つまらなくてくだらない一秒の始まりを
朝目が覚めるといつも私は、ああ、戻ってきたな、と思う。夢の世界から現実に、なんて話じゃなくて――本当は私自身よくわかっていないけれど、なにかとても重たい物を背負っていた私が、すべてを投げ捨ててまたここに帰ってきたような気がする。布団の上で五分もその余韻に浸れば、その後はだんだん朝の冷たさが肌に沁みてくるだけだ。
時計を見ると、まだ六時を少し過ぎたくらい。私はベッドから降りて身支度を整えることにした。
前の日に準備していた制服に着替える。ごわごわとした冬服の手触りが変に気にさわる。もう九月も終わり、そろそろ秋か――衣替えの時期はなんだか体調がすぐれなくて、いつも微かに熱が出ているような感じ。心地いい、と言えなくもないけど。
二階の部屋から階段を下りてリビングに行くと、テーブルの上にはすでにご飯が用意してある。いつものように、並んだ料理の隣には白いメモ用紙にかわいらしい絵と字。
『今日もおしごとが早いので先に出ます しっかり食べてね! 母より』
端っこに描かれたウサギのようなかわいいキャラクターのイラストは、お母さんのマスコットだ。
私はテレビをつけて、さっそくご飯にありつく。ニュース番組はいつもと変わらず星占いを流している。画面上にちらつく天気予報のマークが見えた。今日は晴れか。……ぼーっとしていたつもりはないのにご飯をこぼしてしまった。それに気を取られているうち、星占いの結果を見逃した。少なくとも十二位じゃなかったのは幸いだろうか。
でもいつも思うんだ――テレビ番組の気遣いなのか、優しさなのかは知らないけど、十二位の人たちは毎回ラッキーアイテムが一つ増えるようになってる。そしたら、本当に不幸なのは十一位の人じゃないか……って。
食器を片づけて、一度部屋に戻り、かばんをとってくる。忘れものがないか軽く確認して、それからテレビを消し、戸締まりと火元を確認。よし、大丈夫。
今から出れば、電車の席もそれなりに空いてるだろう。
私の左手首の内側にはボタンがあって、それを押すと私の時間はその日の朝にリセットされる。電車の窓の向こうからさしこんでくる朝日がとても眩しい。私が予想していたとおり、七時発の電車の座席はまばらに開いていた。これが八時を過ぎる頃になると、通勤ラッシュの影響なのか電車の中はたくさんの人でいっぱいになって……私は人ごみが嫌いだ。だから今日はちょうどよかった。
なんとなく気分が優れない時には音楽を聞くことにしてる。小学校を卒業したときに買ってもらったウォークマンはまだまだ現役だ。唯一、画面が小さいのが不便だけど、それももう慣れた。
聞くのは明るい音楽じゃない。私の好きなアーティストの、ちょっぴり暗い、さびしい曲。それでも気分は晴れる。いや、むしろそういう心地よさこそ、私には必要なんじゃないか、と思う。
アコースティック? ……音楽用語はさっぱりだけど、たぶんそういうジャンルの曲なんだろうなと思う。言い表すなら、静かな音楽。癒される、というわけじゃない。でもほんの少し、満たされたような、そんな気持ちがする。そしてこのアーティストの書く歌詞も……私には、すごく綺麗な言葉に思える。
つまらない一秒なんてあるのか
くだらない一秒なんてあるのか
二十分もすれば目的の駅に着く。イヤホンの外側から聞こえるアナウンスに気付いて、席を立つ。日の暖かさについ眠気が顔を出してしまったみたいで、不意に出てきたあくびを噛み殺しながらかばんを持ち上げる。ホームに降りて、改札までは慣れたもの。
学校は駅のすぐ近くにある。右手にはめた腕時計を見て、特に意味もなく、安心したように息を吐く。
休み時間に友達が話していた。
「エンコーって、あるじゃん。あれってさぁ、なんかすっごい、お金もらえるんだってぇ。それってなんかさぁ、わざわざ先生に隠れてバイトしてるあたしがバカみたいじゃん? ね、そうだよねぇ?」
「……私にそんな話されても困るんだけどなー……」
「いやいや、でね、続きがあんの。お金のないビンボーなおっさん連中がね、ちっちゃい子供とか、あたしらくらいの学生とかつかまえてぇ、そういうバイシュン? の専門の人たちとぉ、無理やりエンコーさせたりすんだって! そんでぇ、ゲットしたお金を全部取り上げてぇ、自分は何もしないくせに金もうけしてたりするんだってぇ。もうさぁ、なんていうかさ、そういうのってさぁ、ニンゲンとしてどーなんって思っちゃうじゃん。でもってあたしのバイトもムダじゃん? どーなんそれ? ね?」
「はいはい……いいからもう。授業始まるよ?」
