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竜鱗騎士と読書する魔術師  作者: 実里晶
救い難き魂
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107 真実

 

 怒りを燃え盛る炎に例えたのは、僕がはじめてじゃないだろう。


 それが他人の言葉であって僕の言葉ではないように、切っ先が彼女の体に吸い込まれていくのを見つめている瞳は僕のものじゃない気がした。


 刃がマリヤの皮膚を、肉を、血管を、骨を断つ感触が恐ろしくて不快で気持ちが悪くて、すぐにでも手を離したくて堪らなかった。

 彼女のことは憎い。

 だけど憎悪では越えられない一線がある。

 でもやめることもできなかった。

 それは僕がどうこうとかじゃなく、死にかけのマリヤが腕を掴んで離さなかったからだ。

 そして、こう言った。


「あの《杖》を屋敷に置いたのは、私じゃない」


 それだけ伝えると、マリヤは僕の両腕を掴んで一気に引きよせた。

 魔剣は心臓を二つに割った。

 銀に染まった彼女の髪の色がもとに戻って、そして僕はオルドルのいない正気の世界に一瞬で引き戻された。


「それは、どういう意味なの? マリヤ……」


 彼女の瞳は輝きを失い、苦痛と、狂気と、理性の狭間にいた。

 そして命の最後の吐息を吐く直前、不意に優しい目つきになった。


「ここにいたのね……」


 思わず、肩越しに振り返った。

 でも、そこには誰もいないんだ。

 彼女の血塗れの掌が知らない誰かの代替物みたいに僕の頬を撫でて、体温を失って、地面に落ちて行った。

 そして、僕もまた苦痛と失血によって闇の中に落ちて行った。



                 *****



 その後の事は何も覚えていない。

 僕は泥のような眠りに浸っていて、外界のすべてを締め出していた。

 暗闇と無音の眠りの世界に、突然、無遠慮な気配がした。

 その気配のせいで、僕の自我は再び目覚めた。

 目覚めざるを得なかった、といったほうが正しい。


『起きて、ツバキ……わたしのかわいい子。あなたの物語はまだ終わってない』


 光輝の魔女の声だった。


『さあ、続きを聞かせてちょうだい』


 その風のような声音、気配、足音で、僕の意識は現実に引き戻された。

 現実の記憶が唐突に始まる。

 ふかふかのベッドの上、滑らかな肌触りのシーツの上で……という、都合の良い展開にはならなかったのは、残念すぎた。気がつくと僕は、椅子に座っていた。

 それも可動式の、要するに、車椅子に見えた。

 まるで悪夢の続きだ。

 僕は反射的に身をよじって、そこから逃れようとしてた。

 最初のときと同じだ。気分はいい。腕も足も千切れていないし。

「怖がることはない。どこにでもある椅子じゃないか……」

 男の声がした。

 少年ではない。子供でもない。大人の声だ。

 黒曜石のナイフみたいに視線で人を斬れそうな、忘れ難い眼差し……。

 黒曜大宰相その人が階段に腰かけて、オルドルの《本》の表面を撫でていた。

 階段には赤い絨毯が敷き詰められ、僕の隣には何故か水盤と水差しが用意されていた。

 広大な空間には僕と彼と、玉座に紅いドレスの少女が腰かけて僕を見下ろしている。

「紅華……」

 名前を呼ぶと、彼女は視線を逸らした。《扉》のときみたいに。

「どうして僕はここに……?」

「君はあのあと治療を受ける必要があった。全身串刺しだったからな。五日間、眠っていたのだよ。長い眠りは精神的なものだそうだ」

「どうしてここに、と訊いたはずだぞ」

 治療を受けたなら、車椅子に乗せられて翡翠宮に運ばれる必要なんかない。

 黒曜は「説明するためだ、聞きたいだろう?」と言った。

 聞きたいこと……あるような気もするし、何も聞きたくはない気もした。

 全てどうでもいいことのように感じた。

「百合白さんは無事なの?」

「無事だ。君のおかげでね」

 無性に虚しい感覚がする。

 彼女を救ったのは僕じゃない。僕はただ、醜い感情を制御できず、踊らされていただけだ。

 黒曜は淡々と事実を告げる。

 マリヤと銀華竜の死亡が確認され、天市でも、海市でも、いつもの日常が戻ってきた。サナーリアの魔法で召喚された飛竜たちも駆逐され、それ以上流入してくる余地はなくなった。再生したように見えていたのは、別の個体を同じ《場》に移動させていただけだったから。

