番外編9 竜鱗騎士と読書する魔術師
気がつくとそこは瓦礫の連なる工場地帯ではなく、雪の降り積もる田舎道だった。
しんと雪が降り積もり、寂しい小道。
その途中に一軒の家がある。
窓硝子の向こうから明かりが見え、見知らぬ家族が食卓を囲んでいた。
天藍アオイは呆然と自分の掌を見つめていた。
(これは……俺の過去の記憶だ……)
竜鱗を移植するまえ、孤児院で暮らしていた頃の記憶そのままの風景が広がっている。
単なる記憶と違うのは、掌に雪の冷たさや冬の気温を感じることだ。
「どうなさったの? 何かお困りのことでも?」
扉を開けて、若い婦人が現れる。一家の母親のようだが、覚えがない記憶だ。
「手足が冷えてらっしゃるみたい。よかったら中に入っていってくださいな。さあ……」
近づいてきた女の掌は柔らかく、首筋から甘い匂いがする。
天藍は目を閉じ、生物の気配を探る。
香水の香りに隠れて、異質な獣の臭いがする。
「……オルドルか?」
そう問いかけると、優しげな女性の顔面から表情が消える。
「……ふん、ま、そりゃそうか。ツバキと同じようにはいかないな。騎士とはいえ、君は魔術師なんだから」
金の杖の一振りで幻想は去っていく。
天幕が開くように、周囲の風景が一変する。
目の前に額から鹿の角を生やした少年がいた。
瞳が赤いこと以外は、顔かたちは椿に似ている。
しかし……使う魔術のおぞましさのわりに、穢れを感じない。
天藍の前に姿を現したそれは、不思議と澄んだ表情なのだった。
「やあ竜鱗騎士」
周囲は銀の植物からなる森で、木々は仄かに輝きを放ち、空には星が瞬く。
人食い鹿の森は清浄な空気で満たされている。
「もうお気づきかと思うけれど、ここはヒナガツバキの意識の底の底、夢の中で、魔術師だけが到達できる空間だ」
「ここで何をしてる……?」
「ヒナガツバキの肉体と記憶を再構築してる。作業が終わりしだい、二つはひとつになり、彼は目覚める。簡単でしょ?」
「……それがあの蘇生術のからくりか」
天藍も、死んだ人間が蘇るなどと本気で考えてはいない。人の魂を再生できるなどとは。
それほどまでに過酷な手段を選んだことについては素直に驚嘆に値する。
だが、今生きて動いている《日長椿》のはその残骸のようなものだ。
「まあね。キミはその術式の途中に割り込もうとしたので、逆にボクから引き込んだ。繊細な作業の邪魔をしてほしくないんだ」
「そうか。では俺を巻き込まずに続ければいい」
オルドルはおかしそうに右目、右眉を顰め、左右非対称の表情をつくった。
「ねえ……人の魂はどこに宿ると思う? 脳味噌の中? それとも心? 心はどこにある? 心臓か? おっかしい。少なくともキミたちが認識している《魂》はそこまで厳密な意味でもないだろうに」
オルドルはけらけらと酔っ払いのような笑い声を上げながら、傍らの湖に飛び込んだ。
深く、底の見えない湖だ。
オルドルは水面から両目だけを出している。濡れた長めの黒髪が顔面に張り付き、その間の紅の瞳がこちらをねっとりと見つめている。
枝に止まった鴉が代わりに告げる。
《ついて来るなら来ればいいよ。……あ、一応言っておくけれど、ここはボクの森だ。出口を知っているのもボクひとりだからね》
沈んでいくオルドルを追って、天藍アオイも湖に飛び込んだ。
水に濡れる感触はしない。ただ落下する感覚があり、気がつくと見知らぬ部屋にいた。
明かりはない。
ただの夜の闇の中だ。
屋外ではないし、土のにおいもしない。
狭い空間だ。
普段は意識しなくても闇を見通せるはずなのに、ここでは竜鱗魔術が使えない。
「……オルドル、いるのか?」
呼びかけてあたりを見回すが、魔術師の姿は無い。
仕方なく、じっとしたまま目が慣れるまで待つ。
「きみはだれ?」
声をかけられ、やっと小さな人影に気がついた。
「……お前こそ、誰だ?」
「見えてないの? 机の上に、ライトがあるよ。右手、伸ばして……人差し指にスイッチ。触るだけだから」
