三章 (1) 宰相家の遺物
翌日カゼスは早起きして、リトルの案内で王宮へと急いだ。
審議は午後から。出来るなら午前中に宰相の家に行って、本当にシザエル人の機械が眠っているのか、だとすれば最近それが動かされた形跡はないか、調べておきたかった。
でなければ間違いなく、ヤルスの無情な追及の手が魔術師たちに伸びるだろう。そして悪いことに今の段階では、魔術師の無実を証明できるのは同じ魔術師しかいないという状況なのだ。
ちょうど国王の謁見が終わり、補佐の務めを終えたヤルスが謁見殿から出てきたところに行き会わせ、カゼスはホッとして声をかけた。
「おはようございます」
挨拶に対してヤルスは不審な顔をした。
「確かに早いな。審議は午後からの筈だが」
「実はその前に確かめておきたいことが出てきたので……」
カゼスは少し声をひそめて、相手の顔色をうかがいながら続ける。
「あなたの家に、『赤眼の魔術師』が使った道具があるって聞いたんですけど」
案の定、反応は芳しくなかった。ヤルスは心持ち眉を寄せたきり、何の返事もしない。気まずくなるに充分な間があってから、ようやく彼は「で?」とだけ言った。
「あー、それで……」
カゼスはゆうべリトルと相談して決めた口実を持ち出した。
「もしかしたら、その中に私を元いた場所に帰らせてくれるものがあるかもしれないんです。だから、良ければ見せていただけないかと」
その頼みに、ヤルスは眉を片方つり上げた。表情の乏しい彼にしては結構な驚きだ。
「おまえならばあの奇妙なものが扱えると言うのか?」
「見てみないと分かりませんけど」
「分かった。ちょうど午後まで時間が空いているから、案内しよう」
拍子抜けするほどあっさりと承諾し、しかもカゼスが望み薄だと思っていた午前中の訪問を許してくれたのには、驚きを通り越して疑念が生じるほどだった。複雑な表情をしているカゼスに、ヤルスは例によって無表情のまま言った。
「私はおまえをさっさと追い返したいだけだ」
「あ、そうですか……」
かえって安心したカゼスを眺め、ヤルスは皮肉っぽい笑みをわずかに浮かべた。
「おまえは嫌われている方が落ち着くのか?」
「え、う、あ、そ、そんなことは」
思わぬ突っ込みを入れられ、カゼスはうろたえて言葉に詰まる。おたおたしている間に、ヤルスが言葉をつないだ。
「ならば、私も気が楽というものだ」
がっくりとカゼスは肩を落とし、とぼとぼとヤルスの後について歩きだした。そこまではっきり嫌っていると表明しなくてもいいだろうに、などと心中でぼやきながら。
だが確かにヤルスは、カゼスに対する厳しい警戒を幾分か緩めていた。物言いから極端な棘が消え、『私に近寄るな』とでも言わんばかりの気配を漂わせていたのが、いつの間にか薄れている。
(考えてみれば、こんな権力の中枢にいたんじゃ、自分に好かれようとして寄って来る人間の方が信用ならないのは当然だよな。大変だなぁ)
自分とそう歳も変わらなさそうなのに、言葉も態度も、好意すらも信じられない環境に暮らしているなんて。
しみじみそんな事を思い、カゼスは前を歩く青年宰相に同情をおぼえさえした。
ヤルスは一旦自分の執務室に戻り、従僕にあれこれと指示をしてから王宮の外へと足を向けた。カゼスは遅れないように歩きながらも、町並みや人々の様子を興味津々と観察していたが、ふと、豪勢に青いタイルで装飾された建物に気付いて首を傾げた。
アムルから聞いた、ターケ・ラウシールという慈善施設のことを思い出したが、それにしては贅沢すぎる。今カゼスが目にしているのは、手前の建物の陰になっている部分は見えないものの、壁もドームもなにもかもが、タイルのモザイクに覆われているのだ。ごてごての派手さではないが、荘厳な装飾が施されている。
「あの、あれは何ですか?」
王宮を除けば街で一番立派な建造物だろう。おずおずとカゼスが尋ねると、ヤルスは彼の指さすものに視線をやって冷ややかな表情をした。
「聖堂だ。ラウシールの」
声にはかすかに嫌悪の色がにじんでいる。カゼスは立派な建物に視線を戻し、困惑して目をしばたたかせた。
「エンリル様とかいう王様のじゃないんですか?」
