113 告白
階段状に三席ずつ、三段三列に行儀よく並んだ机。
飴色に磨かれた木の床。黒板の隣には小さな扉。
僕に宛がわれた教室はウファーリの土下座の印象だけが強くて、学院の他の場所と同じく、よそよそしい景色だった。
教卓に水筒を置く。
古いタイプの水筒で、金属製のボディに冷たい水をたっぷりと詰めたそれに語りかけた。
「いじけるなよ、オルドル」
ふん、と鼻をならす音が聞こえてきそうだ。
あの日から、オルドルが話しかけてくることはなかった。でも、いなくなったのとは違う。
杖のそばで妙なふてくされた息遣いだけを感じるし、魔法を使うこともできる。
僕は目を閉じて、周囲を注意深く探る。
オルドルに頼らずとも、隣の教室で授業が行われているのが聞き取れる。それが、この場所の平穏で、日常なんだろう。
「本当にやるんだな……?」
自分に訊ねる質問だった。
僕がマスター・カガチに渡したメモは、すぐにノーマン副団長の手に渡ったはずだ。
彼女にあのメモを渡せば、きっと……。
だが今なら何も聞かなかったことにもできる。
都合よく冗談だよと言って。
あのメモで呼び出した目的の人物があとたったの五歩で、扉の前に立つというのに、そんなことを考えてしまう。
バカだな。
笑いながら、音に耳を澄ます。
いち、に、さん……。
なんて軽い足音だろう。
靴底を小気味よく鳴らし、細い腕が扉を叩く。
「鍵はかかってないよ。どうぞ」
そして――彼女は、教室に姿を現す。
短いスカートの裾が翻り、陶器のような肌を晒す。
花のような、砂糖のような、甘い香りがここまで漂ってきそうだ。
歩みは軽く、小鹿のよう。
ふっくらとした唇はなんともいえない笑みを湛え――誰もを魅惑して離さない。
白金色の髪がさらりと流れ、可憐な桃色の瞳が、僕をうつす。それだけで胸が熱くなる。
「お招きにあずかり光栄ですわ、マスター・ヒナガ」
「そうかな……」
「いまや、あなたは女王国の救世主。私の命も救ってくださいましたね……。無事だと聞いてからずっと、お会いしたかったのです」
「あなたが無事でよかった。不躾に呼び出したりして、ごめんなさい」
美しく、可憐な乙女が煌めく微笑を見せる。
翡翠女王国に咲き誇る姫君にして、天藍アオイが血みどろの忠誠を捧げるその人。
星条百合白。
会いたかったと言ってもらえて、正直なところ、みっともなく胸が高鳴って彼女が語りかける言葉のすべて宝石の粒のようにきらきらと輝いて感じられるんだ。
「お話があるとうかがいました」
「愛の告白です」と僕は返した。
彼女はくすりと無邪気に笑う。
「冗談ですね」
「いいえ。百合白さん、あなたは……ずっと僕のことを守ってくれましたね」
星条百合白は、この世界で僕の境遇に胸を痛めてくれた、その最初の人だった。
「出会ったときのことを、つい今しがたのことのように思い出せます。僕は、はじめて優しさの意味を学びました。だからお返しに守ってあげたくて……その結果は悲惨だったけど」
彼女を守れなかったばかりか、魔法の力を暴走させてさらなる窮地を呼び寄せてしまったことを、忘れられるわけがない。
ウファーリのことも傷つけた。
僕は人の心を思いやることができない冷たい人間で、今でもそうだ。
償う方法が見つからずに足掻いているんだ。
「それでも百合白さんが一緒に戦うと言ってくれたから、その言葉だけで理不尽なことにも耐えられた。これを……」
教卓から降りて、ポケットから白いハンカチを取り出した。
天藍に軽く切られたとき、傷口を拭くために貸してくれたレースのハンカチだ。
彼女は歩み寄り差し出したハンカチを受け取ろうとして、躊躇いがちに手を伸ばす。
僕は彼女の手に触れた。
ハンカチを受け取った左手の甲に触れ、両手で包み込む。
もう二度と間近にすることはないんだと覚悟していた桃色の瞳が、不思議そうに僕を見つめ、にじむような幸福を感じる。
「あなたの苦しみを知っています。……知ってる、というのと理解してるのとだと雲泥の差だけど……だけど」
だけど、彼女は僕の希望だった。
取返しのつかない罪をおかしても、苦難が立ちふさがっても、やがて誰かの光になれる。
彼女はそんな人だ。
「百合白さんは僕よりずっと強いのに……その苦しみを取り除いてあげたいって本気で考えていたんです。あなたが好きだ」
口に出すと、恥ずかしい。
だけど、僕が彼女に相応しい人間じゃないということも、ちゃんとわかってる。
僕は彼女の手を離さず、杖を抜いた。
「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」
幻が教室を包み、学院の他の場所から隔離する。
隣の授業の声は、まったく聞こえない。
かわりに銀の鳥が囀り、動物たちがはねる音だけがする。
室内に木々が生い茂り、伸びた蔓が彼女の両足を絡め取る。
「ただの愛の告白……というわけではなさそうですね」
彼女はまったく動揺すらしない。
ある意味、黒曜ウヤクと同じ、鋼の精神だ。
「いいえ、あなたのことが好きだ。でも、だからこそ僕は聞かなくちゃいけない。……五年前、なぜ、君は雄黄市を見殺しにした?」
これは、マリヤの問いだ。
最期の一瞬でマリヤから僕に託された復讐の炎、その熱のかけら。
「そして……何故、彼女を……玻璃・ビオレッタ・マリヤを裏切った……?」
百合白さんはしばらくの間、黙って僕を見つめ返していた。
彼女がそばにいるだけで、ほんの一瞬が永遠に思える。
掌から伝わる熱を、もう二度と離したくないと感じる。
百合白さんはその可憐な瞳を細めて、愛らしく微笑んだまま。
「ふふっ」と小さく微笑んだ。
オルドルが僕の爪を喰い、血の雫が床に散った。