小さな明かりがつく。
寝台の上に、寝間着を着た小さな……子供が本を広げていた。
髪の色は黒、瞳も同じ闇の色だ。
それに、顔立ちが……どことなく……似ている。
「僕だよ、天藍アオイ」
少年時代の《日長椿》はおかしそうにそう言った。
~~~~~
ちっぽけな光が机や本、ノートや簡単な文房具、天体の模型などを照らしている。
置かれているものには、理解のできるものもあるが天藍の知識には無いものもある。
それから、寝台がひとつ。
「ツバキ……?」
「正確にはオルドルが再構築中の《日長椿》の記憶、かな。今は八歳くらい。あ……うるさくて、悪いな」
うるさい? そういえば、扉の向こうから、人の声が聞こえてくる。
女のヒステリックな声と、男性の狼狽えたような情けない声……つまり、男女の言い争う声だ。
嘘つき、家族を裏切ったのはあなたのほうよ……とかなんとか。
「あれ、僕の親だ」
女は泣き出したが、相手を糾弾することは忘れない。
男のほうは男のほうで、負い目があるのかまともな反論をする気もないらしい。
とにかく耳障りで、子供に聞かせていい内容だとは思えない。
「……止めてくる。不愉快だ」
「やめたほうがいい」
椿は手招きする。
「ほら。オルドルが君の能力に干渉して、制限してる。その姿じゃ返り討ちだよ」
椿が、天藍の手を取って、広げてみせた。
ふたりの掌はほぼ同じくらいの大きさだった。
見ると、着ているものも変わっている。
シャツと半ズボン、そろいのベストとジャケット……昔、暮らしていた《施設》の制服だ。
オルドルが記憶から勝手に再現してきたのだろう。
「いい格好してるな。シチゴサンみたいだ」
何を言われたのかはわからないが、バカにされたのはわかる。
しかし、額を殴ろうとする拳も小さすぎて、椿の笑いを誘うだけだった。
「まあ、落ち着け。この空間そのものは僕のものだけど、魔術的に支配しているのはオルドルだ。君は竜鱗魔術を使えない、ただの子供だ。もう少し成長して現在の時間軸になったら、君を本体に送り返してみるからさ」
椿の姿が小さいのは、オルドルが再現した記憶が《ここまで》だからだ。
蘇生が完了するには、彼を十五歳の少年になるまで成長させる必要がある。
魔術の片鱗を知っている日長椿になるまでだ。
「……いつまでかかる?」
「さあ……オルドル次第かな。どのみち、外の世界では一瞬の出来事だよ。座ったら?」
妙に冷静な口調に違和感を抱きつつ、促されるまま、寝台に腰かける。
足が床から浮いた。確かに……自分はいま、ひとりでは何もできなかった頃の無力な自分だった。
扉の外からは、あいかわらず耳障りな怒鳴り声が聞こえて来て、気分が重い。
はからずも、他人の家庭事情を覗き見しているのだから当然だろう。
「……毎晩か?」
いい加減うんざりして、天藍が訊ねる。
「大体そう。あの通り、仲が悪くて」
「原因は?」
「さあ……何かな、よく知らない。最初は仲がよかったんだ。でも、ここ一年くらいで段々そうじゃなくなって、とうとうこうなった。たぶん、僕が気がつかなかっただけで……うまくはいってなかったんだろうって思う」
食器か何か……硝子の割れる音が響いて、不躾な会話は中断した。
「眠れなくて、家にある本はみんな読んじゃった」
子供時代の椿は冗談めかして笑う。
子供が読むには難解そうな書籍を握る手には、微かに力が入っている。緊張している証拠だ。
「……怖いのか?」
椿は暗い顔で目を逸らした。
「……怖いよ。この後に起きることもみんな知ってるから」
そういえば父親に捨てられた、といつか言っていた。
母親とも確執があるようだった。
「僕は君がうらやましい……こんな過去なんて、無いほうがいい。君が育った施設ってどんな感じ?」
「聞きたいか? 趣味が悪い」
「いいじゃないか。僕も送り込まれる一歩手前だった」