「王は廟すら残さなかった。墓所も今でははっきりしない。それが遺言だったらしい。ラウシールは何も言わずデニスを去った。だから、今でも再来を信じる者が聖堂に集まっては祈っている。ほとんど信仰に近い」
つっけんどんに言葉を並べて説明し、ヤルスは苛立たしげに小さく鼻を鳴らした。
「エンリル王もついでに祀られているようなものだ。王や戦士たちの遺品と言われる物、あの時代に書き記された貴重な歴史書なども収蔵されている。この国の自己正当化の具現化したものがあれだ」
かなり辛辣な評だ。カゼスは驚いてヤルスを見たが、彼は深紅の瞳で射るように聖堂を睨みつけていた。その険しい表情を見るうち、カゼスの心にひとつの考えが浮かんだ。
「もしかして……ラウシールが嫌いなんですか?」
ぽろっと口に出した瞬間、激しい変化が生じた。ヤルスはいっそう目つきを険しくし、両手をぐっと握り締めたのだ。指が白くなるほど、爪をてのひらにくいこませて。
怒りが理性の抑制の下で反乱を起こしているのが、傍目にも分かった。しまった、とカゼスは自分の口を呪う。相手が一度もラウシールに『様』をつけなかったことを考えたら、この反応は予期して然るべきだったのに。
だがヤルスは鉄の自制心をもっていた。かなり努力しているのが感じられたが、長い沈黙の後で彼はゆっくりと息を吐き、手を開いた。視線を聖堂から引きはがし、足元に落とす。そしてまたしばらく黙り込み、彼はようやくぽつりと言った。
「……分からない」
よく聞き取れなかったが、さすがにカゼスもここで聞き返したり意味を問うたりするほど愚かではなかった。
ただ、何も言わないまま再び歩きだした相手の背中を見ると、なぜかひどく悲しい気分に襲われた。それがヤルスの心なのか、それとも自分のものか、はっきりしない。慰めようと手を触れたくなる衝動を堪え、カゼスは黙って後ろを歩いていった。
自分が最初あれほど敵愾心を向けられたのも、彼がラウシールを嫌っている――憎んでいると言ってよいほど嫌っているのなら、当然だと納得がいく。
なぜ? ラウシールが彼の血筋にかつてした仕打ちのせいか、それとも人々があまりに安易にラウシールを善と決め『赤眼の魔術師』を忌み嫌うからか?
カゼスには分からなかったし、またそれを知る権利もないように思われて、それ以上あれこれと推測するのはやめた。
しばらく歩いてようやく二人は大きな屋敷にたどり着いた。周囲の建物の規模から考えると、かなりの豪邸である。
門の前でぽかんと口を開けているカゼスに、ヤルスはやっと苦笑を見せた。
「何をしている。早く来い」
「あ、はいはい、すみません。あんまり立派なお屋敷だったんで、びっくりして……」
あたふたとカゼスはヤルスを追いかけ、だだっ広い中庭を通って建物に入った。
お帰りなさいませ、と使用人たちが挨拶をする。が、ヤルスから指示がない限り、客人は誰か、どうすれば良いかなどと訊きに来る者はいない。
ヤルスはカゼスの歩幅を考慮せずスタスタと先に進んでいたが、ふいに足を止めて振り返った。おかげでカゼスは衝突しそうになってたたらを踏む。
「先に、父と母に挨拶をしておこう。恐らく昼食をここでとることになるだろうから」
「あ、はい。ご両親はずっと家にいらっしゃるんですか?」
方向を変えたヤルスに従い、カゼスは相手の表情の変化に内心驚いた。無表情か冷淡かのどちらかだったその面に、穏やかな微笑の気配が漂っている。
「父は私に宰相位を譲ってから、家でのんびり趣味に時間をかけている。母は、あまり体が丈夫ではないのでな」
両親の事を話すにつれ、その表情が和んでゆく。それはまるで、冷たい石像が生命を吹き込まれて人間へと変身していくかのよう。
中庭に面した一室のカーテンをくぐる時には、声まで楽しげになっていた。
「父上、母上。客人を連れて参りました。昼からまた城に戻りますが、紹介します」
ヤルスはカゼスの腕をつかんで前に立たせる。ヤルスの両親は初老で、父親の方は窓際でなにやら鉢植えをいじっており、母親の方は椅子に腰掛けてくつろいでいた。
「珍しいな、おまえが客人を連れて来るとは……おや、異国の方かね?」
