115 想いと絶望の遊戯
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珍しい嵐が吹き荒れていた。
雷の音が悲鳴をかき消して、奉仕院に集まった人々の関心は、雨脚にばかり向いていて異常な物音に気がつかない。
「――それ、このあと、どうするつもりなの?」
小鳥の囀りのような美しい声が、短く訊ねる。
それ、どうするつもり――言葉を投げかけられた少女は、血の気の失せた顔を扉のほうへと向けた。
乱れた金色の髪が震える肩から落ちる。
マリヤはそこに、星条百合白が立っているのを目にした。稲光が逆光になり、その表情は見えず、甘い花の香りだけが存在を知らせるのだ。
「もしかして、なにも考えていなかった?」
この世の誰よりも可憐で、ありとあらゆる女性よりも高貴であることを定められた少女は、素早く、後ろ手で扉を閉めた。
そして、容赦なく……部屋の中央に横たわり、ぐったりとしている看護師のそばに屈み、辛うじて息があるのを確認する。
見られた。
もしも彼女が一般人なら、口封じのために殺してしまえばいい。
だが、彼女だけにはその手が使えない。
なぜなら、彼女は星条百合白だから。
王女だからだ。
だから、マリヤはその光景を震えて見ているしかなかった。
はじめて人を殺した恐怖が、彼女の覚悟を揺るがしていた。こうするしかなかったはずなのに、大量の出血と物言わぬ死者が、そうではない選択肢もあったはずだと訴えかけてくる。
「ち……違うのよ。はじめは説得しようとして、でも聞いてくれなくて、それで……!」
「説得。あなたにしては無意味なことをしようとしたものです」
「………………え?」
跳ねた血に気をつけながら、百合白は空いた寝台に腰かける。
「だってそうでしょう、《説得》してその人の何が変わるのかしら。ヒトはしょせん己の利益のためにしか行動しないし、言葉の羅列そのものにはなんの力もないのよ」
少女、百合白は闇の中で得体のしれない獣のように瞳を輝かせた。
闇の中で嗅ぐ甘い香りは、爛熟しすぎて腐敗した果実のようでもある。
純真無垢、その四文字がこれほど似合う人はない、というほどの美少女なのに……今の彼女から感じるものは、それとは真反対だった。
「ねえ、マリヤさん。これまでは私、あなたは学院のみんなと同じく勤勉で優しくて退屈な人だって思っていました。誤解でしたね」
「あんたに何がわかるっていうの……!」
マリヤは少し声を荒げ、人の気配を感じて声を潜めた。
百合白はくすくす、と笑い声を上げた。
廊下を行く足音は、何も気がつかずに過ぎ去っていく。
マリヤは依然としてまんじりとしたまま、百合白を睨みつけた。
すべては……この女のせいだ、と彼女は思った。自分が今ここにいることもそう。殺人をおかしたことも、元をただせばすべてが雄黄市壊滅に由来する。
「怒らないで……いえ、怒りたければいくらでも怒って。あなたは美しいわ……お利口な顔をしているよりずっといい。さ、続きをやりましょう。どうぞ、止めたりしないわ」
「な、何のつもり……?」
「あなたが彼女の息の根を止めるのを、ここでただ見ているつもりよ。大丈夫、誰にもこのことを話しませんし、人を呼んだりもしません」
王姫ではなくなり、やがて一般人とかわらない身分になるとはいえ、目の前にいるのはただの少女ではない。女王国の姫君なのだ。
彼女はどんな形であっても殺人を肯定するべきではない。
まっさきに糾弾し、批難するべき人物だ。
そのかわり、と百合白は続けた。
「これは取引よ。言葉のうちで最も意味のあるものを……《力ある言葉》を手に入れてくれない?」
そうしたら、と王女は続けた。
「あなたの欲しいものをなんでもあげる、と約束するわ……」
「お前の命、といってもくれるっていうの」
マリヤは呻くように言う。
目の前に、雄黄市を、母を、鶴喰砦を、めちゃくちゃにした張本人がいる。
なのに手も出せない。
「なんでもあげるわ。……信じてくれますね?」
異常だと、マリヤは感じた。
彼女はなんだか、歪だ。
だが、そう感じていてもマリヤには拒否することができない。
ここで百合白が声を上げれば、全てが破綻する。駆けつけた竜鱗騎士に、手も足も出せずに殺されてしまう……。
首根っこに噛みつかれながらも、マリヤは頷くしかなかった。
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星条百合白は、マリヤがどういう立場に置かれていたのかを正確に把握していた。
マリヤが竜族に脅されていたこと、彼女が身分を偽っていること、全部だ。
すなわちそれは百合白さんがマリヤの共犯者で間違いないということで、自分で言い出したにもかかわらず、信じたくない……受け入れられない、うまく呑み込めないでいた。
「最初の殺人をおかしたのは竜に脅されていたからだったようです。彼女は五年前、銀華竜の手駒になるときに、女王国の民と女王を殺すという誓約を立てさせられていたの」
体内に竜鱗を埋め込まれ、それを通信装置のように扱っていたようだ。