「……あまり覚えていない。よく思い出せるのは天井だ」
「天井?」
「早く飛びたかった」
子供の目線では高すぎる部屋の天井を見上げ、天藍アオイは右手を翼に見立て、翻す。
椿は真面目な顔で、その軌道を追っている。
施設にいるのは苦痛だった。
孤児院で教えられたことは、三海七天の適合者として生まれたことへの義務と、戦闘のノウハウだけ。戦術と剣術、魔術の訓練があり、どこかにいるはずの生みの親については誰も教えてくれなかった。本当の名前すらも。
漠然と想像するのは、絵本に描かれるような《普通の》家と家族だった。
優しい母親、力強い父親、暖かな居場所……。
でも、少し冷静になればそれは幻想だったと気がつく。
子供を育てられずに、名前も与えずに施設に預けたのだ。そんなはずがない。
夜眠りについて、ふいに心細さを覚えても思い出す光景はなにもない。
いつもと同じ天井が見えるだけだった。
「ツバキ……俺はお前が嫌いだ。昔を思い出す」
出会った最初から、予感があった。あの日、控室に駆けこんできた《日長椿》は昔の自分と同じ目つきをしていた。自分にないものを求めて、みっともなく手を伸ばしていた過去の《天藍アオイ》と。
愛情に飢えた物ほしそうな瞳だった。
「僕も君が嫌いだよ。劣等感を刺激される」
また、激しい物音が響く。椿は胸に強く本を抱いていた。
まるでそれが唯一の盾であるかのように。
「聞きたくなければ、耳を塞いでいろ」
「うん……」
しかし、椿はじっとしたままだ。表情は青く手は力をこめすぎて白くなってきていた。
緊張でパニックを起こしている。
「ダメなんだ……普段は忘れていられるけど……死ぬ度にオルドルが思い出させる。……本当は限界なんだ。もう目覚めたくない」
そのまま夜が明ける。
気が遠くなるほどの昼が過ぎ去り夜が訪れる。
この長い時間を、知識を与えはしても守ってはくれない紙とインクの塊を抱えて過ごすのと、空ばかり眺めているのと、どちらがましだろう。
「何故だ、お前は役目を果たした。竜も死に、マリヤもいずれ死ぬ。応援が来れば必ず姫殿下を探し出す。心残りは無いだろう」
「違うんだ。そうじゃない」
椿は黙り込む。
天藍は自分の両手で、彼の両耳を塞いだ。何故そんなことをしたのか、自分でも理解に苦しむ。哀れみか、それとも……同情か。
部屋の様子はみるみるうちに変わっていく。
整理整頓されていた部屋は段々と荒れていく。そこら中に自分を守るように積み上げられた本の山、投げ捨てられたゴミ。子供は大人になっていく。
自分ひとりすら守れなかった子供から、少年へと……。
「どうしても許せないんだ」
そう言ったきり、不意に日長椿の姿が消えた。
雲を掴むように、掌に感じていた体温がかき消える。
「ツバキ……?」
再生はまだ終わっていない。
扉の向こうから女の声がする。
「何なのよ、その目は……何が気に入らないって言うの! あたしは必死に働いてるっていうのに」
激しい、物が割れる音がする。
天藍は廊下に出た。むっとするいやな臭いがする。
廊下には物が積み上げられて、とても人の居住する空間とは思えない。
「やめて!」と、椿の声がする。
声、というより悲鳴だ。
気配を殺しながら声のするほうに移動する。
少し広い居室も、廊下と同じくらい汚れていた。
キッチンに移動し様子をうかがう。
「お前のせいだっ……!」
散らばった硝子。
生臭さにまじる血の臭い。
女が馬乗りになり、誰かを殴っている。
成長し、十五歳になった日長椿だった。椿の体格なら反撃できる……が、彼はそうしない。だからこそ、あれが母親だと彼は悟った。
「ちがう、ちがうよ……僕のせいじゃない!」
「嘘つき! そう言って捨てたくせに!」
「違う、それは父さんだ! 僕じゃない! ――うっ」
女は抵抗しない椿の首をしめはじめた。
酔っているのか、加減をしらない握力だった。