同じ銀髪と赤い目をした父親は、息子に比べるとずいぶん明るい空気をまとっている。落ち着いた中にも茶目っ気の残る口調で言い、彼はカゼスに目を向けた。
「はじめまして、カゼス=ナーラです」
慌ててカゼスはぺこりとお辞儀する。ヤルスが後を引き取った。
「異国から旅をして来た『長衣の者』の一人ですが、『赤眼の魔術師』の遺物に興味があるとのことなので、封印を解こうかと思うんですが」
「ああ、それはもちろん、おまえの判断に任せるとも。昼食は家で食べて行くだろう?」
前宰相はにこにこと言い、息子がうなずくと満足そうに笑った。
また後ほど、と言い置いてヤルスはカゼスを促して部屋を出る。カゼスは自分の肩を気安く持つ手が信じられなくて、不思議な気分になった。
まったく人を寄せ付ける気配のなかったヤルスが、この家に帰って来た途端にまるで旧知の友を扱うようにカゼスに接して来る。カゼス自身は他人に腕や肩を掴まれたりするのは正直言って嫌いな性質なのだが、それが気にならないほど自然な仕草だった。
部屋を出てからも、ヤルスの自然な態度は崩れなかった。
(この家の中でだけ人間に戻るみたいだ)
手招きする青年を眺め、カゼスはそんな感想を抱く。
「ご両親とはとても仲がいいんですね」
どんな言葉がヤルスにとって禁忌なのか分からないので、カゼスはおずおずと言った。幸い、ヤルスは嬉しそうににっこりして見せた。少し照れのまじった幸福そうな笑顔。
それを見たカゼスの胸に、苦いものがじわりと広がった。
「いいなぁ……」
ぽろりとカゼスの口から言葉がこぼれる。ヤルスは地下に降りる階段の前で、驚いたように足を止めた。振り返った表情は、ひどく人間的に感じられた。
「おまえの家族は……」
訊きかけた声に気遣いさえ感じられる。ヤルスは束の間カゼスを見つめ、結局、質問をするのは思い止どまった。誰しも触れられたくないことはある。
それから地下の封印された扉にたどり着くまで、二人は無言だった。
地下の通路はさほど長くなく、じきに行き止まりになっており、そこには扉があった。長い年月を経てなお冷たい輝きを放つ、合金の扉が。
〈リトル、どうやら……間違いないね、ここにシザエル人の機器が眠っているって事は〉
カゼスは用心しながら精神波でポーチの中の水晶球に話しかける。リトルはカゼスの目を通してその扉を観察していたらしく、うなずきの気配をよこした。
〈あなたが見ているものが幻覚でない限り、まず間違いありません〉
カゼスが見守る前で、ヤルスは手際よく電磁ロックを解除する。慣れた手つきだ。
「ここにはよく来る。父にも秘密で、だが」
カゼスの疑念を先読みしてヤルスが言った。
「自分の先祖たちが何を考え何を使い何をしたのか……その真実を知るために。ここには道具だけではなく、『赤眼の魔術師』の聖典も残されている」
シュッ、とドアがスライドする。貯蔵式の電源によるらしい、青白い蛍光が室内に自動的に点灯した。現れた光景にカゼスは息を飲んだ。
広い倉庫内には、大小様々な機械類が収められていた。布をかけられてさえいない物もあるし、一目見ただけでこれはもう駄目だと分かる物もある。だが、いくつかはまだ生きているだろう。使い方の分かる者さえいれば、いつでも目を覚ます――あるいは、もう覚ましているかも知れない。
「この中からその……界を渡る道具を探すのは、少し時間がかかるかも知れませんけど」
カゼスはぐるりを見回して言った。ヤルスは「構わない」とうなずくと、機器に埋もれるようにしてひっそりと置かれている書棚の縁に腰掛けた。その手が書棚の中の一冊を開いている。
離れた場所からも、それが何なのかカゼスにははっきり分かった。独特の装丁を施した書物、治安局の魔術師を志す者ならば確実に覚えさせられる禁断の書物。シザエル人たちのザール教の聖典だ。
(聖典自体は別に悪いものじゃないしな)
カゼスはそう考えてヤルスにあれこれ言わず、精神の網を広げて室内の探索にかかった。ひとつひとつ機械を見て回るよりは早いし、目的の物を見付けだすのと、この倉庫内の残留思念を探るのとが同時に出来る。
だが、幸か不幸か宝珠盗人の思念らしきものは見付からなかった。
