世界で一番おいしい肉
たまには短編を。
わたしの家の裏に、とてもとても大きな山がそびえ立っていました。この山には名前がついているらしいのですが、わかりません。両親と違い、わたしには特別な感情やら感慨もないので、ただ、山、としか呼びませんでした。
四季により顔を変える大きな山。すがすがしい風でいろいろな香りを運んでくれる。時には怒り、時には糧をプレゼントしてくれるありがたい山だと両親は言うのですが、わたしにとってはただの山なのです。
そんな山の中腹に父親が所有する野菜畑があります。生活を支えてくれる大切な畑でした。畑まで、片道ニ時間はかかります。そんな遠くまで、父親は生活のためとはいえ、毎日通うので頭があがりません。
ある日、母親が、「お父さんが弁当を忘れて行ったの。だから届けてちょうだい」と言いました。時間を見ると午後一時。きっとお父さんはお腹をすかせているでしょう。まだだとしても、届けるころには三時になります。それはあまりにもかわいそう。大好きな父親のためなので、わたしは心よく引き受けました。ところが……。
「ひとりで行くのは危ないから、お兄ちゃんといっしょに行きなさい」
このひとことで、わたしの気持ちはいっきに沈みました。五つ違いで、今、中学三年。これがひどい兄なのです。何かというと手を上げる兄なのです。
いやなことがあって、わたしがメソメソすると「こんなことで」と頭を叩かれ、寝坊すると「だらしないぞ」と叩かれ、暗くなるまで遊んだら「何時だと思ってるんだ」と叩かれ、なにかにつけてぶたれました。
兄は最近、腕や脚、身体全体が太くなってきて、軽く叩かれるのも苦痛なのです。それに妙な色気もついてきて、髪も伸ばしています。アア、気持ち悪い。
そんなものですから、いっしょに行くのはとてもとてもイヤだったのです。
ひとりで行ったほうがいいと思い、母親に相談したのですが、もちろん却下されました。
父親のためにどうしても行かなくてはならないので、しぶしぶ、従うことにしました。
●
わたしたちは、父親の弁当を持って山の中へと足を踏み入れました。
ある程度、道が整備されているとはいえ大きな石や雑草が生い茂り、かなり歩きにくいため、いっこうに前へと進みません。何回か通ったことのある道なのですが、やはり山は生きているのでしょう。木の枝が伸び、草が伸び、それらが道を変化させ、新しい場所を通るような感覚でした。もしも、わたしひとりで山へ入ったのならば、うす暗くなる帰り道、迷った可能性もあります。それを考えると、少しだけ、兄に感謝の気持ちがわいてきました。
わたしが不安そうにしているのを気づいてか、気づかないでか、兄がひとつの提案を出しました。
「このままじゃ、かなり遅くなってしまう。ボクは近道を知っているんだ。そこを通っていこう」
わたしもそれを懸念していたので兄の提案を受け入れました。もしも兄の案を拒否しても、叩かれるのがおちですから……。
兄の言う近道はとても険しい道でした。足や手に絡み付いてくるツタ。グズグズにとろけそうなほど柔らかい地面。身体をこすりあわせてトウセンボをしている木々。ここを道と呼べるのかも疑問でしたが……わたしたちは父親のために一生懸命足を運びました。
わたしは何度も何度もつまずき、膝をつき、転び、そのたびに兄に殴られました。
何度殴られたかわかりません。
山に入ってどれくらいが過ぎたでしょう……。
陽は斜めに傾いています。ときどき枝葉に隠れる太陽。それでも熱量などから午後三時くらいじゃないかと予想できます。グウグウとお腹をならせて泣きそうになっている父親の顔が脳裏に浮かびます。早く弁当を届けてあげなくちゃ、かわいそうなお父さん。
そうやって妄想にひたり、わたしが頭上から視線を戻したときでした。
前に誰もいません。先を行く兄の姿が見当たらないのです。
のろのろとついていくわたしを置いて、先に行ってしまったのでしょうか。
いくら昆虫採集や植物鑑賞、ピクニックなどで人の出入りが多い山とはいえ、かなりの広さなので、そうそう他人と出会うものではありません。それにここは登山路でもなんでもないのですから。不安になったわたしは兄の名を叫びました。何度も何度も叫びました。
「俺はここだ……」
すると何処からか、かすかな声が返ってきました。声はすれども姿は見えず……。
「ここだ。落ちたんだ」
あたりを捜索してみると、ありました、黒い穴が……。
大人ふたりがちょうど通るくらいの穴が、あやしい口をぽっかりと開けていました。中を覗いてみますが湾曲していて底が見えません。けれども、「早く助けてくれ」という兄の声がするので、この中にいるのは間違いありません。