チャイムが鳴る。朝の教室はまだ騒がしい。担任の先生が入ってきてようやく、クラスのみんなが落ちつき出したくらいだ。号令がかかって、あいさつ。あとはいつも通りの日常が始まる。
学校の授業は退屈でもない。でも別段面白くもない。私は昔から絵を描くのが好きで、高校に進学してからもずっとそればかりしていて、そうしたらいつの間にか私の腕はそこそこのものになったようで、進学した後は美術の先生の紹介でそれなりに有名な画家さんのところへ弟子入り(というのも、なんだか古めかしいけど)することになっていた。担任の先生もそれを知っているから、たとえ私が授業を真面目に聞いていなくても何も言われることはないだろうと思う。さぼったことは一度もないけど。そういうところで不思議と真面目だ、私は。
だから私にとって勉強は、害はないけど利も少ない。特に数学の授業は、グラフならまだともかくとしても、ごちゃごちゃした数式から浮かぶ美術的イメージ……なんて、私には到底及びもつかない世界なわけで。スケッチは得意だから理科の実験はなんとなく好きだ、とかそれくらいのもの。美術の授業は一年生の頃にしかないし、それにやっぱり、三年生のこの時期にもなると、周りが受験に追われている中で私ひとりだけがのほほんとしているのはなんだか気がひけた。だからそれなりに勉強も続けている――いつかは役に立つかもしれないから――そんな望みの薄い期待を真に受けたふりをして。
部活を引退してからも、美術室には毎日のように通っている。ところどころ、色が無造作に貼りついている美術室のドアを開けると、木材、石膏、油絵の具、水、キャンバス、画用紙、ペンキ、そんなたくさんの物の香りが入り混じった空気に肌がさらされて、これもまた私にとっては気持ちのいい感覚に違いなかった。
部屋に入ると、部活の後輩たちが元気にあいさつしてくれるので、私も笑顔で返す。この習慣ももうすっかり身についてしまったなぁ、と思う。隣の準備室で作業をしていた顧問の先生に顔を見せた後、手近な椅子と机を動かして座り、かばんからHBの鉛筆と消しゴムを取りだす。それから、部屋の棚の引き出しの中から古紙を数枚とりだして……さあ、後は描くだけだ。
どうせこの時期に描くんだったら、ちょっとした卒業制作のようなものを描こうかな、と考えていた。私が普段描く絵と言えば鉛筆画がほとんどで、コンクールに出すような絵以外はそれほど力を入れて描かないようにしている。これは癖……というわけでもなく、ただ練習するためだけに絵を描こう、と思うと、なかなかそういう気分になれないだけだ。何か本気になれるような目的がないと、気持ちに体がついていかない。だから『卒業制作』という目標は私のやる気に火をつけるのにぴったりだった。
今度の絵は水彩画にするつもりだ。淡くて、軽くて、風に流れて消えていくような……そういう絵を。
うまく言葉にはできないけれど、きっとそういう透明感が、私の一番好きなもの。
何度描いても、ラフの修正には飽きが来ない。
リセットされた私の日常がもうすぐで一日の半分を過ぎるとして、今の私じゃない私は、いったい何を思ってこのボタンを押したのだろう。夕暮れの光る電車の窓際、それは朝の日差しとはまた違う眩しさに溢れていた。手と目を最大限に使ってすっかり疲れ切った私の体には、規則正しく揺れる電車のリズムが子守唄のように響いてくる。
昔から、電車に乗るのが好きだった。見えない速度で流れていく外の風景を眺めるのも、揺りかごの中にいるような錯覚も。特に今のような夕方の頃には、壁や天井が陰にむしばまれていくようにだんだんと暗さを増していく、そんな何気ない風景が私の心の奥深くに染み込んでいくような気持ちがした。
途中、大きな駅に停まるので、帰りの電車はしばらくそこで停車することが多い。揺れが止み、ドアが開き、わずかな喧噪が車内に入り込んでくる。座席に深く腰掛けた私の体は、ふわふわとしたシートの生地にちょっとずつ沈んでいく。
……音楽を聞こう。かばんの中からウォークマンを取りだして、イヤホンを耳にはめる。聞こえてくるのはまたあのアーティストの曲だ。目を閉じて、その静けさに耳を澄ます。
つまらない一秒なんてあるのか
くだらない一秒なんてあるのか
フェードアウトしながら聞こえるその歌詞に、いつも胸がえぐりとられるような思いがする。つまらない一秒。くだらない一秒。私が今いる一秒は、いったいどんな一秒なんだろう? 考えるうちに一秒は過ぎる。掴もうとしても、その一秒は過去のものになって、そのまま電車の窓から見える風景みたいに流れていってしまうんだ。
それなら、私がもしも本当に――いつかの私自身を置いて、新しい私として生まれ変わって、そうして今日という日を、今日の私のように、送ってきたんだとするなら?
