112 過去を忘れて‐2
門をくぐると、真っ先に《変化》が僕を包んだ。
まず、生徒たちの視線がこちらに集中しているのを感じた。
何だろう? と首を傾げていると、どこかで歓声が沸いた。続いて、拍手の音。
僕に向けて口笛を吹く生徒もいた。
「ええっと……?」
なんだかこの状況、既視感がある。
こんなときどうすればいいのかわからないの、という某名台詞が頭を過り、右手が自然と杖に向かった。だからといって、こんなことで魔法を使うわけにはいかないけれど……。
「マスター・ヒナガ!!」
遠巻きにしている生徒たちの間から、女子生徒がふたり走り出てくる。
「あのう、この子、覚えてますか?」
元気そうな女の子が、早口で訊ねる。
僕は彼女の間合いから、三歩下がる。
そうしてようやく、彼女が腕を掴んで連れてきた友人らしい、大人しそうな女子生徒の顔が見えた。
「ご、ごめん……」
全く覚えてない。
「ほら、飛竜に襲われていたところを助けてもらったんです。ね? そうだよね?」
むりやり連れてこられたらしい女子生徒は、恥ずかしそうに頬を染めて俯いた。
そういえば……そんなことがあったような気もするが、はるか太古の歴史みたいに、あまり現実感がなかった。
でも、彼女たちの目的は、それじゃないらしい。
「先生が市街地に出た準長老級の竜を討伐したって……ほんとですかぁ?」
きらきらした瞳で、こちらを覗き込んでくる。
「ど、どうしてそれを……?」
そう言ってしまってから、失言に気がついた。
それと同時に、彼女たちは悲鳴のような歓声を上げた。
「やっぱりホントなんだ! すごーい!」
「おいおい、その情報、どれくらい出回ってるんだ!?」
「一応非公式ですけどぉ、学院は親が政府関係の人も多いですし……あ、ちょっと!」
これが噂の、人の口に戸は立てられぬ、とかいうやつか。
学院の特殊な環境も影響してる。
僕は足早に彼女らの横をすり抜け、校舎に入った。
噂はもうとっくの昔に広まっていて、いくらか待ち構えていた様子もある。
声はいくらでも追ってきた。
たぶん、天藍アオイも関わっているとは知っているだろうが、あいつに気さくに声をかけられるやつなんて、学院じゃ数人といない。
だから興味は全部僕に向かっている。
「先生!」
「マスター・ヒナガ!」
「竜ってどんな感じでした?」
「どうやって倒したんですか!?」
「先生ってほんとに魔術師だったんですね」
どちらかといえば今まではよそよそしかったはずの生徒たちが、好き勝手なことを話しかけてくる。ほとんどが興味本位の雑音で、困惑しかない。
戦いが終わって、黒曜に殺されかけたと思ったら、今度はこれだ。
凄まじい落差に、ついていけそうにない。
以前だったら、そうは感じなかった。
うれしいよ、ありがとう。竜って大きくて怖いんだ、どうやって倒したかはちょっと話せない……適当な相槌で返事ができたと思う。でも今は違う。僕は当事者だから、そんな言葉は嘘でも口から先に出したくない。
竜はとても強大で、手強くて、悪夢のような敵だった。
僕はいろんな言い訳を用意して、あれと戦うことになったけれど、そうする資格は無かった。だから、倒すためには卑怯な手段を使うしかなかった……。ひとりの女の子を巻き添えのように殺すしかなかった。それを防ぐ手段がみつからなくて、自分自身の命さえ投げ出さなければいけなかったんだ。
質問が投げかけられる度、自分の怒りや無力さを味わうのは新手の拷問みたいだった。
生徒たちを振り切って、敷地の端っこに向かった。
そこでは未来の竜鱗騎士たちが、マスター・カガチの指導を受けている。
いるのはイブキや天藍アオイよりも年かさの生徒たちで、僕が練習場に姿をみせると、目に見えた混乱はないものの少しだけ意識がこちらに向けられるのを感じた。
でも、視線まではいかない。
肌を羽毛で撫でられるような……間合いに入った、という感覚がする。
マスター・カガチは男子学生の指導をしていたが、こちらに気がついて観覧席にあがってきた。
