竜鱗騎士と読書する魔術師

嘘つきと苦痛と道化と竜

98 僕は僕だよ

　先刻からの雨は完全に上がっていた。

　地面は濡れているが、大した問題にはならない。

　マリヤは似たような風景の続くどこともしれない一角に立ち、周囲に注意深く視線をめぐらしていた。

　銀華竜の知覚は音と温度をとくに良く拾う。

　だがどこを探っても、目的のものは見つからない。

　サイロの上から海市市街地を眺めていた銀華竜が、首をもたげ、こちらに語りかけてくる。

《めんどくさいよ、マリヤ。もういいからさっさと全部壊して、殺してしまおう》

　マリヤの眉間に皺がより、不快さを表現する。

　思考に直接、銀華竜の言葉が送りこまれてくる。

　竜にとっては、言葉や会話もまた魔術の一部なのだ。

「……だめよ。王姫殿下をただ殺したところで、女王国は亡んだりしない」

《そんなことを言って、脅えているのではないだろうな！？》

　銀華は醜悪な顔をマリヤに近づける。

　鉄錆のにおいと熱を吐く竜の口元は、醜く歪んで――それは、笑顔のように見えなくもない。

「いまさら何に脅えるというの？」

《お前はいつだって脅えている。人を殺すことを、躊躇していたではないか！》

　銀華は地上に降りると、その巨躯を振り回した。

　長い尾でマリヤを吹き飛ばす。

　防御姿勢もろくにとらないまま、彼女の体はむき出しの鉄骨に打ちつけられる。

　背骨が折れる音がした。

　だがマリヤは呻きもしなかった。五分もすれば銀華竜の力によって傷は癒える。

「……躊躇もするわ、貴方たち本当に考えなしなんだもの」

　彼女は鉄骨に寄りかかったまま、銀華を見上げる。

《何！？》

「暴力はただの手段にすぎないわ。向こうだってそんなことは承知の上よ。……人はね、貴方たちよりもっと愚かで、どこまでも恥知らずになれる生物なのよ。星条百合白のようにね」

　銀華竜は尻尾をくねらせているだけで返事がない。

　その感覚器官は、別の場所に注意を払っていたからだ。

　マリヤは路地の向こうに目をやった。

　鉄塔の群れの向こう。

　暗い路地の影に紛れるように、ある人物が立っていた。

　マリヤは最初、ただの少女であるかのように驚いてみせた。

「まあ……あなたが来るというのは、少しだけ意外でしたわ」

　その演技がリブラの娘、《マリヤ》の演技を引きずり出す。

　そこには少年が立っている。ボロボロの蒼い服を着た傷だらけの少年だ。

　右手に金杖を落とさないよう括りつけ、路地の真ん中に立ち尽くしていた。

「マスター・ヒナガ……いえ、そうではありませんわね。私はあなたが真に何者なのかを知っています。私があなたを殺したことも自覚しています。でもだからこそ……」

　マリヤはそっと目を細めた。

　俯いた少年の表情を少しでも読み取ろうとするように。

「理解できませんわ。貴方には、ここに来る理由はないんですもの。……しかも、たったひとりで。いったいどうして？」

　殺された恨みだとしても、今のマリヤは単なる殺人者というにはあまりにも巨大すぎる存在に過ぎた。

　例えるなら自然災害のようなものだ。

　台風や津波に殺されたからといって、それらそのものに復讐しようとする人はなかなかいない。できて、自分を責めるだけがせいぜいだ。

　風はないが、少年の髪がなびいていた。

　魔力のうねりが、彼の周囲にあるあかしだ。

　竜の瞳は、その虚栄の魔術を見抜いている。

　この空間に存在する何かが魔力の源になっているとマリヤの竜の部分が告げる。

「……それとも、あなたは……もう師なるオルドルと一緒になってしまったの？　あの人食い鹿と……それなら、いくらか納得できますわ」

　言葉は聞こえているはずだが、その瞳はうつろで……マリヤはほんの少しだけそら恐ろしいものを感じていた。

　彼が《師なるオルドル》だと気がついたときから、予感はあった。

　青海文書の優秀な読み手になるためには、言うまでもなく高い感受性が必要だ。そして、登場人物と共感し続けるための精神力……そこには無意識のハードルがある。

　マリヤとサナーリアは《竜に親しい人々を殺された》という悲劇で繋がれている。

　竜への憎しみと、家族を失った悲しみ。それはマリヤから奪い取れない一部で、共感が解けることはほとんどないといっていい。

　では、《師なるオルドル》は？

　マリヤは彼が師なるオルドルの読み手でありながら《普通》であることが今も理解できないでいた。

「僕は、僕だよ」と少年は言った。「僕は日長椿だ」

　まっすぐにこちらを見つめてくる。まるでただの、苦痛に喘ぎ、困難に立ち向かおうとする当たり前の少年であるかのように。

　マリヤは鉄骨から降り、銀華に目で合図をする。

《会話をする。光輝の魔女の力を弱体化させるためだ》と。

　銀華は身じろぎもしないでいた。

「まだ学院の教師のふりをしているんですの？　それは紅華が貴方に与えた仮初の役割に過ぎないのに」

「それでも、僕は、それが嫌いじゃなかったよ。……君はイヤだったの？」

「何が？」

「リブラのそばにいることだよ」

　的確な質問だと、マリヤは思った。

　青海文書の読み手である上で適切な才能だ。

　人間関係の機微ほど人の心を動かすものもない。

　マリヤの心には、今でもあのブラウンの髪の柔らかな手触りや、本当の家族のように優しく微笑みかける眼差し、暖かくて大きな掌の感触……すべてが残っている。

　彼を自らの手で殺しても記憶までは消せなかった。

「愛していたわ……だから、五年待ったの」

　だが、所詮その程度の関係性でしかなかった。彼はマリヤに復讐や怒り、恨む心の全てを投げ打たせてくれる人ではなかった。

「私のことより貴方よ。貴方は自分の異常さを理解していますの？」

「僕の、異常さ……？」

「そうですわ。私はオルドルの物語を知っています。でも、こんな魔法を手に入れる者はいないだろうと考えていました。だって、そうですわよね？　いったい誰が……おぞましい《食人》を繰り返す化け物と《共感し続ける》ことができるの？」

　オルドルの憎悪は己を殺した者への怒りに由来するものだ。

　決して自身の罪を悔いていない。何故、己が息子から剣を向けられ、罰を受けたのか理解していない異常者だ。

　それなのにヒナガ・ツバキは《オルドル》と同調し続けている。

　見た目は、ただの少年だ。

　凡庸でありふれていて、意志もさほど強くなく肉体も頑健とは言い難い。

「あなたは、いったい何者なんですの……？」

　少年は、困惑した表情をこちらに向けていた。

　質問の意味がわからない、とでもいうような、そんな表情だ。

「まさか、自分で自分のことがわからないのに――オルドルに共感しているの……？　本当に……？」

《まだるっこしい。マリヤ、もういい。殺しちゃおう》

　銀華が、殺戮を求めて身体をくねらせる。

「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」と、少年は呪文を紡いだ。

　その足元が輝き、小さな銀の植物が煌めきだした。

　オルドルの森の再現……。

　マリヤはサナーリアの杖を取り出し、強く握りなおした。

　オルドルの記述はごく短い。

　けれど能力がはっきりとせず、登場人物として厄介な書かれ方をしている。

　侮りはしない。

　確実にここで排除し……そして。

　彼女は心に誓う。

　必ず《五年前の真実》を探し出す。

　それが五年間、彼女を苛み続けた願いだった。