本来なら登録されていない竜鱗の持ち主が市境を越えることはないが、彼女は鶴喰砦の生き残りで、しかもリブラの養女として迎えられ、特殊なルートを通って市境を越えたために事が露見することはなかった。
そしてマリヤが成長するのを待ち、銀華竜は誓約の履行を求めて来た。
拒否権はなく、断れば殺されるだけだ。
竜に従う意志を示すためには殺人をおかすしかない。
――殺しても心の悼まない者から、だ。
「とても迷っていました。自分のしたことの罪の重さ、脅え、混乱、そしてこれから自分がしなければならないことへの恐怖のせいで……だから」
百合白は朗らかな表情で、うっとりとした夢見る少女の表情のまま、悪夢の続きを語った。
「少しだけ背中を押してあげたの」
「……マリヤを唆したのか?」
「少しちがいます。計画のほとんどはマリヤが考えました。わたしがしたことは、彼女に情報を与え、そしてそれが実行できるようにほんの少しの手伝いをしただけ」
ほんの少しの手伝い……。
「……何故、止めなかったんです? 犠牲が出るとわかっていたはずだ」
マリヤが引き起こしたことは、女王国の人々を傷つけた。
海市は破壊されて、その負債を払い続けなければならない。
百合白は悲しげな表情を浮かべた。
「亡くなられた方々には本当に申し訳なかったと思います。……でもね、仕方がなかったの」
「仕方なかった……?」
「そう。彼女に計画を諦めさせることなんて、私にはできません。暴走する列車を素手で止めるようなものですもの。そうでしょう? そもそも私のしたことが発端ですしね」
彼女の言い分にも、一理ある。マリヤが百合白の説得を聞くわけがない。ひょっとしたら、百合白さんを即座に、突発的に、殺害していたっておかしくない。
でも……それは優しい姫君の台詞ではなかった。
彼女は暴走列車のようなマリヤの殺人を見逃し、その後の計画を手伝うことで、サナーリアの魔法を持つ彼女の力を掌握した。
「すべては青海文書を手に入れるため、ですか?」
「はい、その通りです。正確には《青空の国の物語》……ですけれど。貴方も知っての通り、あれはわが国でも最近になって発見された未知の魔法……言ってみれば新技術、新兵器です。つまり、《力》なの」
「《力》……」
「新しい技術が生まれたとき、それは世界の地図を変えてしまう可能性を秘めています。そうでしょう、あなたの世界でも、そういったことはときどき起きていたはずです」
僕の知っている歴史では、これまで人類は鉄の利用からはじまり、火薬の発見に続いて銃が生まれ、戦場の風景を次々に変えて来た。最近では人類は核兵器を手にした。
そして常に、それらをより多くより有効に使えた者が生き残り、人類史に名を刻んできた。
「あなたが力なんかを欲しがるとは思えません……」
「欲しいのではなく、必要なのです」
百合白さんはそう言った。毅然とした表情だ。優しいだけじゃなく。
「いつまでも、天藍たちが守ってくれるお姫様、というわけにはいかないのです。とはいえ、マリヤが手に入れたもうひとつの《青海文書》は、今ごろ黒曜ウヤクの手の中ね……もったいないことをしてしまいました」
百合白は本の引き渡しのために、銀華竜の誘拐を装って工場地帯へ向かった。
マリヤは本と引き換えに、五年前、百合白が騎士団を派遣しなかった理由を話してもらう、そういう取引だったのだ。
だが、百合白にはマリヤにその真相を打ち明けるつもりはなかった。
僕と天藍にマリヤを殺させ、タイミングをはかって、本だけを手に入れる手はずだったのだ。
もし、リブラが生きていて、あの場所に来なければ。
だから……。
彼女は偽りのメッセージを、僕たちに送った。
そして銀華竜とマリヤのもとに誘導した。
マリヤとの交渉を無かったことにするため、それだけのために。
「……苦礬公爵にクーデターを起こさせたのも、君か? 力をほしがったのは、紅華を殺し、王位継承権を再び手に入れるためとか?」
「前半の質問は、そうです。紅華が死ねば竜は去るとだけ話しました。彼は正義感が強い男ですから、思い切った行動に出るでしょう。でもね、大義のない女王に従う民はいません」
翡翠宮を去った百合白が再び玉座に戻るには、その前に失った継承権を復活させなければならない。
そうでなければ、単なる犯罪行為になってしまう。
「それに、わたしは今の生活が気に入ってます。あ……もちろん証拠は残っていませんよ」
「それは自白じゃないのか?」
うふふ、と百合白さんは華やかな笑い声を立てた。
「そうですね……そう取ってもらって構いません。とにかく、公爵は騎士団をあの場に釘づけにするのに役に立ってくれました」
百合白は自分の価値を正確に把握していたんだ。
マリヤの復讐心も、天藍の忠誠がどんなものかも知っていて、そしてすべて利用したんだ。
黒曜ウヤクと同じだ。
むしろ、彼女はずっと黒曜ウヤクと戦っていた。
ふたりが挟んだ盤面には僕たちという同じ駒があり、どちらが上手くその駒を使えるかで競っていた。高度過ぎる人間チェスだった。




