2 魔法
傷の治療の間、この世界のことについて学んだ。
たとえば、翡翠女王国はその名のとおり歴代の《翡翠女王》によって統治される国だということ。
一昨年、病に斃れた第十三代翡翠女王には娘が二人いて、妹の名が紅水紅華だということ。
あの夜、瀕死の僕に《運命の女》だと名乗った少女のことだ。
なお、先代女王は帰らぬ身となっていることから、紅華はいずれ第十四代翡翠女王に即位することが決定してる。
もちろん、すべてを鵜呑みにしたわけではない。
すべてが何かのトリックで、これが悪質な誘拐事件だという線だって消えてはいない。
もし外に出られたら、この考えも変わるのかもしれないが……連れてこられてからずっと、外出は許されなかった。
僕はいま、恐ろしく広い屋敷の中庭で、朝食のテーブルについている。
目の前には深緑色のオムレツがある。
ソテーした野菜とともに白磁の皿にふっくらとしたオムレツが盛り付けられているのだが、その姿はまるで一陣の風ふく緑の丘。
あるいは岩肌を覆う苔の塊。
一番近いのがカビの生えたオムレツだ。
もしかして、ここの玉子料理の色は、これが一般的なのか?
絶望しかない。
「さて、それじゃ今日は何について教えようかな。諸外国との関係についてはもう少し深い話をしてもよさそうですが……」
リブラは、参考にする図書を開きながら深く思案している。
この屋敷は驚くべきことに、彼ひとりのものだ。
若くして庭付きの豪邸に住んでいるとは、医者ってすごい……それとも親の七光りのようなものか? 情報が入ってこないので、わからない。
僕の見える範囲には、リブラのほかに人はいない。
メイドとか、その手のものがいてもよさそうなのに……。
だから、この世界の情報は、すべてこの青年からもたらされたものだ。
「そろそろ肝心な話をしてくれないかな」
怪奇食物の経口摂取を諦め、ナイフとフォークを置いた。
リブラは怪訝そうな顔をする。
「僕を魔法学院の教師にするって話だよ」
「……それは、君が自分の魔法をマスターしてからにしましょう」
先に食事をしましょう、と促される。
「食事なんかしなくても、魔法で栄養摂取できるんじゃないの?」
「けれど長く続ければ必然、胃腸が弱ります。それに食事から摂取したほうが効率のいい栄養素も山のようにあります。健康は日々、地道な一歩から」
「僕にも明日があるならな」
卵を切り分けて口に運ぶと、口の中にじんわりと苦みが広がった。
ガマンして飲み下しながら、膝の上に置いた本に視線を落とす。
文庫本より一回りサイズの大きな本だ。
表紙を開くと、ページは分厚くて、本というよりアルバムに近い。
透明なプラスチック……みたいなものに紙片が挟まれて、綴じられている。
紙は文庫本の中身だった。それぞれが血に汚れている。
これは僕が殺される前に読んでいたあの本のページだ。
確か《青空の国の物語》とかいうアホなタイトルの本。
僕は、これを渡されたときのことを思い出していた。
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翡翠女王国には、主に二つの魔法がある。
一つは|《竜鱗魔術》(りゅうりんまじゅつ)、もう一つが|《天律魔法》(てんりつまほう)。
竜鱗魔術は竜にまつわるモノで、魔法といえば、ほとんどが《竜鱗魔術》のことを指す。
次に《天律魔法》。
これは特殊なもので、翡翠女王のみにしか使うことが許されないのだそうだ。女王が不在のときは、直系の子孫のみが使える。
そして、公に許されている魔法は、この二つしかない。
では、リブラが使った医療魔術はどうなるのか?