わたしは急いでロープ状のモノを探しました。そうして見つけた細長い木の枝。わたしはそれを持って穴へと駆けつけました。
アア……わたしはなんてドジなんでしょう。いくら、早くしないと兄に殴られると恐れていたとしても、こんなミスをするなんて信じられません。
急いでいたわたしは穴の淵にある小石につまずき、そのまま穴の中へと落ちてしまったのです。
ふと眼をあけると、頭上に光が見えます。先ほども述べましたが、穴は大きく湾曲していて、直接光が見えるわけではありません。土に反射した明かりが、わずかですが、わたしのいるところまで届いているのです。
じめついた空気がまるで液体となって鼻の中に入り込んでいます。とげのついた空気が喉を刺激します。なんと息苦しい場所なんでしょう。よくは見えませんが、何かぬめぬめとした生き物が土の中を這いずっています。
ふと気づきましたが、この穴には横穴があったのです。漆黒の闇へと続く不気味な横穴が。
わたしは他に出口がないか調べるため、腰をあげようとしましたが、右足に走る激痛に顔をしかめながら再び倒れてしまいました。右足をさすってみますと、どうやら足首をねんざしているようです。このままでは出ることはおろか、歩くことも出来ません。
どうしよう、と考えたとき、兄の顔が浮かびました。兄を助けようとしていたことを思い出しました。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、この中にいるの?」
しかし、返事はありません。もしかしたら、兄はここではなく、別の穴に落ちているのでしょうか。気づかなかったけど他にも穴があったのでしょうか……。それを考えるとわたしは寂しくなってしまい目頭が熱くなってきました。わたしはひとりぼっちということになります。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
わたしの眼からついに熱いものが流れました。もしかしたらこのまま、誰にも知られることなく死んでしまうかまもしれません。ここに来るのは正規のルートではなかったので、見つかる可能性は低いのです。
「泣くな!」
鋭い衝撃とともに頭に激痛が走り、顔をあげると、人が立っていました。うす暗くてよく見えないのですが、形と声からすると兄でしょう。だからわたしは質問しました。
「お兄ちゃん……?」
「泣くんじゃない」
また殴られました。でも、この痛みが現実へとワタシをつなぎとめているようで、とてもとても気持ちがよかったのです。
●
いくら待っても、助けは、来ません。
空腹の具合が、長い時間を物語っています。
最初は乾きが襲ってきました。湿った土を口に含んだり、滴るしずくをすすりました。
次には飢えです。土の中を這いずっているあの得体の知れない小動物を口にしました。木の根にもかじりつきました。
すると、またまた乾きが全身を支配します……。
もう、ダメだと思いました。
もう、泣く元気もありません。
何もかもが、どうでもよくなってきました……。
「おい、やったぞ。洞窟の奥に動物がいたんだ。さあ、食べろ。お腹すいてるだろ。肉だぞ。さあ、食え」
これは誰の声でしょう。ついに幻聴まで聞こえてきました。ぼう~っと、うつろな頭の中で、肉、肉、肉、と反芻する声が響いています。
パン、と乾いた音とともに、頬に走る痛み。しかし、その痛みで、ああ、お兄ちゃんだ、と意識が戻ってきました。
「食べないとダメだ。生肉だけど、新鮮だから大丈夫だよ」
優しく声をかける兄の姿は、この暗い穴蔵の中では少しも見ることが出来ません。でも、頬に広がるほのかな痛みが兄の姿を蘇らせます。眉を吊り上げ、右腕を上にあげている姿が浮かんできます。髪を伸ばしたぶさいく、が復活します。
「ありがとう」
口に入れた途端、身体じゅうに広がるぬくもり。血液の流れとともに活力が戻ってきます。ああ……こんなにおいしい肉が存在するなんて……。
それからわたしが飢えるたびに、兄は新鮮なおいしい肉を持ってきてくれました。
また違う動物を発見したんだ。また見つけたぞ。そう言っては、兄はわたしの命をつないでくれたのです。
ありがとう。ありがとう。
今まで散々ひどいことをしてきたお兄ちゃん。兄といっしょに行くことをすすめたお母さん。わたしたちを支えてくれたお父さん。
わたしたちは、かならず、生きて、家へ帰ります。
●
………………………………。
……だ……。
ここだ!
