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3 潜入


 そういったことを思いながらも、俺は獲物に手出しをできずにいた。中途半端に人目や車の往来があって、好機が訪れない。

 俺は微かな焦りを覚える。

 ぐずぐずしていては、獲物に逃げられるかもしれず、あるいはよその猛獣に獲物をさらわれるかもしれない。


 と、獲物の歩調が変化した。出し抜けに道から外れて、わき道に入っていく。そして、建物の中へ消えた。

 気づかれた様子はない。すると、ここが獲物の住処か。

 なるほど。

 俺は足を止めて、呟く。獲物の穴蔵を見据えている。

 マンションであった。

 中級から中の上級に属する社会的地位と収入のある人向けのマンション。つまり、俺みたいな人間には一生住むことが叶わない場所。

 恐らくは都心で働く独り者の女性専用。そんな感じがした。建物の外観は、堂々としながら、全ては整頓とされ、小綺麗で、柔らかい色合いをしている。

 獲物の巣穴だ。その匂いを放っている。

 だが、堅固なセキュリティーが構築されたマンションであることを、俺は見て取った。

 狩人から身を守るために、獲物どもは身を寄せ合っているわけである。

 どう攻めようか。

 束の間思案したそのとき、巣穴の玄関先で蛇が鎌首を持ち上げた。

 俺の狩人の本能が叫ぶ。危ない!

 いや、蛇ではない。玄関先に設けられたセキュリティー・カメラであろう。

 立ち止まっている人間は目立ちやすいのだ。俺は意識して足を動かし、マンションから顔を逸らして、ひとまず通り過ぎる。

 俺の心臓が嫌な感じに跳ねている。背中に視線を感じた。

 俺の動きをセキュリティー・カメラの電子の眼が追っているのだ。敵の視線だった。

 顔を見られてしまった。今のセキュリティー・カメラは能動的学習システムが組み込まれているものなのだろうか?

 だとすれば、後々、警察がプロファイリングを行い、モンタージュを合成する際に、今の映像が使用されてしまうに違いない。


 俺の手足から力が抜け、心が萎える。

 マンションから一ブロック進んだところで、俺は立ち止まって電信柱に肩を預けた。

 俺の背後で、マンションは燦然と輝いている。夜空をバックに、存在感を示し、支配権を強調している。実に傲慢な見た目であった。

 獲物があの中でのさばっているのは分かっている。

 それを知りながら、俺は何も手を打つことが出来ない。

 巣穴に閉じこもっている獲物にを、口惜しげに指くわえて眺めているばかりなのである。

 そんな弱気な狩人がいて堪るか。英知でもって、あるいは勇気と力でもって困難を克服できないで、ジャングルの人間を語ることはできない。

 俺は歯を食いしばる。血が沸騰するような気がした。

 拳を握り、それを真横へと振るった。

 傍らに立っていた電信柱が俺の裏拳に強打された。頭上で電線がたわんで、揺れた。

 なめられることはできない。

 法律的な問題はおろか、道徳さえもどうでもいい。

 肝心なのは獲物に食らいつくことができるかどうか。ジャングルで重要なのはそこなのだ。

 なめられれば、待っているのは惨めな飢え死である。食うか、死ぬか、その二つである。

 俺は食うぞ。ああ、俺は狩人なのだ。食わずにいられるか。

 俺は狩人であり、そのことに異議を唱える権利は誰にもない。否定するとなれば、なおさらだ。

 もう恐怖心を感じることは無かった。俺は弱さと決別した。臆病で弱い俺は消えたのである。





 俺は傍らの電信柱に手を伸ばす。

 電気工事のため設置された手すりを掴んで、身体を引き上げる。電信柱から、住宅をそれぞれ区切って囲う、ブロック塀の上へ飛び移った。

 音を立てないように、ブロック塀の上を進む。物音をたててはならない。獲物や他の動物を警戒させてしまう。

 音もなく巣穴に忍び込み、眠りを貪る獲物に槍を突き立てる方法を見つけるのだ。

 ゆっくりと塀の上を進み、暗闇の中を進む。周囲の住宅から食器の触れ合う音や、家族団欒の笑い声、テレビから流れる安っぽいメロディーが流れている。

 闇と騒音が俺の姿を隠してくれていた。

 行動しているうちに、感覚は研ぎ澄まされる。頭はかつてないほど回転している。

 塀を進むうちに、俺はマンションの裏手へとたどり着く。

 ここから、敵の巣穴に忍び込む方法はないものか?