結論からいうと、それは制限され、管理された魔法だ。
女王国では、竜鱗魔術以外に魔法の使用は許可されていない。
だが医療分野を筆頭に、大規模な土木事業、軍事など、魔法の力が《絶対に不可欠》だと判断されるケースはごまんとある。
その場合には資格試験の通過者にのみ魔法のごく一部の使用が認められるのだ。
つまり、リブラはそもそも医師としての適正な資格を持ち、さらにその上で魔法を使うことが認められている人物ということになる。
ただ、その魔法は医療に関する事柄のみに限定されていて、本来の万能さからはほど遠い。
このように統制された魔法が《魔術》だった。
そして、そもそも魔法をどうやって制限するのかというと、そこで出番になるのが天律魔法だ。
女王はこの魔法によって、民に《杖》を与える。
杖は使用者の使う魔法を補助するためではなく、使えなくする装置なのだ。
リブラは自らの《天秤の杖》を見せながら、そう説明した。
紅水紅華と初めて会った、その翌日のことだ。
「現在では、国民は誕生と同時に《杖》を与えられます。《災厄の日々》が訪れる前までは国民のすべてが自由に魔法を使えたらしいですけどね」
女王国が魔法を制限を課すのは、規律を守るためだ。
人間が人間に《法律》というルールを課すのと同じ。
実際、百年前には、人々は《天律魔法》に拘束されることなく自由に魔法を使っていたが、やがて国民がみんな労働を放棄して自堕落になったり、妙な魔物が跋扈したり、犯罪や、原因不明の大量殺りく事件が広がったりして、治安が相当に乱れた。
このときのことは《災厄の日々》とか《大災禍》と呼ばれている。
「あいにく、僕は竜鱗魔術も天律魔法も知らない。他人に教えられるとは思えないけど……」
「ヒナガ・ツバキ。君には杖はいらないし、竜鱗魔術も必要ありません」
リブラは真剣な表情で、あの《本》の切れ端を僕に渡した。
中古で買った、くだらない小説だ。
「それは|《青海文書》(せいかいもんじょ)と呼ばれているもの。第三の魔法です」
「第三の魔法……?」
「これ以上は教えられません。ですが、あなたにはこれを習得してもらわなくてはならない。期限は一週間」
「一週間!?」
短すぎる。
十数年を魔法のマの字も知らずに生きてきたのに、一週間で覚えろというのは無茶すぎだ。
「もし……できなければ……?」
おそるおそる訊ねた僕に、リブラは冷たく言い放った。
「君を殺す」
感情のない瞳だった。
「安心してください。痛みは感じませんし、一瞬で終わります。それが医師として、君にできる最善だと思ってください」
いよいよ状況が悪くなってきた。
異世界ってこんなに理不尽で厳しいものだったっけ?
「昨日のことといい、あんた医者なんだろ……。よく、そんなひどいことができるな」
そう言うと、リブラはほんの少しだけ表情を曇らせた。
「君の怒りはよくわかります。到底、許されることではありません。ですから、許しは請いません」
若き青年医師の横顔には、はっきりと良心の痛みがあった。
薄々、わかっていた。
リブラは紅水紅華の侍医。どんな関係かはよくわからないが、彼に命令を下しているのは、紅華だ。
彼女は次期女王。
命令には逆らえない。
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『本の内容について、よく理解すること』
それがコツだと、リブラは言った。
杖はいらない。
第三の魔法。
だが、魔法についての詳しい情報について、リブラは口止めされているのか、何度訊ねても話さなかった。
期限の日は、今日だ。
何も教えてもらえないのだ。当然のことながら、魔法が使えるようになった気配はしない。
不安のせいか、味のせいか、おそらく両方のせいで食事も喉を通らない。
靴音がした。
はっと顔を上げる。
この屋敷で、第三者の存在を感じたのははじめてだった。
視界の端に帽子をかぶり、胸に真紅の羽飾りをつけた中年の男が立っている。
「リブラ様、日長様。昼食会の招待状をお持ちいたしました」
この屋敷にリブラ以外の人物がいるのを見たのは初めてだった。
「王宮からの使者だ」
つぶやいたリブラの表情は、なぜか、やけに暗い。
暗いというか、白い。
まるで怯えているみたいだ。
「どうしたの?」
訊ねると、その表情を隠すように背を向けた。
「王宮に行くとなると……その恰好では無理ですね。相応しい服を用意します。少し待っていてください」
足早に去っていく。
なんだか少しだけ、嫌な予感がした。
これ以上、悪くなることがあるとは思えないのだが。
しかし、屋敷の外に出るのなら、これはチャンスだった。
もちろん、逃げ出すためのだ。