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2 追跡


 今まで、間違っていた。


 俺は獲物の追跡を開始する。


 今まで、よき社会人などと言う、案山子に化けているのがよくなかったのだ。

 俺の中には、生まれてから、ずっと怒りが蓄積していた。

 怒りの原因は些細なことだ。社会の小さな枠にはめられる怒り。安月給でこき使われ、飼われることに対する怒り。

 排出口のない缶の中に汚水が溜まっていくようなものだ。そして、ついに内圧に耐えられずに缶は破裂した。

 今朝、俺は職場でぶちキレた。社長にくたばりやがれ、と怒鳴った。その後で社長をぶん殴った。

 後悔はしていない。自らの尊厳を守るための、セルフ・ディフェンス・メカニズムが発露しただけのこと。

 にもかかわらず、俺は不安になってしまった。社長を殴ったことで、給料を減らされたりしないかビクビクしていた。

 そのことに驚き、ムカついた。俺は、自分のことをもっとタフな奴だと思っていたのだ。

 だから、酒を飲んだ。馴染みの赤提灯に入って、しこたま酒を流し込んだ。


 だが、結局のところ、酒を飲むだけではダメなのだ。真の問題は、より奥深いところに存在する。

 それを駆逐しないことには、俺が人生に対して望んでいるエンド・ポイントが達成されることはない。俺は満足感を得られない。

 俺は自らをレベル・アップすることができないのである。


 社会が合わないのだとすれば、社会を投げ捨ててしまうしかないのであろうか。

 無人島へ、砂漠の果てへ、南極ないしは北極の氷の中へと引きこもって、一匹の獣として生きるしかないと言うのか。

 そんなことはできはしない。

 俺は何とかして、荒ぶる血を静める方法を探さなければならなかった。

 たぎる衝動を抑えるのである。

 ストレス発散には、なにが有効なのだろう?

 一人でカラオケ? 深夜の首都高を暴走? コンビニで買ったルーズリーフの束をシュレッダーにかけること?

 いや、そんなことではダメだ。そんなものでは狩人の血の衝動を静めてくれる類の刺激ではない。

 静めようとするのが間違いだったのだ。


 今、OLが前を通り過ぎたことで、自分が何かを自覚した。

 相手が獲物であることも理解した。

 この世の人間は、すべからく、プレイ(獲物)とプレデター(捕食者)に分けられなければならないのだ。

 女の後ろ姿を見ながら、俺の内部がめらめらと燃えている。これは、魂の炎。

 理解が、俺の内なる炎を燃え上がらせている。

 血管の中を循環しているアルコールが燃料となっている。


 これからやることを想像して、俺の頬の肉が持ち上がる。ぞくりとした感じの愉悦が身体を通り抜けた。

 人間たるもの、やはり対人関係を重視するべきなのだ。

 より直接的な、コミュニケーションを頭に描く。獣性を使用するのだ。

 狩人として、獲物にやるべき事を行おう。


 獲物と俺は繁華街を抜け、住宅地へ入っていく。

 住宅地という名の、俺の狩り場へ。

 俺の斜め頭上で、街頭がチカチカと瞬いた。その下に張られた大きな蜘蛛の巣が繊細な刃の様に煌めく。

 俺は距離を取りながら獲物を分析する。その歩き方から獲物の潜在性を見通している。女はヒールの高い靴を履いているにも関わらず、アスファルトの上で靴音を響かせない。何らかの歩法によるものだろうか。

 獲物の体は、いい感じに引き締まっている。

 球技のような動的スポーツか、ヨガのような静的スポーツか、自己節制によるものか。

 これらの情報から導かれる、獲物の反応性の良さそうな肉体を思って、ゾクゾクしてしまう。

 その身体をどうしてやろうか。どういう体位で事に及んでやろうか。どんな下着をはいていることだろう。

 狩人は綿密なシミュレーションを怠らない。


 俺には望むことを成し遂げる力も備わっている。

 俺は戦うことができるのだ。俺は拳を握った。

 必要だったのは、ほんの軽い一押し。狩人としての自覚だけだった。


 俺は、子供の頃から、学校の授業で教えていただいた護身術という奴には全く信用を置いていなかった。代わりに、もう少しオリジナリティのある、アグレッシブな戦闘技術という奴を身につけてある。