「すっかり人気者ですな」
そう言って朗らかな笑顔を浮かべている。
口ぶりからすると、彼も大体の事情は知っているのだろう。
「……全然嬉しくないよ」
どうしてか、正直な反応をしてしまった。
でも、少し考えて、マスター・カガチに嘘をつく必要はないだろうってことに気がつき、体から緊張が抜けて行った。
彼は黒曜や紅華の仲間ではない。
政治とも何とも関係なく、今はただ、生徒たちを導くだけの人だ。
「人は、物事の良い面しか見ようとしないもの、英雄とはそのようなものです。とはいえ貴方の献身が竜を倒した――これは事実です。私からも是非とも礼を言いたい」
「誰かに感謝されたかったわけじゃない。それに、僕は間違ったことをしたんだと思う」
「間違い?」
あれから……黒曜たちから解放されてから、そのことを後悔しはじめていた。
無理やり永遠の眠りにつかされていたら、どれだけ楽だっただろう。
あの戦いに挑んだ理由は……いろいろある。百合白さんのこと、イブキのこと、紅華の涙……でもそんなのは言い訳に過ぎない。
僕は人を殺したんだ。
自分と、マリヤを。
練習場の敷地をじっと見つめながら、緑の瞳が細まる。風が吹き、鞭のような黒髪を揺らす。彼はそのまま、風にされるがままになっていた。
「マスター・ヒナガ……貴方は戦いに慣れていないようだ」
僕は頷いた。偽る必要を感じなかった。
彼はこんなことを言うのはおこがましいが、と前置いてから話し始めた。
「私は竜と戦う前、生徒たちには全てを持って行けと教えます。戦う技術、知識、今までの努力と研鑽、磨き抜かれた武器、そして魂……全てです。何故なら竜に限らず、戦場にある者は味方も敵も、そうするからです」
彼の言葉は静かで、あくまでも他愛のない世間話のような口調だった。
「そして毎年のように教え子の誰かが使命を全うします」
「……むなしいね」
戦う者を育てる、というのは、ある種の大きな矛盾のように感じる。
「さて……しかしそれを間違いだと感じたことはありません。命と命のすべてがぶつかるとき、そこには何があるでしょう。軍は政治によって動くが、果たして大義が人を殺すのか。竜と人とが対峙するとき正しさは――いったい誰が決めるのです?」
答えられない。
カガチの言葉は、答えを求めているそれではなかった。
少なくとも、僕ではないとしか言えない。
僕は間違う。僕という存在を否定するため、肯定するため、そこには絶対の尺度がなくなる。正しさという鋭く脆いものは、僕の言葉や思考に拠ることができない。
そして信仰もない無神論者では、神ですらそれを決めてくれない。
「僕は、どうすればいい?」
みっともなく縋る問いに、カガチは笑ってみせた。
「何を以て戦いの終わりとするかは、己で決めなければなりません。しかし貴方は最後には、全てを忘れ、戦いの栄光に浴さなければならない。それは特権ではなく、義務だ」
生徒たちのあの視線を、あの声を、受け入れる。
賞賛でも、興味本位の雑音でもない言葉は、冷静に道を示しているようにも、忠告のようにも受け止められた。
そうできない僕がここにいることを、まるで全部を知っているかのような口ぶりだった。
この人はどれくらいの戦いをそうして乗り越えてきたのかな。
「……ひとつ頼みたいことがあるんだ」
カガチは教え子を見守りながら答える。
「伺いましょう」
「伝言をお願いできるかな」
僕はメモを差し出す。少しだけ、後悔しながら。
「これを、どなたに?」
「《彼女》に……」
宛先を言いあぐねた。
正しいかどうかを決めるのは、僕ではない。
でも、彼は正しい。僕の知らない時間と、戦いの日々の経験が、マスター・カガチが他者を導くにふさわしい人物にしている。
だけど、彼が語る戦場にマリヤはいない……それも正しいことのように思える。
戦いが終わっても、戦いの火に燃やされ、苦しんでいた可哀想な女の子は……もうどこにもいない。
どこにもいないんだ。




