3 出会い -1
あのとき引きちぎったページに書かれていることは、こうだ。
『師なるオルドル』
これは太字になっていて、章のタイトルのようだった。
『昔々』
『ここは偉大な魔法の国』
『魔法使いの王が住む都のそばに、銀の森がありました。
その森の木々や動物はすべて銀でできていて、最奥には半身が鹿、半身が人の異形の主、オルドルが暮らしていました。
この森には膨大な金銀財宝が眠っていましたが、王国の民はオルドルに敬意を払い、だれも近づきもしませんでした。
それというのも、オルドルの住まいには魔術師にとってもっとも大切な三冊の書が隠されており、オルドル自身も偉大な魔術師だと信じられていたからです。
彼の住まいのそばには魔法の泉がありました。
その泉こそ、異形の化け物の力の源なのです。
あるとき、オルドルはそこから赤ん坊を拾いました。
その赤ん坊こそ、後に王国を脅かす恐ろしい竜を、ただひとり倒すことのできる勇者となる子でした。
彼は赤ん坊を大事に育てました。
時がたち、若者となった赤ん坊は森を去りました。
そして竜を倒し、勇者となった若者は一度だけ森に帰りました。
ですが、そこに銀の森はありませんでした。
輝き、きらめいていた枝々には無数の死体が吊り下がっていたのです。
オルドルは、本当は人肉を食らう化け物だったのです。
勇者は剣によって彼を殺しました。
そして、偉大な三冊の魔法の書と、彼の魔法を手に入れたのです……。』
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僕は、走っている。
いくつものシャンデリアが下がる、壮麗な廊下だ。
両側が鏡張りになっていて息が切れ始めた自分の姿が見えた。
昼食会とやらは、紅水紅華と、その親族……つまり王族を集めたそれなりに重要なものらしかった。
主賓は先の十三代翡翠女王の妹、叔母にあたる女性で、彼女は女王国の領土の中でも重要な場所をまかされているとかいないとか。
控室でリブラはその主賓の女に捕まった。
隙を突いて抜け出すのはそう難しいことではなかった。
誤算がひとつだけあった。
……広すぎる。
翡翠女王の住まい、翡翠宮は、三か所に分かれている。
前庭、本宮、後宮だ。
前庭は貴族の屋敷がある。リブラの屋敷があるのもここだ。
そして本宮には女王府があり、後宮は女王の私的な空間にあたる。
全て含めると広大な土地になり、三か所を合わせて《天市》と呼ぶ。
馬車に乗っていた時間を考慮しても、リブラの屋敷のあるところからここまでは三キロ以上ある。
「どこだ! 探せ!」
遠くから、男たちの声と足音が聞こえてくる。
廊下を慌てて曲がる。
正面に、人影が見えた。
僕は手近な部屋の扉を開け、飛び込んだ。
「きゃっ……」
なにか、柔らかいものとぶつかった。
白くて、ふわふわで、砂糖菓子みたいに甘い匂いのする……。
それでいて、確かな弾力。
そして先ほど聞こえた、甲高い声。
「ごめんっ!」
慌てて飛び退く。
部屋は、白を基調とした広い部屋だった。
大きな窓から差し込む柔らかい光が、そこに立つ少女の輪郭を浮かび上がらせる。
ふんわりと、華奢な肩の下までなびくプラチナブロンドの髪や、薄桃色の頬。ガラス玉のように大きな、ピンク色の瞳。純白のミニドレスからすらりと伸びた脚……すべてが、ほのかに輝いている。
さっき、ぶつかったのはこの少女だ。
そしてあの柔らかい感触は……。
胸元の豊かなふくらみに視線がいく。
彼女は頬を染めて、さっと視線を床に落とした。
「あ、あのっ……」
弁解するより早く、背後の扉が大きな音で叩かれた。
「姫様、中を改めさせていただきます!」
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軍靴を履いた足が一通り、部屋を行ったり来たりしていた。