残っている思念はと言えば、つい今しがたの自分の驚愕ぐらいで、あとはヤルスのごく希薄な感情が漂っているだけだ。
その感情は、不思議な感覚を与えた。悲しみと懐かしさと苦い思い、怒りの前兆のようなもの、そして、寂しさ。両親との深い絆をもっていそうなのに、なぜヤルスの内側にこれほどの空虚があるのか、不思議なほど。
カゼスはじきに思念の探索をやめた。踏み込んではいけない個人の領域に無断で侵入している、そんな気がして。
リトルもすぐに室内を走査して、ごく最近物が動かされたとおぼしき形跡はない、と断言した。犯行に使えそうな機器類は、ほとんどすべてが使い物にならなくなっているし、まだ生きているものにしても、少なくとも数年は動かされていない、と。
結局手がかりはないと諦め、時空転移装置を見付けると、カゼスは物質世界に意識を戻してヤルスを見やった。相変わらず彼は書棚に座ったまま、同じ姿勢で聖典のページをめくっている。
(寂しい人なんだ)
何となくそう感じた。他人を寄せ付けない冷たい空気、機械人形のような態度。家でだけ人間に戻る、あるいは人間になるのだろう。
見つめる視線に気付いたのか、ふとヤルスは顔を上げて赤い目を向けた。
「終わったのか?」
「あ、はい、どれかは分かりました。使えるかどうかはまだ、ちょっと」
慌ててカゼスは目をそらし、装置に駆け寄って覆いを取った。幸い、損傷は少ない。
〈この程度なら大丈夫です、使えますよ。二百年も前のものとは思えませんね〉
リトルが即座に保証してくれたが、カゼスはそれらしく見えるようにあちこち触ってから、ヤルスに向かってにこりとした。
「大丈夫、使えるみたいです。宝珠の件が片付いたら、またここに来てもいいですか?」
その言葉を理解するのに、ヤルスは随分かかったようだった。目をしばたたかせ、まじまじとカゼスを凝視し、やっと彼は声を上げた。
「『片付いたら』? 宝珠盗人を捕えるまで居座るつもりか?」
「捕まえられるかどうかは分かりませんけど、何らかの解決はつけないと、寝覚めが悪いですから。ここの魔術師が知らない調査方法も、私なら使えますし」
カゼスは肩を竦め、転移装置を一瞥してから視線を相手に戻した。
「その聖典、読めるんですか?」
話題を突然変えられて、ヤルスは一瞬どう反応すべきか躊躇したようだった。が、諦めたようにため息をつき、書物を閉じる。
「ああ、ちゃんとデニス語で記されている。これを読む限りではさして害のあるものだとも思えない。だが現在のデニスではすっかり邪教扱いだ。彼らの事を口にすることさえ、汚らわしいとでも言うような反応を見せられる」
その表情からは、再び感情が消えていた。
「自分の家系が悪者にされるのは……嫌ですよね。やっぱり」
カゼスはためらいがちにそんな事を言い、ヤルスのそばに行った。書棚に腰をあずけていてもまだ上にある赤い目が、皮肉な色を浮かべてカゼスを見下ろす。
「ラウシールならばこの倉庫もろとも我らの血筋を消してしまえるのではないのか?」
わずかに嘲笑のような響きがまじる声。
「私はラウシールじゃないから、何とも答えられませんよ。やるかもしれないし、やらないかもしれない。……でも、見逃すんじゃないかっていう気分の方が強いですね」
しばらく間を置いてそう答えたカゼスに、ヤルスは複雑な目を向けた。カゼスは顔を上げ、にこりとした。
「だって、本当に『赤眼の魔術師』に関わるすべてが悪いと思っていたのなら、とっくに銀髪の人はこのデニスからいなくなってますよ。そうしなかったって事は、ラウシールだって彼らを悪だと決めつけたわけじゃないって事でしょう?」
「……聖人には慈悲も必要だからな」
屈折した答えを発したヤルスだったが、その声にも表情にも、憎しみはなかった。憎しみもなかったが、その他の感情も。
言葉をつなげられず、カゼスは困ってまたなんとなく転移装置の所に戻り、何をするでもなく手を触れる。
「やはり故郷には帰りたいか」
ヤルスの声で、カゼスは振り返った。どこか悲しげな光を湛えた深紅の瞳が、カゼスを見つめている。その表情からにじみでる感情は、カゼスにはなじみ深いものだった。諦めたような寂しさと切なさ、そしてほんのわずか皮肉な気持ち。精神探索をしたばかりな為か、ヤルスの感情と自分の感情とが共鳴しているようだ。
