59 絶望の咢
「各市境には、竜探知のための《結界》が張られてます。翼の先でも引っかかれば、すぐさま駐留している竜鱗騎士に連絡が行くはず。特に強固な結界で覆われている天海市に、竜が侵入するなんて……!」
竜が咆哮する。
足下から突き抜ける大音響が空へと抜けていく。
体の上に乗っていた瓦礫が礫のようにはじけ、爆風とともに路地を駆け抜ける。
砕けた石畳は銃弾のように街灯を射抜き、あたりは暗闇に包まれた。
翼のはためきは暴風を起こし、突風を叩きつけてくる。
体が浮かび上がり、数メートル飛んで、背中から不格好に路地に着地した。
「うぐっ」
これほど、受け身を勉強しておけばよかったと思ったことはない。
腰に提げていた硝子の瓶が砕け、水が散った。
いくつか破片が刺さった気がする。
くらり、と視界が歪む。
竜はうなりを上げている。
凄まじい質量、凄まじい迫力だ。
「イネス……大丈夫……?」
体を起こすと、そこには転がったバイクがあるだけで、イネス・ハルマンの姿は無い。変なところに吹っ飛ばされたのだろうか。
それと、嫌な想像だけど……逃げた、とかいう可能性もある。それでなくとも彼の頭は、かつての上司の心配で占められているはず。僕を置いて親しい人の助けに向かうのは……腹立たしいが、仕方がないことだ。
吠え猛る竜は巨体を揺らしながら、地面を踏みしめている。
なんだかおかしな竜だった。
思わせぶりに地面の下から現れたと思いきや、まるでここにいるのが自分の意志ではないみたいに、まるで戸惑っているみたいに、爬虫類に似た首を左右に振っている。
「銀麗竜……? まさかな」
その体を覆うのは滑らかな銀の鱗だ。
流石に、異常を察知したのだろう。両側の窓の向こうで、住人たちが騒ぎ始めた。
うち一つの窓を開けて、男性が顔を出した。
その表情が、竜を目にして強張る。
「だめだ! 中に戻れっ!!」
言い終るか終わらないかのうちに。
ぐらるるるっ。
竜が長い尾を振り回した。
鱗に覆われた竜の尾は、建物の壁を破壊し砕き、崩壊させる。
砂埃が去ると、さっき窓があったところは瓦礫の山となり、住人の姿も見えなくなっていた。
標的を失った竜は、僕の方に瞳を向けた。
薄氷のような、薄青い瞳は僕の全身をさ迷って――気のせいか、腰のものに目を止めた気がする。オルドルの金色の杖だ。
逃げなくては。道の先は竜に塞がれている。
後ろを振り返り、駆けだすんだ。
そう思うが、できない。
竜の鋭い眼光に射すくめられ、気持ちはどうであれ、足が動かない。まるで金縛りみたいだ。恐怖のせいだろうか。
オルドルが語りかけてくる。路地にしみこんで、消えかけている水から、小さな声で。
『逃げちゃダメだよ。へたに距離をとって、息吹を吐かれたらキミは確実に死ぬよ』
「じゃあ、魔法を使ってくれ!」
『キミにはムリだ』
僕は杖を握りしめる。
でも、おかしい。
集中しても、青海文書の語り声が聞こえてこないのだ。
オルドルが溜息を吐いた。
『わからない? ボクとこうして、水を媒介にして話しているとき――キミはボクから遠いところにいる。自分とは会話できないからだ』
オルドルの言わんとするところはわかる。
この世界で、自分とだけは、会話することができない。
青海文書は登場人物と共感することで魔法を使うが、今の僕はオルドルと、全くの他人みたいなものだ。
なぜなら、僕は圧倒的な力を持つ竜に、心の底から恐怖しているからだ。
オルドルの抱える怒りや、憎悪を、あの竜に対して持つことができないんだ。
『……ボクにキミの体を渡せ』
「なに……?」
『屋上のときみたいに、キミのかわりにボクが戦う』
竜がゆっくりと歩きだす。あまりの重量に、地面が砕ける。
四足で移動するのは大変そうだが、一度翼をはためかせると、重たい図体が軽く浮かび上がった。そして滑るように移動してくる。
「くそっ」
僕は足をもつれさせながら、走り、最後は吹き飛ばされながら地面を転がって、避ける。
あっというまに数十メートルの距離を詰めてきた竜は、頑丈そうな咢で街頭にかみつき――ガムみたいに引き裂いて、それを吐き捨てた。
