「凄い……」
逃げ遅れた生徒たちにもさっきまでの悲壮さはない。
カガチと天藍。ふたりの騎士が、彼らに与えているのは安全だけじゃない。
希望だ。
一旦、戦闘を終えてカガチが降りてくる。
「避難所へ! 市内に出された警報は未だ解かれていない! 動ける者は動けない者に手を貸せ、はやく!」
マスター・カガチの号令に打たれたように、動けなくなっていた生徒たちも避難をはじめる。
誘導しているのは竜鱗学科の生徒たちだ。
「マスター・カガチ!」
「偉大な師に!」
そう声をかけながら、生徒たちが友人どうし手を取り逃げていく。
「マスター・ヒナガ!」
女の子の声がした。
「助けてくれて、ありがとうございました!」
お辞儀をされ、僕は力なく手を振り返す。
かわいい子にお礼を言われた嬉しさよりも、指先には恐怖が残っていた。
市警を訪ねたときと同じだ。
嬉しくなんかない、気が引けるだけだ。
マスター、と呼ばれる度に僕は苦しい。
誰かの希望を背負うには、だいぶ頼りない。
「ヒナガ先生も避難を、お早く」
カガチが鋭く言う。
その視線が、地面を睨みつけている。
僕も同じものを見た。
「おいおい、嘘だろ……」
切られ、地面に重なった飛竜の死体……と思っていたものが、突然、翼をはためかしたのだ。
周りの死体も次々に。
冗談じゃない、生き返っている。