かつての私がいた、その一秒は一体、何だったのだろう。
つまらない一秒なんてあるのか
くだらない一秒なんてあるのか
繰り返し、繰り返し、何度も流れてくるその声。音だけじゃない、この世界もすべて、ループして、そしてきっと私も、もう幾度となく回り続ける時間の輪に飲み込まれている。
繰り返して。
繰り返して。
繰り返して。
繰り返して。
そうまでして、今、私がいるこの一秒は、何だろうか。
つまらない一秒なんてあるのか
くだらない一秒なんてあるのか
だったら、嫌じゃない一秒なんてあるのか。
……口をついて出た言葉。はっとなって口を押さえた。向かいの席に座っていた女性が顔を上げて私を見ている。途端に恥ずかしくなって俯く。ああもう、私は何をやってるんだろう……。
もうあの曲は終わって、聞こえてくるのはピアノの単音、旋律だけ。いつの間にか電車は走りはじめていた。なんだか、時間を飛び越えてきたみたいだ――もちろん気のせい。わかっている。私が出来るのは時間を戻すことだけだ。リセットして、またやり直すことだけだ。再生されているビデオテープを止めて、取り出し、また新しいビデオテープに入れ替えて、懲りもせずにまた再生ボタンを押すことしか……私には、できないんだから。
でもそれも夢のような気もしてくる。左手首は見なかった。見たってどうせそこには、あるかないか、しかない。それだけだ。それこそ私にとって、つまらない一秒で、くだらない一秒にしかならないだろう……。
車内に響くアナウンスと、窓の外の暗さをぼんやりと確認してようやく、私は乗り過ごしてしまったことに気付いた。
家に帰れたのは九時ごろになった。お母さんはまだ帰ってなくて、リビングの固定電話には留守電が三件入っていた。とりあえずメッセージを聞くことにする。
一件目はお母さんのメッセージ。
『……もしもし? お母さんです。学校おつかれさま。それとごめんねー、今日も仕事が立て込んじゃって夜遅くまで帰れないから、ご飯は冷蔵庫にあるものを食べておいてください。えっと……あ、それからほら、こないだ見たいって言ってた映画、覚えてる? あれのチケットをね、偶然仕事先でもらっちゃったのよー。ね、せっかくだから今度の休み、一緒に行かない? 予定空いてるかなー? とりあえず、明日の夜にでもまた話しましょ! それじゃあね、戸締まりよろしくー……』
いつも通りのお母さんの声だ。毎回、元気な調子のお母さんからの留守電が鳴りやんだあと、部屋にやってくる冷たい沈黙が私は苦手だ。すぐさま電話のボタンを押して、次のメッセージを聞くことにする。こっちの方は、どうやらお母さんの番号じゃないみたいだ。
『……………………』
……数秒間、雑音が鳴って、切れた。
――まちがい電話? 見たことのない番号だし、たぶんそうかな……そう思っていたら、もう一つ、最後のメッセージも同じ番号からの発信になっていた。ちょっと不気味だ。でも聞いてみないことには……もしかしたら親戚とか、お母さんの知り合いからの電話かもしれないし。意を決して、ボタンを押す。
『……………………もしもし』
男の人の声だ。
『……いきなり、すまん。何にも知らせずに、こんな電話を……もしこの留守電を聞いてるのが、母さんじゃなく和花だったら、母さんに、代わりに伝えておいてほしい。
仕事が見つかったんだ。今度のは、ちゃんとした仕事でな。……今までは、和花の養育費も半分くらいしか出せてないくらいだったが、これでようやく、目途が立ちそうだ。借金の方も……だから、何も心配しなくていい。
それから……今までのこと、本当にすまない。たった一人で、お前たちを置き去りにしたまま、出て行ってしまって……でも、聞いてほしい。本当に突然なんだが……実は今日、一度そっちに帰ることにしたんだ。もちろんまだ、一緒に暮らすことは出来ない。だけどとにかく、聞いてほしいことがある。話したいこともたくさんある。出来るだけ急いで行くが、それでも随分かかると思う。たぶん、そっちに着くのは夜中になる……出来れば、起きて待っていてくれ。必ず帰る。必ず……それじゃあ、また。……………………』
メッセージはそこで途切れた。
――その晩、私はとても怖い夢を見た。
十時を回ると、途端に雨が降ってきた。傘を忘れてびしょぬれになりながら帰ってきたお母さんに、私は留守電のことを話した。話を聞き終わってすぐ、タオルで体を拭くのも忘れて、お母さんは泣いた――精一杯、笑顔をこぼしながら。その笑顔は、私が見てきた中でも一番、明るい笑顔に見えた。
私はとても幸せだった。幸せな一秒がそこには待っているような気がした。遅めの晩御飯を二人でいっしょに食べて、リビングで昔の思い出話をしながら、お父さんを待った。しばらくして、一時を過ぎたごろ、インターホンが鳴った。お母さんは大喜びで玄関を開けに行った。私はその後ろを追いかけていく。開いた玄関の先に立っていたのは、紛れもなくお父さんだった。濡れた傘を片手に持ち、もう片方の手には
「迎えに来たよ、和花」
――違う。
これは、夢じゃない。
私は固まって、その場に立ちすくんだ。お母さんの声が聞こえる。あなた、なんで、やめて、おねがいだから。お父さんの声が聞こえる。和花が必要なんだ。あの子が必要なんだ! ――無理やりエンコーさせたりすんだって――友達の声が耳の奥で聞こえた。私は凍ったみたいに動けなくなっていた。お父さんが近づいてくる。あの人が近づいてくる。やめて、あなた、やめて、お母さんの声だ。うるさい! どけ! これはお父さんの声。違う、私、逃げなきゃ、逃げなきゃ、早く!