 マンションの正面に駐輪場やゴミ捨て場といったものはなかった。そういったものへアクセスするために、裏口が設けられているかもしれない。俺は眼をこらす。

 だが、そこでも、蛇の鎌首が辺りを警戒しているのが見えた。裏口もセキュリティー・カメラに守られているのだ。周囲は薄暗いが、カメラは赤外線波長で走査をしていることだろう。

 くそっ。

 現代のセキュリティーの前に、狩人は無力だというのだろうか?

 いいや、そんなことは認めない。

 俺の極めて鋭敏となった感覚器が方法を見つけだす。

 雨樋。マンションの側壁に雨樋が縦に設置されている。

 華奢な作りだ。俺の体重に耐えることことができるのか分からない。だが、試す価値は十分にある。

 俺は塀の上で身をかがめる。全身のバネを意識し、一気に力を解き放った。

 俺の身が夜気を裂いて、マンションの側壁に届いた。雨樋にしがみつく。

 雨樋はきしんで、抱きついた管が腕の中でたわむのを感じた。だが、それは持ちこたえた。

 俺はよじ登る。つるつるした表面に取っかかりはなく、壁面と雨樋を繋ぐジョイントは鋭利な金属で作られていた。ジョイントに指をかけて、全体重をかけると、指に鋭い痛みが走る。

 ぬるぬるとしたものが腕を伝う。血だ。

 これは都合がよかった。血が滑り止めとなって登りやすくなる。

 俺は登る。


 どれくらい登っただろう。苦しい行程の中、時間を長く感じて、その尺度は無意味であった。

 辺りは暗く、狩人は腹を空かしている。大切なのは、そこだ。

 俺はバルコニーにたどり着き、身を引き上げる。コンクリートの床に足を着け、息を整えた。五階に相当する高さまでよじ登ってきたようだ。

 壁に身をすり付け、大きな窓ガラスへにじり寄って行く。

 窓の向こうには花柄のカーテンが掛かっているが、わずかな隙間があった。

 俺は一切の物音をたてないようにしながら、隙間を覗いた。

 部屋は白い明かりに包まれている。

 一人暮らしの若い女性の部屋と聞いて、想像するような部屋があった。

 モダンで趣味のいい家具類、考え抜かれて配置されたインテリア。居心地のいい空間が作られている。

 部屋の真ん中に置かれたカウチの上、こちらに背を向けて座る女の姿。

 部屋の奥の壁掛けテレビで、韓流ドラマか何かを観ているようだ。

 後ろ姿しか見えないが、まず間違いないだろう。獲物だ。

 見忘れることはない。その姿は、俺の脳の視覚野に鮮明に焼き付いている。

 俺は窓ガラスから身を離す。

 この窓ガラスには鍵がかかっている。割って入るのも不可能だ。ガラスは、このマンションのセキュリティー規模から考えて、強化ガラスであろう。ガラス内面に補強材としてシランカップリング剤がメッシュ状に組み込まれていて、バットやハンマーでは勿論、拳銃弾でも貫通もできないという。

 他に道はないのか? 俺はベランダの闇の中を進む。


 道はあった。

 バルコニーから離れた壁面に、トイレ用か風呂用の小窓が口を開けているのだ。

 間抜けもいいことに、窓には鉄格子すらついていない。

 マンション設計者はテクノロジー面の防備を過信しすぎたのだ。

 快楽と怠惰にまみれた獲物。食ってくれと言わんばかりの油断。

 望み通りにしてやろう。

 俺はバルコニーの端で身を屈め、跳躍した。

 小窓に指が届かなければ、俺の身体は眼下の路面に叩きつけられて即死するだろう。

 だが、俺は大胆な気持ちになっていた。失敗する気もしなかった。

 俺の身が闇夜を疾り、小窓の縁に指がかかる。全体重がそこに加わった。

 肩の関節に鋭い痛み。俺はそれを無視しながら、前腕と上腕二腹筋に力をこめ、身を持ち上げる。身体を丸めると、一息に窓をくぐった。

 そこは風呂場だった。

 俺は音もなくバスタブの上に足を置く。

 風呂場はつい今しがた使用された痕跡があり、壁には水滴、空気中には湯気とシャンプーの香りが残っている。

 いよいよだ。いよいよ獲物に手が届く。リビングに寝そべる獲物は無防備だ。

 この、セキュリティーに守られたマンションは、狩人の食卓と早変わりするのだ。

 俺は壮絶な笑みを顔に、風呂場を出た。

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