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竜鱗騎士と読書する魔術師  作者: 実里晶
師なるオルドル
39/137

33 透明な天秤

                ****


 少女は救護所のベッドの上で目覚めた。


 視界はぼんやりとおぼろげで、寝ても覚めても全身火傷の痛みが神経を苛み、苦しみはもはや彼女と切り離せない一部分になってしまった。

 彼女の包帯を交換し傷を消毒しに来た看護婦が、ここが《鶴喰砦》という場所だと教えてくれた。

 硬すぎるマットレス、竜族の追手との激しい戦闘音、次々に運び込まれてくる患者の呻き声、治療むなしく、あるいは手の施しようもなく処置もされないまま死んでいく患者……ここはありとあらゆる悪夢が現実となる場所だった。

「こいつを頼む!」

「医薬品が足りない!」

「早く俺を治療してくれ、仲間が待ってる!!」

「助かる見込みのある奴から連れて来い!」

「《治療(クラル)》!!」

 そんな怒声が飛び交っている。

 目が見えなくても、状況が悪化していることだけはわかる。

 市民は安全な場所に匿われているが、兵士たちは竜族の追撃を受け、命を盾にして仲間の死体を踏み越えるような決死の戦いを挑んでいた。

 中には、もう助かる見込みのない兵士は、爆薬を巻き付けて自殺攻撃をしかけるんだという人もいた。真偽は不明だが、救護所にいるのは生きているのか死んでいるのかわからないような人間ばかりで、この砦での攻防そのものが、自殺攻撃みたいなものなんじゃないか、と少女は冷めた感情で考えた。

 もしかしたら、母さんも運よく生き延びていて、この砦のどこかにいるんじゃないか……そんな都合のいい考えは、こんな状況下では途方もない奇跡でしかない。それでも、不意に、そのわずかな可能性が意識の表面に浮かび上がってくることを止めることはできなかった。

 絶望は波のようにやってくるのだ。

 親しい人が生きているかもしれない……もしかしたら……そう想像することも、人の心を砕く、寄せては返す白波だった。

 やがて、非戦闘員は別の部屋に移された。

 地下の部屋に戦火が届くことはなかったが、砲弾が行きかうたびに細かな振動で寝床が揺れ、軋む天井から埃が落ちた。

 運び込まれる兵士がいなくなり、そこは墓場のように静かで、重傷患者の呻き声だけが響く場所になった。


 だれか。

 だれか、助けてくれ……。


 ある晩のことだ。

 患者専用の部屋の扉をあけて、誰かが部屋に入ってきた。

 その誰かは、靴音を響かせながら歩き、ひとつひとつのベッドを覗きこんでは、立ち止まった。

 そして、ひとりの男のベッドのそばに座った。

 それは、少女のベッドからふたつかみっつしか離れていないところだった。

「お前は誰だ……?」

「医師ですよ。痛みは?」と、男性の声がした。

 思ったよりもずっと若い声だった。

 患者は何かを言いかけて、身じろぎして、訊ねた。


「あんた腕はいいのかい」


「とても」と静かに答えた。


 あんなに静かな声は、きいたことがない。

「悪いが……俺は、駄目だと思う。もう下半身の感覚がないんだ。こんな体で生き延びても、仕事もできやしない……。医薬品は、兵隊さんに使ってやってくれ」

「わかりました。では……今すぐに楽にしてあげましょう」

「ああ、頼む。痛いのかい」

「いいえ、まるで眠るようですよ。最後の言葉を伝えたい方は?」

「いや、天国で、自分から伝えるよ」

 医師は長杖を握り、反対の手でその患者の額に手をかざした。

 離れていても、暖かい光を感じた。

 患者は、その光を浴びると眠るように息を引き取った。

 彼の最期の、深い溜息のような吐息が漏れると、あちこちで、すすり泣きの声がきこえた。

 そこにいる全員が、自分たちの運命を悟ったのだ。

 それは少女も同じだ。

 彼はそのあとも、あちこちのベッドをまわって、患者と会話し、その最後を看取っていった。

 驚くべきことに、死を拒んだ者はほとんどいなかった。

 ある者は、家族に言伝を頼んだ。

 医師は必ず探し出して伝えると答えた。

 ある者は、最初の男と同じく無言を選んだ。

 自分の過去の話をする者もいた。

 医師はすべて記憶するといった。そして、これまで、同じように彼に託した人たちの名前をそらんじてみせた。

 患者は安心して亡くなった。

 少女は、ずっと震えていた。

 恐ろしかった。こんなにもたくさんの人が、究極の状況下で死を受け入れるということが、驚きでならなかった。

 彼が自分に気がつかず、見逃してくれることを必死に願った。

 死にたくない。

「悪魔……」

 老婆のしわがれた声が聞こえた。

 それは少女が思っていたこととピッタリ重なっていた。

「あなたが死を拒むなら、私は治療だけして帰ります」

「うそつき……命を集めてどうするの、死神め」

「お気づきでしたか……これは、私の家系に代々伝わる魔法です」

 医師の答えは、驚くべきものだった。

「皆さんの残りの命は、竜と戦い続けている勇敢な兵士たちに渡される。死者は名誉のある死を迎えるのです」

 若い医師は、これまでに、みずから志願した有志の市民と、戦えなくなった兵士たちから命を預かった、と言った。

 彼らの命を使ってまだ戦える兵士を治療し、あるいは魔術の覚えがあったり、戦闘能力の高い兵を死の淵から蘇生させているのだと。

 それは命を預けられる兵士たちにとっても、残酷な仕打ちだった。

 なんて恐ろしい、神をも恐れぬ所業だろう……。

 だが今、この砦で繰り返されている残酷な命のサイクルを止めれば、竜がなだれこみ皆殺しになってしまう。

 医師が隣のベッドにやってきたとき、少女は彼の姿を見ようと身じろぎした。

 隣の寝台は、少女と同じ年頃の女の子だった。

 視力はほとんどなかったが、なぜか、青年の手にした杖の形だけはよく見えた。


 それは水晶でできた、繊細な細工の天秤の形をしていた。


 彼女はまるで天啓でも受けたかのように、すべてを理解した。

 この世には、目には見えない透明な天秤がある。

 そして、命はその秤に乗っていて、常に重さを比べられている。

 命には、価値があって、いつもはあいまいにされている。

 誰にも見えないように、誰にもわからないように。

 でも、死の直前になると、どんな命でもその天秤にかけられてしまう。

 それでも生きたい、と彼女は願った。

 天秤がどちらに傾くにしても、生きたい。

 そして、許せないと思った。

 この医師のしたことも、竜も、その天秤を傾けている、はかり知れない何かも、何もかも。


 彼女は、未熟すぎた。

 あまりにも若すぎた。


 だからこそ、この世の理不尽なものたち、そのすべてを受け入れることができなかったのだ……。


         ****

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