ようやく動くようになった体で私は階段を駆け上がる。思わず転びそうになって、すぐさま後ろを確認する。まだ誰もいない。お母さんの悲鳴が聞こえた。お母さん? 違う、逃げるんだ、そうしなくちゃ――すぐに立ち上がって階段を上る。早く、逃げなきゃ、逃げ――でも、どこに逃げれば――。
私は自分の部屋に向かった。暗い部屋に入ってすぐ、ドアを閉めた。鼓動が耳に戻ってくる。静かだ。お母さんは? 確認しなかったのを悔やんだ。お母さんの悲鳴。あれは、でも、まさか。
違う。逃げないと。とりあえず、鍵を――
……あれ?
あれ?
このドア、鍵がない?
そうだ。私の部屋、鍵なんてついてない。
――逃げないと、逃げないと、逃げないと!
でもどこへ?
ドアを開ける。でもどこへ? 廊下に逃げてもどうにも――いま、視界のすみっこに――なにか――
逃げなきゃ!
ドアを急いで閉める。鼓動が聞こえない。体中が冷えている。ふと目についた勉強机。あれを運んで、ドアを塞ごう! ……だめ、重くて動かない……。どうしよう。どうしよう? やだ、私――そうだ、窓から出れば――でも、この窓、小さすぎて、私じゃ通れないくらいで――
――音がした。
背後で。
何か、音がした。
「和花。こっちへ、おいで」
部屋のドアが開く。あの人が立っている。カッターシャツを着て(それは染みがついていて)、黒いスーツのズボンを着て(これにも染みがついていて)、片手に何かを持って、もう片方の手に何かを持って、その何かは(何かは何かで)廊下からの光を受けて輝いていて(それはその何かが××だからで)もう片方の何かは(何かは何かで)水のようなものを床に滴らせて(それはその何かが××だからで)カーペットが赤色に染まり(それはその××が××だからで)それは何度も見たことがある(だって××だから)けれど私はそれに気づくことができなくて(だってそれはもう××がないから)そうしたらあの人は「迎えに来たよ、××」そう言って私のベッドまで近づいてきて(片手に××を持って)(もう片手に××を持って)「××、××、××」私を呼んで(呼ばないで)呼んで(呼ばないで)呼んで(呼ばないで)「いっしょにいこう」あの人が呼ぶ「いっしょにいこう」あの人が呼ぶあの声で「いっしょにいこう」あのひとがよぶあのこえでわたしを「いっしょにいこうあのひとがよぶあのこえであのひとがよぶあのこえでわたしをよぶあのこえでわたしをよんであのこえでわたしをよんであのこえで
reset
朝目が覚めるといつも私は、ああ、戻ってきたな、と思う。夢の世界から現実に、なんて話じゃなくて――本当は私自身よくわかっていないけれど、なにかとても重たい物を背負っていた私が、すべてを投げ捨ててまたここに帰ってきたような気がする。布団の上で五分もその余韻に浸れば、その後はだんだん朝の冷たさが肌に沁みてくるだけだ。
起きてリビングに降りると、テーブルにはすでにご飯が用意してあった。その横にはメモ用紙が見える。たぶんお母さんの書き置きだろう。私の家は母子家庭で、お母さんは平日、朝早くから夜遅くまで仕事をするのが基本だ。特に早く出なきゃいけない時は、こうして書き置きを残しておいてくれる。よくあることながら嬉しい気分の私は、今日もおつかれさま、とメモに描かれたかわいらしいウサギのキャラクターに声をかけてみたりする。
さっそく私はご飯を食べることにした。と、その前にテレビをつけて、天気予報を見ておかないと。チャンネルをニュース番組に合わせて、画面の上を確認する。今日は晴れか。それなら、傘は持って行かなくていいな。……あれ。ついご飯をこぼしてしまった。ティッシュはどこにあったっけ……そうやってあたふたしている内に、朝のニュース番組恒例の星占いの結果を見逃した。ついてないな。とりあえず十二位じゃなかったみたいだし、別にいいか。
……本当は、十二位よりも十一位の方が気になった。だって十二位の星座はいつもラッキーアイテムが二つになるから。そんなのいらないお世話じゃない、っていつも思う。そんなことしたら、十一位の人たちがかわいそうだ。そして今日はもしかしたら、私の星座がまさにその十一位だったかもしれないのに……。
出来るだけゆっくりご飯を食べたつもりなのに、時間はそんなに経っていなかった。使い終わった食器を流しで洗って、綺麗に拭いて棚に片付ける。それから二階までかばんを取りに行って、洗面台で身だしなみを整えたら、準備万端。
今から出れば、電車もきっと空いてるはず。
私の左手首の内側にはボタンがあって、それを押すと私の時間はその日の朝にリセットされる。愛用のウォークマンから聞こえてくる音楽に耳を傾けながら、私は考えてみる。
たとえば今日の私が、いつかの私をリセットして今ここにいるのだとしたら、きっとかつての私にとって途方もなくつまらない一秒がそこにあったんだろう、って。もしくは、とてつもなくくだらない一秒がそこにあったんだろう、とか。でもそんな一秒が本当にあったんだろうか? なんて。馬鹿馬鹿しいな。そんなことを考えてみたって、私にはリセットする前の記憶なんてないし、そもそも私がこのボタンを一度でも押したことがあるかどうかすらわかってないのに。……そういえば、いつから私の左手首にはこんなものが付いているんだっけ……なんだかすごく昔のことみたいで、まったく思い出せない。
