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竜鱗騎士と読書する魔術師  作者: 実里晶
嘘つきと苦痛と道化と竜
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96 希望、引き裂かれてなお果てる事なき -4

 冷たい石畳の路地。


 しんしんと降り積もる雪の冷たさが、靴の裏から這い登って来る。

 天藍アオイは一軒の家の前に立っていた。なんでもない、どこにでもあるような、風景に埋没してしまいそうな、ただの家だ。

 そこでは彼は騎士ではなかった。

 両手も両足も小さく、頼りない、ただの少年。ただの子供だった。

 彼は小さな手を、そっと窓の光に手を伸ばした。

 その向こうには穏やかな団らんがあった。

 ひとつの家族と、ひとつの食卓だ。


 薄い硝子一枚を隔てたその向こうに、自分には無かったものがすべてそろっている。


 次の瞬間、掌が紅い血で染まった。

 彼は自分の体内から熱く噴き零れたそれが何であるかわからず、しばし呆然としていた。

 足元には流れる鉄の大河と大穴があり、指先はその下へと落ちていく灼熱の滝へと伸ばされていた。


「どうなさったの? ……あなたらしくもないですわね。竜鱗学科の天藍アオイといえば、非情で孤高の一匹狼という評判でしたのに」


 マリヤが驚いたように呟き、剣を回して、引き抜く。

 空気を入れ、致命傷の一撃とするためだ。

 口元から蛇口をひねった水道のように、血が溢れる。

 マリヤの突き出した剣は、装甲の隙間から……背中から腹までを貫いていた。

 さきほど頭に過った光景は走馬灯のようなものと知り、口の端から血を吐きながら、彼は皮肉げに顔をゆがめた。

 孤児として生まれ、ずっと、死に際して思い出すべき記憶は存在しないと思っていた。

 親の顔も見たことが無い。友人も仲間もいないのだから。

 それなのに、見た。

 あの寂寥とした風景をだ。


「ぜひ、聞かせてほしいわ。私には不運を恨めと言い、彼には手を伸ばそうとした……そこにはどんな違いがあるのか……あの、どうみても温室育ちの生ぬるさ。貴方にとっては唾棄すべき弱さではないの?」

「……そのとおりだ」

「ではなぜ? あなたも、仲間や友情といったものに心を預けることがあるとでもいうの?」

「知らないものに、何かを預けるなどできるものか……」


 彼は忌々し気な表情を浮かべる。

 何故、新人でもしないような間違いを犯したのか、自分でもわからない。

 気を抜いていい戦いではなかった。

 どんな一瞬にも駆け引きがあり、《死線》があった。

 マリヤには剣の技はない。だがその内側には竜が棲んでいる。

 それでも剣が離れたとき、天藍はマリヤから気を逸らしてしまった。

 あれだけ熱望していた闘争がそこにあったのに、それは指先をすり抜けて行った。


 彼は落ちて行く日長椿を《救おう》とした。


 それが命とりだった。



《僕には君の魔術が……強さが必要だ、アオイ》



 震える声を覚えている。

 あいつは、勇気があるのか無謀なだけか、その両方か……理解不能だ。おそらくそのどちらでもあるのだろう。ときに恐るべき度胸で魔法の技を披露したかと思えば、すぐに足手まといになる。それでもここに連れてきたのは……ばかばかしいことに、その可能性を信じたいと思ったのは、少年の横顔に同じ孤独を見たからか……。

 天藍は痛みに苦鳴を漏らそうとする唇を固く結び直した。

 悲鳴を上げても、死の運命は変えられない。

 マリヤの質問には答えないまま、振り返り様に剣を振り下ろす。

 その刃は、マリヤの素のままの掌に止められていた。

 フラガラッハは白銀の力を失い、黄金の木偶へと戻っていた。

 その主たる日長椿との繋がりが一時的に切れたからだ。

 魔力を供給されない魔剣は、敵を断つことはない。

 がっちりと掴まれた剣から手を離し、手刀を繰り出す。

 マリヤは首を傾け、軽く躱す。

 傷のせいで、正確さを失っている……が、その頬が薄く切れて、血を流す。

 マリヤは瞬間、怒りに燃えた表情で頭部を覆う仮面を掴んだ。

 騎士の背中に銀鱗が殺到し、針ねずみにする。

 仮面の下には苦悶の表情があるだろう。それを見届けて、やっと、彼女は果ての無い憎悪や怒りが少しだけ慰められる気配を覚えた。


「答えるつもりはないと……まあいいわ。気にくわない存在ですものね、あなたも、彼も。それに、やっとこうしてあなたに触れることができましたわ」


 彼女はそれまでの力強さをなくした頭部を片手で空中に吊り下げたまま、その心臓の上に手を重ねた。


「わかるでしょ? これがサナーリアの魔法の、最初の発動条件です」


 相手に直接触れること。

 あとは、その力で殺した死体が魔法を広げて行く。

 マリヤは銀鱗を取り出した。


「《昔々、ここは偉大な魔法の国》……」


 呪文を唱えると同時に銀鱗が消え、心臓に鋭すぎる痛みが走る。

 物の移動に特化した魔法。

 それだけならただ単純で弱いだけの魔法を、彼女は憎しみのためだけに、必殺の、人殺しの魔術へと昇華させたのだ。

 苦悶に身悶える体を、少女は愛し気に抱きしめた。


「ありがとう。あなた自身にはなんの恨みもありませんけれど、それでも、竜鱗騎士団のひとりであることには変わりありませんもの。貴方の呼吸が絶えたなら……少しは安らかな気持ちになれるでしょう……」


 痙攣が止まる。竜騎装が砕け、その下の素顔が露わになる。

 胸からは銀の鱗が突き出し……純白の騎士は、そこにはいなかった。

 髪の色は、黒。

 生命活動が止まり、竜鱗の力を失った騎士の素の色だ。

 どこまでも戦いを求める獰猛な魂は、消えていた。

 彼女の腕に抱かれているのは、傷つきはて、命まで失ったただの若者だ。


 マリヤはそっと両手を離す。


 孤独な騎士の体は燃え上がる銀華竜の息吹の溶鉱炉へと飲み込まれていった。



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