109 真実 -3
「許して……」
小さな声が聞こえた気がしたが、それは僕の気のせいだった。
彼女は王姫としての毅然とした表情や態度を崩してはいなかったし、ただ立ち上がっただけだった。
「女王国には黒曜の力が必要なのだ」と紅華は言った。
黒曜の力。つまり、女王国のために膨大な手間も犠牲も厭わず、人理をも越え、最適解だけを選び取る力だ。
王姫である彼女は、そういう選択をするしかないだろう。
女王府の中枢に腰かけている黒曜ウヤクに従う。彼の策に乗る。それが彼女にとっての最善だ。
『さあ、やろうよツバキ。自分の命を守るためだ、誰に非難されるいわれもない』
水盤の乗った台がかたかたと震え、不愉快な音を立てる。
魔力の流れを感知して、リブラが鎖の拘束を強めた。黒曜はデナクの弓を握ってる。
『どうしたんだよ、ツバキ……何故呪文を唱えない? ボクの怒りに共鳴してくれない?』
オルドルは焦っている。それはそうだ。僕が眠れば、彼もただの文字の羅列にもどってしまう。
それなのに僕はというと、とことん騙されて、最後はいつ起きるともわからない強制的な眠りにつかされるという残酷なやり方を提示されているのに、不思議と穏やかだった。
もちろん、眠るのは嫌だ。竜とボロボロになるまで戦って、こんな訳のわからない末路を辿るのは震えるほど嫌だ。
怒ってもいると思う。煮え切らない感情が胸のあたりにわだかまっている。
『だったら、何故……』
「……ようやくわかった気がするんだ」
『何が?』
「……ウヤク、紅華が……彼女が、飛竜の騒ぎに乗じて図書館に来たこと、あれもお前の差し金なのか?」
演技でなければ……あの夜、図書館まで駆けて来てくれたのは、誰の指図も受けていない紅華自身だった。彼女は黒曜の描いた《筋書き》に完全には従わずに僕に恐怖を与え、そして《扉》から送り返そうとした。
話せない、許して――その言葉の意味が、やっとわかった。
僕を元の世界に送り返そうとした理由を話せば、黒曜の計画は破綻し彼の信頼を失うことになる。そして僕も、どうしようもなく傷つくことになる。
あのとき何も聞かずに元の世界に戻れたら、僕は真実を知らずに済んだはずだ。
リブラが本当は生きていたんだということも、マリヤが犯人なのだと知ることもなかった。もちろん、マリヤと戦い、死ぬこともなかった……。
あなたが元の世界に帰れる機会はこの瞬間しかない、そう彼女は言った。
彼女は、彼女に許された精いっぱいで僕を本当に自由にしようとしてくれていたんだ。
それが彼女の、紅水紅華の、本当の心だ。
大宰相はじっと黙っていた。返答がないのは肯定だ。
全てがこいつの予想通りに動いていた訳じゃない。
『だからって、こんな理不尽なやり方を受け入れるのか?』
オルドルの猛りは、よくわかる。その怒りは僕のものでもあるから。
理不尽なことは、たくさんあるんだ。父さんが出て行って、母さんが僕に暴力を振るったのも、そのひとつ。黒曜が僕をマリヤを殺すよう誘導したのだって、僕の関知しない理不尽な出来事だ。
でも……。
「オルドル、マリヤがそうしたように、僕たちももうやめよう……。元の世界に帰ることを選ばなかったのは僕だ」
僕はあのとき、すべての理不尽を振り切って、逃げることができた。
そうするかどうかを、自分の力で選べたはずだ。
危険を顧みずに紅華が来てくれたから……だから、あれから先に起きたことは、黒曜がどうだとかは関係ない。
それは僕の選択だ。
『いいや……ボクに不可能は無い。ボクはこの国の連中のやり方が許せない。何十年、何百年経っても変わらないやり口がね! だから何度だってやり直し、復讐を果たす!』
いつもと口調が変わっている。それはオルドルの、ほとんど聞いたことが無い本音のような気がした。
「……君は僕と一緒に眠るんだ」
ゆっくりと呼吸し、気持ちを落ちつける。
荒れ狂う嵐のようなオルドルと、自分自身の怒りを鎮めていく。
「僕は、許す。騙されたことも、何もかも黙っていたことも、殺そうとしたことも許す」
僕は本当の意味では生きていないかもしれない。
でも、もしも日長椿が生きていたら、これまでの過去と現在と、すべてを掛け合わせてそうしただろうことを、僕はするんだ。
紅華はこちらに向けて右手を差し出していた。
いつか、彼女のその手に触れたことがある。
行こう、と差し出された掌だ。
冷たい手だったけれど、紅華だけが僕を正しいところへ導こうとしてくれた。
床に跪いたまま、心の中だけで、鎖に絡め取られた手を伸ばしてその掌に触れた。