私の好きなアーティストの細々とした声が、朝の電車の騒々しさの中に埋もれて聞こえてくる。ちょっぴり暗い、さびしい曲。何度も何度もリピートして聞いていたくなるような、そういう曲。感動する、とはどうも違くて、切なくなる、ともなんだか違くて、んん、なんて言えばぴったりとくるんだろう。とにかく、静かな曲だ。静かで、清々しい曲。
つまらない一秒なんてあるのか
くだらない一秒なんてあるのか
淡々とした、そのフレーズに突き刺される。そうして私の胸から、滲むように流れ出す血のようにどろどろとした何かが、心臓をぐっと掴んで、強く握る。だけど全然、苦しくはない。時間が止まってしまったみたいに、ほんの一瞬、私の中に空白が出来るだけ。そうやっていくつも出来たこの空白たちは、もう何をしたって埋まらないようで、だから私の心にはたくさんの穴が空いたまま今も眠るように動いている。
……ふと、耳にアナウンスが聞こえてくる。次が目的の駅だ。私はイヤホンを外し、かばんを持つ準備をして、早めに席を立った。
「先輩、ずいぶんと悩んでますねー」
いきなり話しかけられたのでびっくりした。横を向くとそこには後輩が立っていた。彼女は、まだろくに描けてない私のラフをじっと見つめながら、ふふっと微笑む。
「卒業制作ですもんね。力入っちゃうのはわかりますけど、ちょっとは休んだ方がいいかもですよ?」
「うん……無理してるつもりはないんだけどなぁ」
改めて未完成の下書きを見ると、なぜだか悪いところばっかりが目についてしまう。……なるほど、私疲れてるね。やっぱりこの下書きも没にしようか……と思っていたら突然、目の前に四角いチョコが差し出された。どうぞ、と言う後輩の声。ありがと、と言って受け取り、食べる。ほどほどに甘い。
「……ねえ、何が足りないと思う?」
「はい?」
「私の絵。よくわかんないけど、なーんか大事なものが足りない気がしてて……」
「大事なもの、ですか? んー……わたしもちょっとわかんないですけど、なんとなく気になることはあります」
「なに?」
「先輩の絵って、暗いですよね」
……ぐさぁっ。後輩の苦笑いでさらにダメージ量が増えた。いや、えっと……うん、自覚はないではなかったけどね……。まぁ、ある意味、こうして率直に意見をぶつけられた方が私としては嬉しいんだけど。ショックを受ける私にためらいつつ、後輩はさらに続ける。
「うーん、なんて言えばいいんですかね? 先輩の絵って、色合いとか発想とか、すごく良いと思うんです、綺麗っていうか繊細っていうか。でも、なんだろう……未来? が見えないっていうか、いや、こういう言い方は失礼ですよね、すいません。でもそういう感じなんです、不思議ですけど……あ、もちろん、先輩の絵に可能性を感じないとか、そういう意味じゃないですよ? なんてったってうちじゃ一番将来有望ですし……だからそういうのじゃなくて、こう、時間の流れと言いますか……ほら、たまにあるじゃないですか。絵の中の風景が、見てる間にどんどん移り変わっていくような絵って。時間を閉じ込めた……っていうんですかね。映像を見てるような気分になったりとかする……でも先輩の絵って、あんまりそういうのを感じないんですよね。……ああ、いえ、私が見てる感じでは、そういう絵って結構たくさんあるんですけど、先輩の場合はそれが特に強いっていうか……」
――時間、か。
例のフレーズが頭をよぎる。
頭の中で、解けなかったパズルのピースが合わさったような気がした。
「……あのー、先輩。すいません、なんか偉そうなことばっかり言っちゃって……」
「いや、大丈夫。それとありがと。もしかしたら、これで上手くいくかも」
「本当ですか!? よかったぁ……それじゃあ、わたしは戻りますね。完成楽しみにしてますから!」
そう言って、後輩は自分の席に戻っていく。私はさっそく、ラフの描かれた紙をくしゃくしゃに丸めて、新しい紙を机に置いた。時間。時間だ。先に進む一秒を描こう。未来のある一秒を、キャンバスにおさめよう。ようやく私の心は、本来の私を取り戻したみたいだった。次々と流れ出てくるアイデアの波を、一つ一つ、優しく掬い取るような感覚で私はラフを描きはじめた。徐々に強くなる床の陰影が、やけに鮮明に私の瞳に残っていた。
放課後、卒業制作の構図がなんとか固まったところで家に帰ることにした。外はもう夕日が沈みかけていて、真っ赤に染まった雲の少ない空が鮮やかにどこまでも広がっていた。
電車に乗り込み、空いている席に座る。かばんのポケットからウォークマンを取りだし、リフレッシュのために音楽を聞く。起動し、シャッフルモードで曲を開始する。一番はじめに聞こえてきた曲は、私の好きなあの曲だ。
つまらない一秒なんてあるのか
くだらない一秒なんてあるのか