助け出されたときのことは、よく覚えていません。
水分が不足し、かすれる眼に映ったのは、大粒の涙を流す母親のくしゃくしゃになった顔と、眼球が飛び出さんばかりに眼を見開いた父親の顔でした。
「お兄、ちゃん……」
かろうじて動く頭を左右に振り、姿の見えない兄を、心配になって捜しました。
「お兄ちゃん!」
兄の姿を確認する前に、わたしの意識は再び、遠のいていきました。
それから三日間寝込んだわたしは、ふかふかのベッドの上で眼を覚ましたのです。
心安らぐ感触に、自然と笑顔がこぼれました。しかしすぐに、兄の安否が気になりました。顔を上げると、隣に、うたた寝をしている母親がいました。叩き起こし、「お兄ちゃんは何処なの?」と叫びました。
「お兄ちゃんはね。死んじゃったの…………」
穴に落ちて、助け出されるまで、なんと四週間が経過していたそうです。
わたしは体重が減り、栄養失調で衰弱していた程度だったのですが、兄は、白骨化していたそうです。
検視によると、兄はうちどころが悪く、穴に落下して数時間後には死亡していたそうです。
そして、洞窟内を散策しても、兄の骨以外は、出てこなかったのです。
では、兄が奥から持ってきた肉というのは…………。
【ここから先のエンディングは二種類にわかれています。純粋なハッピーエンドがお好みなら、○を、ゆがんだハッピーエンドがお好みなら、△をお読みください】
○
あれから十六年、上京していたわたしは、友達の結婚式に参加するため、故郷へと帰ってきました、二歳になる娘を腕に抱いて。
実家に帰ってきて真っ先に向かったのは、裏にある御堂山のふもと。
しかし、都市開発のためにその山は昔の面影が微塵もありませんでした。さまざまな重機が音もなく、まるで模様のように小高い丘の上に浮かんでいます。
それでも、山はわたしの眼にくっきりと過去の映像を映していました。
今になって……母となって……ようやく兄の気持ち、優しさ、強さがわかりました。
何故、わたしをよくぶったのかを悟りました。
腕の中で笑顔を浮かべながら寝ている娘を見て、わたしの眼からは、大粒の涙が頬を伝いました。
「わたしを愛してくれていたお兄ちゃん。ありがとう。わたしは、立派に育ちました」
そのとき、わたしの頬に、かすかな痛みが走りました。
了
△
あれから十六年、わたしはまんまると太った娘を産みました。兄の名は真といい、娘にも同じ名をつけました。もちろん真琴と漢字は変えましたが。夫に違う名前にしようと反対されましたが、かたくなに譲らず、今の名で落ちつきました。わたしがお兄ちゃんお兄ちゃんと未だに言うので、夫はおそらく嫉妬しているのでしょう。
病気もなく、すくすくと育ちました。むしろおてんばすぎるくらいでした。そして、よく食べる子でした。
食というのは誰もが愛する行為で、生きるために必要で、それから、芸術にもなり得る。
一部だけど、エロスと捉える人もいる。
どれも正しいし間違いではない。だけどわたしにとっては……。
娘がようやく立ち歩きをするようになったとき、事件が起こりました。テーブルの角に頭をぶつけたのです。血が大量に吹き出し、わたしはパニックにおちいりました。とにかく出血を止めようと傷口を手で押えました。それでも止まりません。娘の泣き声に比例して血の海が広がっていきます。耳をつんざく絶叫。負けないようにわたしも大声を張り上げる。だけどそのときふと思い出した。
「ギャーギャー騒ぐのが、女のダメなところなんだよ」
わたしは冷静さを取り戻しました。心の中でありがとう、と兄に感謝し、電話の元へ急いで走りました。
人生で二度目の救急車に乗り、落ちついたところでくしゃくしゃになっている自分の顔を拭きました。そのときなのです。わたしの口の中に血が入ったのは。
心のどこかにわだかまりとなって残っていたのでしょう、そしてそれを表に出さないよう、わたしは自分の心にふたをしていたのです。
眠らないでいることは不可能。
愛さないでいることは不可能。
一生、食べないことも不可能。
我に返ったとき、手にべったりとついた娘の血を、べろべろとなめていました。白くなった手をみながら、わたしは気づいたのです。
今、間違いなく、わたしの中に、兄が入ってきたのを……。
了
世界で一番おいしい肉 完