「おまえにとってはあまり良い故郷だとは言えぬようだが、それでもか」
カゼスは、しばし黙り込んだ。言葉は喉元まで出かかっているが、それを通すには少し胸がつかえる。だが結局、彼は答えた。
「どこに行っても、自分や自分の過去からは逃れられませんから。それに私の場合は、今もまだ尾を引いているとは言え、すべて過去のものになっていますし……」
海青色の目を伏せ、彼はうつむく。
「私は……家族とは、血も心もつながっていないんです。生まれてこの方、誰かに愛されたとか保護されたとかいう気持ちになった事はありません……少なくとも覚えている限りではね。それでも……私はあっちの人間だから、帰らないと」
言葉の半ばで、もう誰に向かって話しているのかも分からなくなっていた。過去の記憶と感情が、潮が満ちるようにカゼスの意識を侵食していく。
「私は時々、幸福な人間など存在するのだろうかと思う」
ヤルスの声が、ぼんやりと心に響いた。カゼスは振り返らなかった。
「そもそも、人は本当に幸福になり得るのだろうか、と……」
それきり二人とも黙っていた。静寂が透明な水のように室内に満ちて行く。
時代も立場もまるで異なる筈なのに、今この時に抱いている感情は同じものだった。
遠くに光る星のようなものを、暗い地の底からふり仰いで立ち尽くしている。多分それは確かにそこにあり、手を伸ばし望みさえすれば手に入るのだろう。だが、もしそうではなかったらという恐怖が、彼らを凍らせるのだ。
ひっそりと息を殺し、暗闇に立ち止まる。自らそこに留まっていることは分かっている。歩きさえすれば良いという事も。だが進めない。
恐れ、絶望、孤独、寂しさや悲しみ――それらが足を石に変える。そしてただ、彼方の光を仰いでいるしかない。
先にそのイメージの海から浮上してきたのは、カゼスだった。
軽く頭を振り、とことこ歩いて地下室の出入り口に向かう。
「さあて、もうこれで機械は確かめられましたから、今はここに用はありません。上に戻りましょう、寒くってたまりませんよ」
「そうだな。昼食までまだ少し間があるが、父が相手をして欲しがるだろう」
ヤルスも苦笑を浮かべ、物思いを振り切って部屋から出ると、また扉をロックした。
階段を上がりながら、ふとカゼスは振り向いて言った。
「実を言うと最初、ヤルスさんの事を随分冷たい人だと思ったんですけど、なんだか安心しました」
その笑顔を、ヤルスは呆気に取られて眺めていた。驚きが引いて行くと、代わって言いようのない複雑な色がその面を覆う。カゼスが怪訝な顔をしている前で、最終的に彼は微笑を選択した。少しぎこちなくて苦いものだったが。
その変化に戸惑っているカゼスを追い越して、ヤルスは皮肉な表情になった。
「だからと言って私がおまえの味方になるとは思わぬことだな」
「え、う、そ、そういうつもりでは」
またしてもしどろもどろになるカゼス。その困惑した表情を面白そうに眺め、ヤルスはにやっと口元を歪めた。薄い唇が動いて何か言葉を紡いだが、カゼスには聞き取れなかった。できたとしても、たぶん信じられまい。
――ダガ多分、我々ハ似テイルノダロウ。
そんなことをつぶやいていたなどとは。
ともあれ、地上に出た二人は爽やかな風と明るい光に迎えられ、最前まで尾を引いていた暗い気分を追い払った。
そこにはヤルスの父親がおり、窓の外を眺めたりぶらぶら歩いたりしていた。待っていたようには見えない雰囲気だったが、やはり宰相家の主として『赤眼の魔術師』の遺品管理に責任を感じているのだろう。
「いかがでしたかな? お客人」
前宰相は穏やかに問うた。カゼスはどう答えたものかとしばし躊躇し、それから当たり障りのない笑みを浮かべた。
「とても……なんと言うか、不思議な物ばかりですね。いったい何に使うのか見当のつかない物がほとんどで……誰か使い方を知っているんですか?」
最後の質問はいささか白々しかったかも知れない。ヤルスがぴくっと眉を上げる。が、前宰相は何も疑念を抱かなかったらしく、苦笑して首を振った。