たまにこんなことを考える――たとえば『運命』なんて言葉。未来はすべて決まっていて、私たちはただそのレールを辿ってるだけ……という話。
私は、運命はきっとあると思ってる。だけどたとえば、私が今日一日の間に何度まばたきをするかとか、何文字言葉を発するかとか、そんな些細なことがすべて定められているわけじゃない。私がこうして、運命とは何か、なんて考えることもきっと、運命のスケジュールの中には書かれていないだろう。
だから、運命とは、なるようになるもの。
たとえ何度繰り返したって、どんな道を歩いたって、必ずたどり着くことになる、その場所。
それこそが運命なんだろう、と思う。
左手首を優しくつかむ。この先、私の目の前に現れる一秒が、私にとってとてつもなく辛い、悲しい一秒だったとき、私はこの内側に隠れたボタンを押して、その日のすべてをリセットし、またその日の朝に逆戻りするんだろう。眠り、起きることでセーブされる私の人生が、ただの一日さえ例外なく素晴らしいものになるまで、何度でもロードし続けようとするんだろう。だけど運命は変わらずそこに立ったままで――リセットしたって、きっと変わらない一秒がそこにあって――そうしてじたばたもがきながら、生まれ変わった私自身がいつかすべてを諦めて、あまりにも残酷な現実を受け入れるようになるまでその日を繰り返し続けなければいけないんだ。
記憶がリセットされなければ、狂ってしまってもおかしくない状況だ、と思う。けれど幸い、私にはリセットする前の記憶はない。だから私が今まで何回何十回何百回何千回何万回私の一日をリセットしてきたのだとしても、今の私にとって今日は紛れもなく初めての今日だ――その背後に膨大な数の、止まったままの私が眠っているんだと思うと、さすがにぞっとするけど。
……まあ、考えてみたって意味はないんだ、こんなこと。このボタンが本当にリセットボタンなのかどうかすら、私には理解しようがないんだし。頭の隅っこに残っている一つの言葉だけが――私の左手首の内側にはボタンがあって、それを押すと私の時間はその日の朝にリセットされる――そんな実にならない考えを生み出しているだけに違いないんだから……。
そんなことばかり考えていたら、見事に乗り過ごしてしまった。
帰るのが遅くなったけど、まだお母さんは帰ってきていないみたいだった。珍しく留守電が残っていたのでそれを聞くと、お母さんからのメッセージと――失踪して行方がわからなくなっていたお父さんの声が、あった。私は急いでメモを取り、すぐにお母さんに電話した。だけどまだ仕事中なのか、携帯はつながらない。そのうち雨が降ってきて、私は早くお母さんが帰ってこないかとどきどきしながら待った。
お父さんはこう言っていた。新しい仕事が見つかったので、これからはお金の余裕ができるだろうということ(私は、今までお父さんが養育費を出してくれてたことも、借金を抱えていたことも全然知らなかった)、私とお母さんを二人だけにして本当に申し訳ないということ、それから、まだ一緒に暮らすことはできないけど――今日の夜中ごろに、一度家に帰るということ。学校で疲れて眠気を感じていた私の頭は、それだけで完全に醒めてしまった。
お父さんにまた会えるんだ――そう思うと、心の底から嬉しくてたまらなかった。お母さんはもっと喜ぶに違いないと思った。……雨はだんだんひどくなる。早く帰ってこないかな、と不安を感じ始めてすぐ、インターホンが鳴った。私は駆け出し、玄関先でお母さんを迎え、タオルを渡すよりも前にお父さんからの留守電のことを話した。お母さんは泣いた。それから笑った。とても幸せそうに笑った。
私たちはこの世で一番幸せだと思った。ありふれた言い方だけど、本当にそう思った。
こういう一秒が、ずっと続いてくれたらいいのに。
お母さんといっしょに泣き笑いしながら、私はそんなことを考えていた。
インターホンが鳴った。きっと、お父さんが帰ってきたんだ。私がすぐさま立ち上がった玄関に向かおうとすると、待って、とお母さんに呼び止められた。
「私が先に出る。和花は、ここで待ってて」
私はちょっと残念な気持ちになったけど、お母さんの真剣な目を見て、はっとなった。そうだ……私以上に、お母さんはお父さんの帰りを強く待ち望んでいたはず。夫婦として長い時間を過ごしてきたのに、ある日突然別れることになったお母さんの悲しみがどれほどのものか、私には想像もできない。それなら、一番最初にお父さんを迎え入れるべきなのはお母さんじゃないか……私は力強く頷いて、廊下に消えるお母さんをリビングで見送った。
お父さんに、なんて言えばいいんだろう。まずはお礼を言うべきだろうか。お金を出してくれていたのは事実だろうし……いや、それより失踪した理由を? いやいや、いきなりそれを聞いちゃうのも……そういえば、話すことがたくさんあるって言ってたし、それを聞く方が先かな。……こうして考えていると、なんだかすごくどきどきしてきた。その時、玄関のドアが開くときの振動が伝わってきた――お父さん!