 俺は昔より、無意識のうちに狩人として戦うための道を歩んできたわけだ。俺は過去が現在に繋がっていることを強く意識する。

 自身を鍛えることは、いわば、石槍の穂先を磨く作業であり、そういった準備が、密林でサーベルタイガーと出くわしてしまった際に、あるいは獲物であるカピパラの背中へと忍び寄るといったシチュエーションで役に立つものであるのだ。

 そういうわけで、俺の肉体は鋭く研磨された、磨製石器の槍先と同じレベルに鍛えられていた。


 ちなみに、俺が得意とする格闘術は、ブンチャック・シラット。

 これは、まさに俺向きの格闘術と言わざるを得ないものである。その正体は、インドネシアで発展した、非常にマイナーでミステリアスな格闘術である。

 だが、それがよかった。それが俺向きなのである。

 まず第一に、インドネシアという国に、強烈な懐かしさを覚える。日本から一度も出たことのない俺が感じる懐かしみ。これは、もう、遺伝子に刻まれた記憶としか言いようがないではないか。

 そう、インドネシアはジャングルの国である。

 東南アジアに国は数あれど、インドネシアは実に魅力的でもあった。

 頭が空っぽな某国人や変に獰猛な某国人と比べ、インドネシア人の心の底には深いものがあるように感じる。

 まあ、これは漠然としたイメージであって、ニュースフィードを紐解けば、いろいろと大変だと噂が伝わってくる。

 そんなことは、どうでもよかった。俺が気にするのは、第三世界の稚拙な経済状況ではなく、精神的なもの。ジャングルの奥深くに渦巻く、緑色の狩人の本質なのだから。


 いまや、完全に狩人として覚醒した俺は、獲物の追跡を続けている。獲物に悟られないよう、目立たないように歩いている。荒れ狂うオーラの放射を抑えた俺は、ステルス・モードだ。

 もうすぐだ。25メートルの間を置いて、絶好のタイミングを舞っている。

 笑みが頬に上るのを抑えきれない。どう狩ってやろうか。どこで料理してやろうか。

 人目につかないところで、一瞬でことを済ますの大切であった。

 のんびりすることはできなかった。狩人はいつだって迅速に行動するものだ。

 スピードが鍵である。瞬時に、決定的に、美味そうで、柔らかそうな腹に、太股に、かじり付く。

 獲物は抵抗するだろうか?

 するだろう。いかに惰弱な獲物とて、無抵抗でこちらに膝を屈してくれるとは思えない。

 何が起こるのか予測など不可能であった。ジャングルの中で油断はできないのである。

 そもそも、現代社会というのはジャングル的な傾向があると思っていた。コンクリートのジャングルなのである。


 今時の人間は、様々な技術や知識を持っている。防犯ブザーや暴漢除けスプレーを装備している可能性がある。

 あるいは、獲物なりに護身術を身につけているかもしれない。

 獲物がブンチャック・シラットの使い手である可能性すらあった。この武術は、優秀な護身術なのだ。

 ワイドショーやインターネット・アーティクルによると、極マイナーな格闘術であるはずのブンチャック・シラットが、最近密かな人気を集め、都内でも数カ所の道場が作られているとのことである。

 全く、流行が自分に追いついて来るというのはムカつくものだ。

 個人のオリジナリティとユニークさといったものが、大衆のミームに飲み込まれて、かき消されるなどということには、我慢がならない。

 協調性というのは農耕民族のためのものであり、狩猟民族には無用なものだ。

 護身のために、ちょろっと格闘を習おうという、その性根にも反吐が出そうだ。

 身体の鍛錬は、心の鍛錬。格闘術とは、生き方そのものである。


 俺は、長年の修行のおかげで、武術の神髄というものを体得していた。

 インドネシアの武術であるブンンチャック・シラットは肉体と精神を鍛えるのである。

 心豊かに生きる心構えを教えてくれる。学ぶ者の健やかで健全な精神を育む武術であった。

 実際、ブンチャック・シラットの使い手である俺は、実に健全な精神の持ち主である。

 欲望という名の、数万年前から人間が保ってきた本質に身を委ねようとしているのだから。

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