「いやいや。今ではもう、ただの記念碑ですよ。私の父などは熱心にその仕組みを知ろうとしていましたが、結局何も分からずじまいでしてね。私はあの奇妙な仕掛けに芸術性を見出してもおるのですが……」
そこで彼はちらっと息子に目を向け、予想通りの皮肉な表情がそこにあるのを見て、嘆かわしいとばかりため息をつく。
「息子はそれを認めんのです。芸術を理解しない愚息でしてね、誰に似たのやら」
カゼスが問うようにヤルスを見ると、彼はほんの少し、肩を竦めた。苦笑いが口元に浮かんでいる。どうやら、単に芸術を解するとかしないとかいうことではないらしい。
「お客人はどうです? あの複雑な仕掛けには一種の美があるとは思われませんか」
どう答えたものかとカゼスは戸惑い、結局はこの家の主と、ついでにリトルのご機嫌をとっておくことにした。
「そうですね。とても複雑に、それでいて精巧にそれぞれが連結している様は、芸術に通じるものがあると思います」
ぐふ、と妙な声を洩らしたのは、ヤルスだった。失笑を堪え損なったのだ。前宰相はやれやれという顔をして、肩を落とした。
「まったく……。おまえは母さんの具合を見てきなさい。客人は私が案内するから」
「わかりました」
答えたヤルスの声は、必死に笑いを抑えているため、震えている。その様子はまったく年相応の少年らしくて、カゼスはまた戸惑ってしまった。王宮にいる冷徹な宰相とは別人のようだ。途方に暮れた気分でヤルスを見ていると、彼はにやっとして小声で言った。
「父の唯一の悪癖だ。適当に褒めておいてくれ」
「はあ……?」
カゼスがまだ困惑しているうちに、ヤルスは父親の憤慨する声から逃れるように、さっさとその場を後にした。彼が行ってしまうと、前宰相はひとしきりぶつぶつ言ってから、表情をあらためてカゼスに向き直った。
「では、案内しましょうか。私が趣味で集めているものがありましてね」
先に立って廊下を歩いて行く。何かのコレクターだろう、とカゼスは考え、迂闊に賛同しなければ良かったかと後悔した。収集品を得意げに見せられても、同じ趣味でもない限り退屈なものである。実際カゼスはあまり芸術に理解がある方でもなかったので、心中密かにヤルスを恨んだ。
そこでふと、前宰相が振り向いた。
「あなたは息子と随分親しげなようですな」
「え? そうですか?」
唐突な言葉にカゼスは曖昧な返事をした。デニスに落ちてたった三日なのだ。随分親しいのか、それほど親しくないのかなど、判断のしようがない。
「客人をお連れすること自体が珍しいのです。そんな場合でも大抵は王宮での仕事の関係上やむなく、といった雰囲気で……あんな打ち解けた態度は初めてですよ。長年諸外国で遊学していたためか、デニスの空気にもなかなか馴染まないようでしてね」
前宰相はそっとため息をつく。
「私や妻には優しい子なのですが、王宮にいるせいか他人には心を許さないのです。あまりに早く宰相位を譲ってしまったのではないかと、時々悔やまれるほどですよ」
カゼスは何と言えば良いのか分からず、ただ困り顔になって沈黙した。ヤルスの態度が冷淡に感じられるのは、恐らく彼自身、自分の考え方がデニスではかなり異端に属するものであり、誰にも理解されず攻撃されるだけだ、と分かっているからだろう。
だがそうと言い切るには相手のことを知らなすぎたし、仮にそれが事実であったとしても、この優しい父親を安心させられる理由づけではない。
カゼスが返答に困っているのを見て、前宰相は苦笑を浮かべた。
「いや、申し訳ない。歳をとると愚痴っぽくなっていけませんな。どうぞ、こちらです」
そうして少し歩き、案内された一室には、案の定、絵皿を中心とした陶磁器の類が所狭しと並んでいた。その価値は分からぬものの、量に圧倒されてカゼスは絶句する。
〈なかなか良い陶磁器ですね。これだけの技術があるとは……最初に推測したよりもこの国の文明レベルは高いようです〉
リトルがいつの間にか外に出ていた。肩の辺りに浮かんだまま、陶磁器の厚さや形状、釉薬の内容などを調べているらしい。
地震でもあれば凄まじいことになるだろうな、などと考えながら、カゼスは相手の説明に適当な相槌を打っていた。