「――あ、あなた……何、それ?」
……お母さんの声? なんだか、声が震えている。
どうしたんだろう? もしかして、お父さんじゃない? 様子を見ようと、廊下に近づいていく。玄関の方からうっすらと雨の音が聞こえる……ずいぶんひどいらしい。あ、そうだ、お父さんにタオルを持って行かないと――
「和花、お父さんだ。こっちに来なさい」
――これはお父さんの声だ。なんでだろう……怒ってる? 声に迫力があって、私はびくっと身震いする。
「あ、えっと……ちょっと待って! タオル、持ってくるから――」
「――いいから早くこっちへ来い!」
お父さんの声。怒ってる……怒ってるの? どうして?
「……のっ、和花! ダメ、こっちに来たらダメ――」
「うるさい! 静かにしろ!」
ち、ちょっと……なんかおかしいよ、これ。どうしたの、二人とも……? 冗談にしては、あまりにも鬼気迫りすぎてて……。
とにかく私は、何が起こってるのか確認しようと思った。得体の知れない怖さで震える足をなんとか動かして、廊下の先を見る――
「迎えに来たよ、和花」
そこに立っていたのは、
怯えた顔のお母さんと、
ひきつった顔のお父さんと、
その片手が持っている、
包丁と、
雨でびしょびしょに濡れたお父さんの腕が、
お母さんをつかまえて、
「こっちへ来い、和花。お前が必要なんだ」
お父さんの声と、
「お前を売るんだ。お前を売って、金をもらう。そうすれば借金が返せる。そうすれば、俺は、俺たちは、自由になれる」
お父さんの声と、
「だから、早くこっちへ来い、和花。お前が、どうしてもお前が、必要なんだ。だから早く――早く来い!」
お父さんの声と、
「……あ、あなた……何を、言って……」
お母さんの声と、
「黙れ! お前は黙って俺の言うことを聞けばいい!」
お父さんの声と、
「そっ……そんなことできるわけないじゃない! なんで和花を巻き込むのよ!? それにあなた、し、仕事が見つかったって、そう言ったんじゃないの!? だから借金も大丈夫だって……」
お母さんの声と、
「そうだ――これが新しい仕事だ。和花を売るんだ。そうすれば金が入る。借金を返しても余りがあるくらいだ……。そうすれば、二人でまた暮らせるんだ。やり直せるんだ、俺たちは」
二人。
やり直す。
お父さんの声と、
私の左手が、
その内側が、
疼いて、
「……どうして……? どうして!? やり直す必要なんてない! 三人でまた暮らせるなら、私はそれで――」
疼いて、
「うるさい! それじゃあ借金はどうするんだ!? お前の給料だけで払えるのか!? それで何十年かかる!? 俺はもう限界なんだ!」
疼いて、
「俺がどうして失踪したのか教えてやろうか? ……取り立てだよ、借金の取り立てに来た奴らに脅されて、無理やり失踪させられたんだ! その間俺がどれだけ苦しい思いをしてきたかわかるか!? どんな仕事でもやったよ、強盗でも、密売でも、死体の処理でも――奴らが命令することならなんだってしたさ! そうすれば借金は見逃してもらえるってな!」
疼いて、
「だけど……だけどな、俺は、騙されたんだよ……! あいつらは最初から俺を自由にする気なんてなかった! 俺はずっとあいつらのいいように働かされてきただけだ! 借金を盾にして――あいつらは、あいつらは……借金を肩代わりするなんて、嘘までついて……!」
疼いて、
「もう俺は限界なんだ、こんな生活から抜け出したいんだ! そうしたら奴らはこう言ったんだ――お前の娘を売ってくれるなら、今度こそ見逃してやってもいいぞ――って……今度こそ、嘘はないって、そう言いながら……」
疼いて、
「俺は、俺はな、和花、もう嫌なんだよ、逃げたいんだ、こんな現実から……もう十分、俺は戦ったんだ、わかるだろ? わかるよな? 俺の気持ち、わかってくれるよな? ものすごく悩んだんだ。迷ったんだ。どうせこれも嘘なんじゃないかって、何度もそう思ったよ、でもな、もう、それ以外無いんだ。もし断ったら、俺はまたあの生活に逆戻りする……いや、今度はもっとひどいことになるかもしれない……。だからもう、これしか無い、俺たちが――俺たち二人が、ここから逃げるには……もう……もう、これしか、無いんだよぉ……!」
疼いて、
「だから、だから、和花ぁ、こっちに来てくれ……。お前が必要なんだよ、頼む、頼むよ……父さんを、母さんを、助けてくれ……お願いだから……助けて……」