滑らかな肌に、柔らかな指に、きれいな小さな貝みたいな爪に。
王姫殿下。
君は最初に自分で自分をそう言ったように、《運命の女》だった。
「また、会いましょう」
紅華の声が聞こえ、リブラが魔術を発動させる。
これで僕は生命を維持し続けたまま、眠り続ける。動くことも喋ることもできない生ける人形になってしまう。
その……とにかく、ぎりぎりだった。
締め切ったはずの大広間で《風》を感じた。
「……どうして」
思わず、僕の口から声が漏れた。
大広間の扉が凄まじい音を立てて開き、強い風が吹き込んだのと、リブラを狙って飛来した何かを黒曜の弓が撃ち落としたのはほとんど同時だった。
それは剣だった。
銀色の十字剣は、自らに意志があるかのように、相応しい者の手に戻っていく。
灰の瞳が、地面に這いつくばる僕を見下していた。
~~~~~
「なんで……来たんだ? 天藍」
翻る純白のマントがはためくのを掴んで落ち着かせながら、彼は僕の隣に降り立った。
足音もさせずに、だ。
こんな場面が、前もあった気がする。
気のせいにしておきたいが、二回目か……三回目か、それとも四回目くらいだ。
「もしかして、僕を助けるのが趣味なのか?」
「とんでもない。その間抜けな格好を見物するのが趣味だ。精々、悔しい顔をして土でも食ってろ」
とことん僕のことが嫌いなこいつらしい返答だ。
あまりにも完璧すぎて、逆に不自然だ。
「よく居場所がわかったな。――なるほど、まさか天藍、きみがノーマン副団長に翡翠宮内を探らせるとかいう奥の手を使うとは思い至らなかった」
黒曜はひどくぼんやりとした返事をした。
どんな状況であれ、あまり緊張感というものを持たない男らしかった。それでいて、あっという間に正解の思考に辿り着く大胆な発想と精緻な洞察力は、流石としか言いようがない。
むしろ、リブラのほうが憔悴した顔をしていて可哀想なくらいだった。
「あんたもな。この五日のうちに囮を使うこと三回、拠点を移動すること十五回、偽の情報での攪乱数十回、罠は数知れず……どれだけ後ろ暗いことをしていれば、それだけ敵を撒く手段を思いつくんだ」
天藍は涼しい顔で、フラガラッハを使い鎖をやすやすと断ち切った。
「罰なら受けよう。だが、銀華竜討伐より五日。私は、この者――マスター・ヒナガの行方を探していた。彼は……銀華竜討伐にあたり多大な貢献を行い、これを為した英雄である。その功績に対し此度の処遇は、聊か不当であると諫言する。申し開きを聞かせて頂こうか、大宰相」
騎士は剣の切っ先を黒曜に向ける。
ただ星条百合白のため、女王国のため、己の闘争のためのみに振るっていた剣を、だ。
黒曜は騎士が翳している剣の先にある《暴力》と《死》を前に、ただ唇の片方だけを持ち上げて不敵に笑ってみせた。
「なに――冗談だ」
ただ、衝撃的過ぎるひと言をはなつ。
「本気でするはずなかろう。悪かったな、日長君」
冗談。単なる遊び、遊戯。
ここまでの一連の出来事を、悪びれもせずに、その一言に集約させる……面の皮が厚いどころの話ではない。
「女王府の黒曜石ともあろう者が、つまらない冗談を言うとは思えないが?」
「私も人だ。他人をからかってやりたくなることくらいあるだろうよ。して、遊びの邪魔をして何とする」
「――それを決めるのは、私ではない。私は一振りの剣、そして盾。剣は自らが何のために振るわれるかを思考することはない」
そう言って、天藍は僕に向き合った。
出会ったときと同じ姿だ。白い肌、彫刻のような美貌、白い髪とマントをたなびかせ、時代錯誤な甲冑を身に着けている。
「どうする、ツバキ。お前がはじめたことだ。お前が最後を決めろ……私はそのために来た。今だけ、私はお前の剣だ」
「……お前は、百合白さんの騎士だろう?」
「特別に許しを頂いた。使え」
僕は呆気にとられたまま、答えをうまく探せないでいた。状況がよく呑み込めていないのもある。
ただはっきりしているのは、ここにひとりの騎士がいるということだ。
最初は不愛想で情緒を理解せず、高飛車で頑固で冗談も通じない嫌味な奴だとばかり思っていた。
でも、こいつが何ができるのかを、今の僕はよく知っていた。
「……なんでもできそうだな?」
天藍は少し考え、答える。
「いいや、長老級は殺したことがない」
「それ、真面目に言ってる?」
もしかしたら冗談のつもりかもしれない……と疑った。
だが、天藍は真面目くさった表情で瞬きしただけだった。