カチャカチャという硬質な音は、武器を所持しているに違いない。
息を殺していると、やがて、足音は遠ざかっていた。
「あの、出てきていいですよ」
声に誘われ、ソファの下から這い出す。
先ほどの少女は百合の紋様を編み込んだレースの上着を着て、こちらをしゃがみこんで覗き見ている。
「親衛隊の皆様には、何事もないと伝えておきました。これでしばらくは大丈夫です」
「さっきのことは……その、ごめん」
「気になさらないでください」
そう控え目に言って、頬を赤らめる。
「それよりも、その制服。魔法学院の先生……ですよね」
彼女が示した僕の服は、リブラが用意したものだった。
抜けるように鮮やかな、青いズボンと長い上着、濃い紺のタイと靴。それぞれに、金色の縁取りがある。カフスは赤褐色だ。
「こっちの教師には、制服なんてあるんだ」
服は僕の体にぴったりのサイズで、用意のよさに多少怪しいと思わなかったわけでもないが……。
本当に、教師にするつもりなんだ。
そして、その服が、たまたま彼女の信用を買ったのだということに気がついた。
「新任の先生なんですね。私も魔法学院の生徒で、普通科一年の星条百合白と申します」
「僕は日長椿」
握手を交わす。
「さっき、姫って言葉が聞こえたと思うんだけど……まさか、きみはその……」
「はい。私は十三代翡翠女王の一女、王姫殿下の姉にあたります」
こくり、と小さくうなずく。
こっちは、ごくり、と唾を飲みこんだ。
お姫様……かわいらしい容貌の彼女にぴったりだった。
追手をやり過ごせたのはいいが、一番まずいところに逃げ込んでしまった。
「しかし、先生はどうして妹の親衛隊の方々に追われていたのでしょう?」
そう、それだ。
それの答えがいけない。
僕は彼女の妹に逆らおうとしている。
優しげな微笑みを浮かべながら、首をかしげる姿は、フランス人形みたいに愛らしい。
惜しい出会いだが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
「いやあ、昼食会に出るつもりが迷っちゃって……入ってはいけないところまで来てしまったみたいだ。ごめんね、それじゃ!」
声が裏返ってるが大目にみてほしい。
踵をかえそうとしたところに、ぞっとする気配を感じる。
次の瞬間、僕はその場に凍りついた。
動けない。
というのも、僕の首筋に鋭い金属……刃物の感触が触れていたからだ。
「そのまえに、姫の御身体に下賤の手で触れたこと、その命をもって償ってもらう」
ぞっとするほど冷たい声がした。
首に突き付けられているのは、薄く白い刃。
刃というより、剣の長さだ。
切っ先はすぼまっておらず幅広、中華包丁に似た形をしている。
でも驚くほど切れ味がいいというのは、当てられただけで血の這う僕の首筋が証明してくれている。
その剣の柄を持つ死神は、これまたお伽話にでてきそうな美形だった。
プラチナ・ブロンドというより純白の髪。銀の鎧に髪と同じ色のマントをひるがえしていた。まるで、物語に登場する騎士のようだ。
切れ長の瞳や繊細な鼻梁、薄い唇……女性と見紛うほどの美貌は、嫉妬より圧倒が先に来る。
「おやめなさい、天藍。部屋を血で汚すつもりですか?」
天藍、と呼ばれた騎士はしばらくして剣を引いて鞘に戻した。
僕はとたんに膝の力がぬけ、座り込んでしまった。
いったい、何度死にかければ気がすむんだろう。
「失礼いたしました。こちらは天藍アオイ。私の竜鱗騎士で、悪気はないのです」
「姫様、恐れながら親衛隊に追われているこの者を信用してはなりません」
「ええ、そうですね。でも……私は、日長先生の話を聞きたいの。事情がおありのようですから……さあ、これで血を拭いてください」
ハンカチを受け取る。
その瞬間、背筋に冷たいものが這った。
天藍が、こちらを睨みつけている。
悪気はなくとも殺意はあったはずだ。
騎士の視線は僕を未だ許していなかった。