疼いて、
「……ダメ……ダメよ、和花……こっちに来ちゃダメ……」
「お願いだ、和花、こっちに来てくれ、頼むから……」
疼いて、
「和花、お母さんの言うことを聞いて……」
「和花、お父さんの言うことを聞くんだ……」
疼いて、
「こっちに来ないで、」
「こっちに来るんだ、」
疼いて、
「来ないで、」
疼いて、
「来るんだ、」
疼いて、
「来ないで、」
疼いて、
「来るんだ、」
疼いて、
「和花、」
疼いて、
「和花、」
疼いて、
『和花、』
疼いて、
『和花、』
疼いて、
和花、
疼いて、
和花。
こっちに、
来ないで
reset
朝目が覚めるといつも私は、ああ、戻ってきたな、と思う。夢の世界から現実に、なんて話じゃなくて――本当は私自身よくわかっていないけれど、なにかとても重たい物を背負っていた私が、すべてを投げ捨ててまたここに帰ってきたような気がする。布団の上で五分もその余韻に浸れば、その後はだんだん朝の冷たさが肌に沁みてくるだけだ。
…………。
――過去の私を置き去りにし続けてきた今の私はいったい、どんな一秒の上を歩いてきたのだろう。嫌な一秒? 悲しい一秒? 少なくとも多くの私が、今の私がいる一秒を経験してきたんだろう。私はそう確信している。これはどうしようもなく嫌な一秒だ。そして悲しい一秒だ。今まで少しずつ積み上げてきた積木が一気に崩れ去っていく……そんな一秒だ。
未来はもう決まっている。何度繰り返しても、私の目の前に立ちはだかる。倒せない、打ち破れない、壊せない、乗り越えられない――どうしたって、私はそこから逃げられない。
それが運命なんだ。
悔しかった。リセットしかできない自分が。
悔しかった。リセットしても変わらない今が。
左手首が妙に疼く。
宙に浮いている。意識だけで、浮かんでいる。
これが私だ。少なくとも、今の私はここにいる。
そしてまた一日が始まる。
破滅に向かう、一日の始まりが。
reset
朝目が覚めるといつも私は、ああ、戻ってきたな、と思う。夢の世界から現実に、なんて話じゃなくて――
――どうして私は、先に進むことを怖がるのだろう。あのとても高く硬い壁の向こう、その先の未来を見ることをどうして嫌がるのだろう。待っているのがどんな一秒であれ、それこそ私が本当に歩かなくてはいけない一秒のはずで。
私の左手首の内側にはボタンがあって、それを押すと私の時間はその日の朝に――
――けれど恐怖は実感となって訪れる。私はやっぱり、あの日を超えるのが怖いんだ。あの深夜を、また過ごすのが怖いんだ。逃げることだって、戦うことだって、出来るはずなのにしたくない。だって逃げるべき相手じゃないから。戦うべき相手じゃないから。あの留守番電話の声の主は――お父さんは、そういう人だから。かけがえのない、私の家族だから。
リセットされた私の日常がもうすぐで一日の半分を過ぎるとして、今の私じゃない私は、いったい何を思ってこのボタンを――
――だったら、すべて受け入れろっていうの?
どれだけ出口を探し回っても、あの出口以外に何も見つからない。
フェードアウトしながら聞こえるその歌詞に、いつも胸がえぐりとられるような思いがする。つまらない一秒。くだらない一秒。私が今いる一秒は、いったいどんな一秒なんだろう――
――だから、すべてを受け入れろって、いうんだ。
置き去りにしてきた過去の私たちが、私にそう急かすんだ。
早くここから出してくれって、いうんだ。
生まれ変わった私自身がいつかすべてを諦めて、あまりにも残酷な現実を受け入れるようになるまでその日を繰り返し続けなければ――
――だから、ぜんぶ無駄なんだ。
何度したって無駄なんだ。
何度見たって占いは一緒だ。
何度見たって天気は晴れだ。
何度描いたって絵は消えるんだ。
何度聞いたって曲は終わるんだ。
何度乗ったってまた乗り過ごすんだ。
何度忘れたってまた会うんだ。
何度忘れたってまた会うんだ。
何度忘れたってまた会うんだ。
何度したって、
何度したって、
何度したって、
何度したって、
もう、何度、リセットしたって、
どうせ逃げられないんだ、
私。
つまらない一秒なんてあるのか
くだらない一秒なんてあるのか
「迎えに来たよ、和花」
だったら。
私が向き合う一秒全部、私が歩くべき一秒だ。
迎えに行くよ。
つまらなくてくだらない、私の一秒の始まりを。
「おかえり、お父さん」
朝目が覚めるといつも私は