風に吹かれた空き缶みたいに、ガラガラと転がって行く街灯。
この状況全部がたちの悪い悪夢みたいだ。
「くそっ……」地面に擦れた掌から血が滲んでいた。
『選択の時が来たんだ、ツバキ』
オルドルに体を明け渡す……。
屋上で戦ったときみたいに。
八つ裂きにされたウファーリの画が、頭によぎる。
こぼれる血のにおい、あのどうしようもない感触。あれが幻でなかったら、僕は人を殺していた。
『ボクに体を預けろ、キミに竜は倒せない』
オルドルの声はどんどん小さくなっている。こぼれた水が、土に吸い込まれていっているからだ。会話できるのもあと少しだろう。
一刻の猶予もない。
でも。
「…………いや、だ………」
恐怖を押さえて、声を振り絞る。
『なんだって……?』
「それだけは、できない」
僕は目をぎゅっと閉じる。
竜の姿を見れば、恐れから別の決断を下してしまう。
僕の指が金杖から離れる。
『ハ! 最低だ。理由がどうあれ、自分で自分を諦めるなんて……そんな奴、ボクは大っキライだね……』
声が聞こえなくなる。
竜は目の前に迫っていた。
尖った鼻先が、手を伸ばせば触れられるくらいの位置にある。生臭い息が顔にかかる。
きっと、僕はここで死ぬ。
でも……間違った選択はしなかった。何の罪もない人を殺したりはしなかった。
なのに、体が震える。
どうしようもなく、怖い。
「先生ッ!」
上から、僕を呼ぶ声が聞こえた。
見上げると、高いアパートの屋上からイネスが見下ろしてくる。
イネスは何かを掴んでそこから飛び出し、空中に踊り出た。
彼が掴んでいるのは――――あれは、短槍だ。
おそらく、あのひどく重たかったケースの中身だ。
使い込まれた太めの柄に、無骨な三角形の刃。刃には細工があり、手前に装置が取りつけられているのがみえる。
装置には鈍い色をしたレバーがついていた。
「うらあああっ!!」
刃は落下の勢いのまま、鎌首をもたげた竜の頭部めがけて振り下ろされる。
切っ先が竜の鱗に当たり、硬質な音がする。刃は弾かれて傷一つつけられない。
イネスは竜の頭部からずり落ちながら、指を凹凸に引っかけて体勢を維持、短槍を短く持ち替えて片手でレバーを引く。
瞬間、槍の切っ先からオレンジの閃光が噴き出す。
「先生、ここは俺が受け持つ! 逃げてくれ!!!」
無理やり上体を捻り、刃を叩きつける。
槍は目蓋を貫通して眼球に食い込み、血が噴き出した
竜は痛みに悶えて激しく首を振る。
イネスは振り落とされないよう必死にしがみついている。短槍が深く食い込み過ぎていて、抜けないのだ。
「行ってくれ! これは俺の仕事だ!」
僕は愚かだった。イネスは逃げたわけじゃなかった。
竜に立ち向かおうとしていたんだ。
当然だ。竜を前にして背中をみせるような者が――鶴喰砦から、生きて帰って来れる道理が無い。見知らぬ他人を守って、命を賭けて戦えるわけがない。
「アルノルト邸はここから三ブロック先、玄関脇の窓に赤いランプが飾ってあるからすぐにわかる! ――――あッ」
イネスの体が、上下が反転する。
青年を振り落とそうとした竜が、体ごと横に倒れたのだ。
地面の上でもんどり打って、激しく回転する。遠心力によって、イネスの手は槍の柄から離れ、上下逆さまのまま背中から住宅の壁に思いっきり叩きつけられた。
衝撃で叩き割られた壁材と共に、イネスは地面に崩れ落ち、意識を失う。
「イネス……!」
全身から血の気が引く。
竜はイネスを無視し、再び僕の元に来た。
そして丸太のような前肢を振り上げた。
お手をして飼い主を叩き潰し……。
イネスの冗談めかした言葉がやけに思い出され、僕は再び顔の前を覆った。
しかし、その瞬間はやってこなかった。
おそるおそる目蓋を開く。
そこに、月光をそのまま人の形に固めたような光をはなつ、白い後ろ姿があった。
彼の足は、白い結晶の蓮座にふわりと舞い降りた。
蓮座からは美しい六枚羽が重なりあうように上空に伸び、竜の肢を支えていた。
「……いい夜だ。月が美しい」
そう、彼は呟いた。
彼は微笑んでいた。
柔らかく、実に幸福そうに。
すべての束縛から解放されて、ただ満たされている者の表情だった。




