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九月上旬、昼の陽の暑さが嘘のように、半袖で出歩くには少し肌寒いであろうと思われる夜中一時半。
アパートにやって来た男は、しかしまるで真冬かと思う程の暖かそうな茶色いコートを着、だというのにガタガタと震えていた。
「入れよ、お茶でも淹れる」
覗き穴から相手を確認してから扉を開け、部屋の中に促す。
荒い呼吸を肩で繰り返し、視線はわずかに下を向いたままボロボロのスニーカーを脱いで、大人しく俺の用意した座布団の上に腰をおろした。
彼は何も喋らず、その呼吸音と俺が緑茶を用意する音だけが狭い部屋の中を満たす。
沸騰した事を知らせる甲高い音を響かせるのが嫌で、それは付けず、おまけに沸騰する少し前に火を止めた。
「はい、カザキ、」
薄らと湯気の立つ湯呑を彼の前に置き、テーブルを挟んで反対側に自分も座る。
「カザキ」
話を促すように、名前をもう一度呼んだ。
「やってやった」
彼は小さな声でそう呟いてお茶を一口啜る。長い袖から覗いた震える指先は、わずかに黒ずんでいるように見えた。
「殺ってやったんだ」
もう一度呟き、カザキは自分の顔を手の平で覆う。テーブルに戻されなかった湯呑みがカーペットの上を転がり、緑色の染みが広がった。
大声で泣くと。
そう思った。
さらさらと額を滑る彼の美しい髪は人工の物だ。髪だけじゃない、その肉体、眼球や爪に至るまで、その全てが人の手でつくられた。アンドロイドと、呼ばれる物だろう。
その心や感情さえつくられた物なのかと思うと、彼の叫びはどこへ行くのかと考える。
「愛していた」
「ああ」
カザキは少しも声を荒らげる事なく、また小さくそれだけ呟いた。
「愛されてもいたんだ、確かに」
「ああ」
相槌を打つ事しか出来ずに頷く。
彼が製作者から主人の元へ渡ったのはいつだったか。
言わなければ解らない程に良く出来たアンドロイドは人肌を持ち、本物の人間のような細かな感情があった。近頃ではそれは、珍しい事ではない。
雑用として買われた機械人形は“カザキ”という名を与えられ、プログラム通りに主人の言う事をよく聞いた。そしてそれだけではなく、相手の感情の機微を感じ取る事の出来るアンドロイドは自分で考えて行動し、主人に今一番何が必要かを常に考えていた。
しかし、そればかりを考え自分の事は後回しにするカザキに、主人は時々困ってもいたという。
ある雨の日、主人に傘を傾け、自身の身体はほとんど濡れてしまっているカザキに『びしょびしょじゃないか』と。
防水してあるから平気だし、風邪もひかないと返せば、そういう問題ではないのだと笑われ、半分ずつになるように傘を優しく押し返された。
――矢城、私はあの時、とても嬉しかったんだよ。ああ、この感情も、プログラムされたものなのかな。
俺に、答えられる訳が無かった。
人間の俺に答えられる訳もなく、また、適当な事も言えず。
喜びと悲しみが混じりあうその表情を見つめる事しか出来ないでいた。
「人の心は何故こうも移ろいやすいんだ」
顔をおさえた指の隙間から声がもれる。
「何故正臣は信じてくれない」
主を名前で呼ぶアンドロイドは、きっと珍しい。また、自身を買った者と同等の扱いを受けるアンドロイドも珍しいのではないだろうか。
――柳様に、名前で呼んでくれと言われたよ。敬語も止めて欲しいと。命令ではなく、お願いだと。私には違いが解らないんだ。主を名前で呼んでも良いものかな?
その後、迷いに迷い、結局今まで通り“柳様”と呼べば、彼の主人は寂しそうに眉を寄せ、名前で呼んでくれと言わなくなったという。
――やっぱり呼んだ方が良かったのかな。でももう今更だろう?
正臣、と。
彼がその後に呟いた主人の名に含まれる感情はとても優しいものだった。
アンドロイドが持つ心の豊かさに、俺はその時心底驚かされた。まるで、本物の人間のようじゃないか。
――主の前で、名を口にしたよ。とても喜んでくれて、もう一度呼んでみてくれと言われた。何故だろう矢城、正臣の笑顔を見て、私は泣きそうになったんだ。
私をつくった君の父は凄いね。
こんな事までプログラミングするなんて。
カザキはそう言ったけれど、俺は違うのではないかと思って仕方なかった。
それを言えば彼は混乱するだろうと思い、その考えを口にする事はなかったけれど。