天藍は自分の両手をみた。まだ子供の掌だ……椿とちがって、オルドルは天藍を成長させなかった。現実で生きている天藍は、再生する意味がないからだ。
少年の体から段々と手足の力が抜けて行く。
天藍は死角から飛び出した。女に力任せの体当たりをして、首を締め上げている腕を外す。
「ツバキ、逃げろ!」
外れた腕を背中側から逆さにとり、締めあげる。
「聞こえてないのか!? 逃げろ!」
その瞳はうつろで、まるでこちらの声が聞こえていないかのようだ。
女の力は存外に強く、拘束は簡単に外されて突き飛ばされた。
魔術もなく、どちらかといえば華奢な子供の体はキッチンまで飛ばされた。
起き上がった視界で、再び女は息子に馬乗りになっている。
『何してるの?』
暗がりからオルドルの声が聞こえる。
『あれはただの《記憶》……いや、僕が保存してる《記録》に過ぎないんだろ?』
「では、このまま見ているだけか!?」
『何を必死になってるのさ……。これは既に決定づけられた過去で、誰にも変えられない出来事なのに』
そうだ。
そう言ったのはほかならない天藍アオイ自身だった。
あそこで苦しんでいるのはオルドルが再生させている記憶……記録にすぎない。
日長椿の過去がどんなものであれ、彼は死んだ。
救われることもないし、救うこともできない。二度と、誰にも。
それは生者の特権だからだ。
けれど、見捨てられない自分がいることを、アオイは自覚した。
救いたい。
肉体の全てと魂を捧げていくのを、見ているしかできなかった。
あの愚かな魔術師を救いたい。
『まったく理解に苦しむが、君は他人が思うほど冷徹ではなかったね。でも大丈夫、もう終わるから』
相変わらず、母親は彼の体に馬乗りになり、暴力を振るっている。
椿は無抵抗だが、手が何かを探っている。
その指先が、床の上に転がっている酒の瓶に触れる。
そこから何が起きるのか、簡単にわかる。
「やめろ……ツバキ」
でも誰にも止められない。
それは過去のことで、全ては日長椿自身の選択だからだ。
「やめろ。お前は戦える、そんなことをしなくても変われる!」
鈍い音がした。
ごつん、とかがつん、といった不快な音だ。
女が倒れる。
倒れてからも、二度、三度と殴りつけ、血の赤が飛ぶ。
女の体は、じきに動かなくなった。
オルドルが囁く。
魂はどこにある……?
脳の中に?
肉体に、それとも心に?
~~~~~
伸ばした指先を、天藍アオイはぼんやりと見つめていた。
その向こうでは血の海が広がっている。
マリヤの胸には魔剣が突き立てられ、生命の灯が消えた彼女の瞳は虚ろに天を見上げていた。
日長椿は全身を銀の鱗に貫かれたまま、地面に横たわってぴくりとも動かない。
あまりにも呆気なく、あまりにも意味のない終わりだった。
これは騎士の望んだ戦いではなかった。
ただ戦いがあって、勝利者と敗者に別れるような……単純に割り切れるものではない。
二人で、別の方法を探そうよ。
天藍にそう言ったのは、その言葉は、誰のためのものだっただろう。
結局のところそれは、そのことを信じたかったのは、他の誰でもない彼自身だったのかもしれない。
だが、こういう結論に至った今は、もうどうでもいいことだ。
時を待たず天藍アオイも自我を失い、人ならざる化け物になるのだから。
「《診断》!」
突然、覚えのある魔力波長を感じ、天藍は目を疑った。
「《止血》、《治療》!」
低く、穏やかな声が次々に癒しの呪文を紡いでいく。
「気分はどうです? 間に合ってよかった」
「お前は……!」
白いローブ姿の後ろ姿が、倒れている二人の傍に近づく。
両手でマリヤの冷たくなった骸を抱き上げ、頬にかかった金色の髪を払う。
ローブは彼女の流した血で赤く染まっていくが、気にもしない。
「マリヤ……結局、私はあなたを助けることができなかった……」
長い指が、彼女の目蓋を閉じさせ、眠りにつかせる。
永遠の眠りだ。
そうした男の反対の手は、水晶の天秤の杖を握っていた。