 でも何もかも元通りというわけにはいかない。市街地はあちこちが破壊され、市民にも甚大な被害者、行方不明者が出たということだ。

「そして、君を連れてきた第二の理由は……君を殺すためだ」

「……なんだって?」

 唐突すぎて、聞き間違いかと思ったが、そうじゃないらしい。

「驚くようなことじゃない。端からそういう計画だったんだ。君は銀華竜とマリヤを始末し、私は君を殺す。秘密裏に、死体の一片も残さず消して、証拠はこの世のどこにも残さない予定だった」

 重たい眠気が支配する体が、少し緊張する。

 杖は僕の手にはない。

「せめて理由くらいは教えてくれよ」

 黒曜は無言で立ち上がり、こちらにまっすぐやってきた。

 彼は盲目だが……ここは光から遠く、ちょうど影に入っていることに気がついた。

 ここは彼の領域だ。

 黒曜は僕の膝の上にオルドルの切れ端を綴じた本を置いた。

 本はすぐさま形を変え、いつもの黄金の杖に収まった。

 彼は水差しの中身を水盤に移した。


『どうも、お久しぶり。話は聞かせてもらったから、再度の説明はいらないヨ』


 聞こえてくるのは久しぶりの嫌味ったらしいオルドルの声だ。

 全く懐かしくもない。


「結局のところ、お前を守っていたのはその獣だ」


 水盤の中で、オルドルが手を振っている。

「オルドルから聞いたよ。君とオルドルの関係は特殊なものだ。私とデナク、マリヤとサナーリアの間にあるのは感情の繋がりだが、君は肉体の一部を彼と同化させている……そうだろう?」

 オルドルは一時、肉体を持っていた。

 魔法を使わせるために、アイリーンがそうしたのだ。

 彼は自分の血を金の杯にうつして、僕に飲ませた。

「通常、読み手を殺しても、本の登場人物たちはそのままだ。彼らは文字だけで構成された実体のない概念のようなものだから。だが、君たちは違う。椿、君を殺せばもはや、オルドルがどうなるのか誰にも見当がつかない」

 水面に映ったオルドルはいつになく真剣な顔をしている。

『キミたちのような人種がどれだけ残虐なまねをするか、ボクはよく知っているからね。先手を打たせてもらったよ』

「それだけその読み手は優秀、ということかね」

『ボクの読み手は少ないからネ~』

 僕の頭上越しに僕の命の価値が決まって行く。

「僕を殺そうとした理由になってないぞ」

「陳腐な台詞から始めよう。君は知り過ぎた。マリヤが……玻璃・ブラン・リブラの娘が、竜を天市に招き入れ、未曽有の大混乱が起きたなどと誰にも知られてはいけない醜聞だ」

 黒曜が述べた《僕が死ななければいけない理論》は、少しだけ説得力があった。

 考えてみれば、そうだ。そういう考え方もある。

 新しい王姫の側近中の側近が、そんな危険人物を傍に置いていたなんて誰にも知られないほうがいい。

 海市の人たちはただでさえ紅華に対して悪印象を抱いているんだから。

「けど、リブラはとっくの昔に死んでる。もう罰は受けてるはずだよ」

「本当に死んだならな」

 黒曜は短く告げた。

「お久しぶりです」

 懐かしい声が、背後から聞こえた。

 そのとき、僕は心臓が抉られたかわいそうな犬みたいな気分だった。

 咄嗟に椅子から離れ、脚を絡ませて尻もちをつく。

 水盤が揺れて水が零れ、『少しは残しといてね』とオルドルが文句を言う――その言葉も、耳には入らない。

 目の前に、死者が立っていたからだ。


「また、君に謝らなければいけないことが増えましたね」


 亜麻色の髪の若い男が白衣に似たローブをまとい、水晶の天秤を手にして立っている。

 リブラは死んだはずなのに。

 僕の目の前で。


「その男が死ぬと思うか? 生命すら意のままにするというのに。だからこそ、その男は我々の切り札で、欠くべからざる存在であり、それ故にこうした結論しか導き出せなかったともいえるがな」


 黒曜は忌々しそうに溜息を吐いた。

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